324部:那比本宮神社
那比、本宮神宮。
お貞御前の呪力で、那比周辺は厚い雲がかかり、山道は濃霧に覆われていた。
武藤喜兵衛の放った斥候は、霧にまかれて門前まで容易に近づくことが出来ず、方角が確認できないため本隊に帰陣することも難しい。
山岸軍千余兵は、本宮の伽藍にそれぞれ部隊を配置し、槍、弓、鉄砲を獲物にして、織田奇妙丸軍を待ち構える。そして、霧雲が本宮の伽藍を包み込み山岸軍を隠す。
山岸軍の総大将・山岸光重は、大手の山門櫓に居た。
「よいか、できるだけひきつけろ」
山門を閉じ、櫓の二階欄干に身を隠す弓衆・鉄砲衆。その内訳は弓が大多数を占める。特に生活の糧として日頃から山間部での狩猟を生業としてきた山里の者は、昔からの伝統で弓の達者が多かった。
「放て!」
まずは、音の小さい弓が放たれ、何も知らずに歩いていた武田軍の先頭が、次々と射倒されてゆく。山門前で少しでも動く気配がすれば、弓矢が射こまれる。その狙いは正確だ。
「敵の待ち伏せ!」
「長屋の襲撃か!?」
「退けーーー」
同僚たちが次々と倒れ、焦った兵士は引き返そうとする。武田軍の先頭部隊は不意打ちに混乱する。
「撃てぇ!」
“ドドーーン”逃げる先頭部隊を狙った、鉄砲の轟音が鳴り響く。
「くそ! 反撃を!」
「いや、逃げろ!」
鉄砲の轟音と、味方の悲鳴や怒鳴り声が響き、武田軍全体に、その混乱がひろがっていた。
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奇妙丸本陣。
「敵襲のようです!」
前線の様子を伝えに来る白武者の伝令。
奇妙丸も馬を止める。喧騒の音は聞こえるが、霧が深くて前方の様子が良く分からない。
「武田軍が襲われている? 何処の軍勢が?」
於八が、襲撃者の様子を伝令に聞く。
「奇妙丸様、これは我々を襲撃した、山賊どもが混じっているのでは?」
生駒三吉が相手を推理する。
「あいつら、奇妙丸様を襲いやがってー」
池田勝九郎は、先日のことを思い出して怒り心頭だ。
「武田衆に加勢しろ!」
佐治新太郎は不意打ちばかりを仕掛ける敵の戦い方が気に食わない。
「待て、待てぃ!」
熱くなってゆく傍衆を、半兵衛が制止する。
「ここは山道のうえに谷間の地形。縦に細長く伸びた我々の軍は、圧倒的に不利です!武田衆には撤退せよとご連絡を!」
「そうだな、引け!引け!」
奇妙丸も即決断せねば被害が広がると直感した。
「「奇妙丸様の命令だ、退き陣だー!!!」」
輪唱されるように、次々と前線に撤退の言葉が伝わる。
半兵衛が奇妙丸に囁く。
「斎藤軍は、高賀に残して正解でしたね。これ以上の人数は撤退に不利でした」
「うむ。窮地の時に奴らの動きは分からないからな」
半兵衛は知略を巡らせるが、男気があるというか、美学があり筋が通っていると思う。斎藤利三も知略に優れているが私情のために動いている気がして、どこか信頼が置けない。
「半兵衛殿、お婆様と姉妹の護衛を頼む!」
「お任せを!」
前線の騒ぎに誰もが駆け付けたいところだが、細い山道のせいで、前から後ろまで細長く伸びた隊列のため、今は退路を確かとすることが重要だ。
黒武者の伝令が流れに逆らってやってくる。
「奇妙丸様、山田殿から連絡です。一応、後方に備えながら退きますと!」
山田勝盛も、斎藤軍の動きを警戒し、利三のことを信用していないようだ。
「頼むと伝えてくれ!」
伝令は、獣道を利用して自分の部隊へ戻る。
奇妙丸軍は、徐々に来た道を引き返し始めた。
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前線の武田軍は、最初は敵に意表を突かれたが、武藤喜兵衛の指揮で素早く態勢を立て直し、弓・鉄砲にて反撃する。
外から襲撃してくる木地衆に対しては、山岸家に思うところのある三枝部隊の奮戦もあって、混乱を最小限に留めて良く持ちこたえている。
「こちらの斥候も出し抜かれたな、濃霧は本当に嫌いだ」
喜兵衛がしかめっ面でぼやく。
「山の天候ですから、仕方ありませんよ。条件は相手も同じです。このような時が、大将の判断力の見せ所」
諭すような三枝の言葉に、喜兵衛は苦笑いする。
「まあ、退き陣に利用もできるが・・」
上杉入道謙信と、御屋形様の川中島の合戦の時もこのような濃霧だったのだろうなと、ふと以前に御屋形様から聞いた夜話を思い出す。
「奴らの中に木地衆がいますね」
三枝は、昔からの経緯もあって、彼らのことをあまり好きではない。
「山の民か、それは手強いな」
喜兵衛は後ろを振り返り、行列の後ろの方向を見るが、霧のせいで織田軍の様子は良くわからない。
「奇妙丸殿の鉄砲衆が来てくれれば助かるが、この細き道では仕方ない。このままじりじりと、奴らの射程範囲から退くのだ」
気持ちを切り替えて、前線に指揮を出す。
「敵を恐れるな!」
「落ち着いて退け!」
武田家の熟練の戦功者が、経験の浅い若手の兵士たちを叱咤しながら、徐々に本宮神社から離れる。
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