330部:結
4月29日京都
山科言継は、
昨日、京都留守居衆から聞いた噂話を、御所の殿上人や京都の友人たちに伝えて回っていた。そこで、真如堂の蓮光院住職は、直接、若狭や敦賀の様子を詳しく聞きたいと申し出たため、彼を伴って再度京都の信長宿所を訪問した。
宿所玄関先にて台所奉行の島田秀満を呼んだが、秀満は足利義昭に呼び出されて祗候した後だった。
しかし、留守居の佐藤三河や猪子入道の情報で、南近江の戦況で織田軍が苦境に立たされている状況を知る。
隣国の南近江にて、六角義賢(入道承禎)・六角義治親子が、鯰江城から出陣し、観音寺城周辺を方々放火して回っているといい、これに対して六角に反感を持っている後藤家を筆頭に、山岡家や、蒲生家が出動しているということだった。
更に悪いことには、北近江の浅井長政が六角氏と申合せて、織田信長に「別心」したという怪情報ももたらされたが、二人の判断では、これは六角配下の甲賀者や伊賀者の「流言の計」ではないかということだった。
(奇妙丸殿は、南近江の苦境をご存知ないかもしれぬ。冬姫のこともある。岐阜へ使者を送った方が良いの)
山科言継は、長年親交ある織田家の将来を心配し、奇妙丸のところへ京都の状況を知らせる使者を派遣することにした。
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京都、山科邸。
「父上、私が参ります。丁度、楽呂左衛門殿に譜面を確認してもらいたかったのです」
お結姫が、書き上げた譜面を持って言継のところへやってくる。
岐阜への使いと聞いて、使者を志願したのだ。
「ほうほう、音を記号に起こすことができたんかいな。いやしかし、南近江は政情が不安定なんや。女の身であればどうなることかわからへん」
「いえ、こういう時なればこそ、女の方が疑われますまい」
「うーむ。(結は楽呂左衛門に惚れたんかいのぅ?)では、姫に任せるか。危ないところは避けて通るんやで」
「はいっ」
「あっ、それから呂左衛門はんにも一筆書くから、持っていき」
「はいっ」
にこやかに答える結姫だ。困難な旅が予想されるが、勢いで乗り切るだろうと思われた。
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4月30日敦賀。
越前・近江国の情報収集にあたっていた伴一族の首領・伴ノ一郎左衛門が、休息していた信長を起こす。
「殿様、大変でございます」
「何事だ?」
「浅井家が反旗を翻したようです」
「何? 長政はどうした?」
「長政殿は、母親を人質に取られ越前に下向されました。それゆえ留守居の久政翁が清水谷の重臣会議を牛耳られ、“楚葉矢ノ剣を持つ六角家に従うべし“と・・」
「長政、しくじったか」
長政は、信長の進軍を朝倉に圧力をかける好機と判断し、母を取り戻す交渉の糧として利用するつもりだったが、隠居していた久政の当主権力復帰の「下克上」が長政の意表を突いたのだ。
(義父・久政の首、必ず取る・・)
お市のことを思うと、長政の両親に対して激しく怒りがこみ上げるが、ここは冷静にならなければならない。
信長は、一郎左衛門のもたらした情報を真実と嗅ぎ分ける。危機の時の信長の情報判断力は鋭く、決断は早い。
(もとより、久政は六角家に対して、長政を腹に身ごもった正室を人質に出す愚か者だった。今、京極小法師は我が手にあるが、長政の弟を六角家の娘と婚姻させて次期当主にでも擁立しようという算段だろう)
信長は、至急、傍衆に大将達の招集を命じる。
早朝に呼び出され、本陣に集まる大将達。
「これより、京都に戻る。全軍退却だ」
「「ええ?」」
「既に、細川様や徳川殿が出発してしまっていますが」
佐久間信盛が驚きを隠さないで質問する。
「すぐに呼び戻してこい」
「はい」
佐久間信盛が傍の者に使いを命じる。
「それから、金ケ崎城には秀吉が残れ、出来るか?」
「ははっ、有難き幸せ!」
雑草のような秀吉なら、どのような状況でも臨機応変に対処するであろうと、この男を信頼している。
「それから、手筒山城の池田勝正に使いを出し、秀吉と一緒に引き上げよと申し伝えよ」
「はいっ」と蜂須賀正勝が応える。
川筋の野党を束ねてきた蜂須賀も秀吉同様に使える男だ。何があっても生き残るだろう。
「では、戻る!」
平服する大将達を残して、信長は傍衆が引っ張ってきた愛馬に颯爽と飛び乗る。
信長本陣の旗元衆二千余は、一斉に動き始め、大将達は信長の出発を見送った。
その後、我先にと各部隊の撤収の準備が始まり、敦賀の陣地は大混乱を呈した。
松永軍は既に移動の準備をおえていたので、信長旗元衆に次いで引き揚げた。
こうして、木下秀吉を殿軍として金ヶ崎城を守備させ、細川や徳川の帰還を待たせる。
木下軍の下へは、各大将から頼みになる武将が援軍として寄せられ、精鋭達が軒並み秀吉配下となってこの窮地の殿軍を請け負うこととなる。
信長軍の退路は、来た時と同じ若狭国の西路を戻り、若狭近江を結ぶ街道の要衝・熊川の宿場町を経由して近江に入る。
宿場には、撤退軍を迎える第二の殿軍として坂井政尚軍を残し、軍監として蜂屋頼隆を付属した。
幕府衆の一色藤長は、ここで自身が丹後国に下向し軍勢を結集して若狭湾の防備にあたることを進言し、退却軍から離れた。
近江国に入ってからは朽木谷を通って帰京し、同日のうちに松永久秀軍や、従軍した他の武将達の軍勢二万余兵が、悉く京都まで退却した。
信長の早い判断により、織田の主要な軍勢は、温存されたのだった。




