296部:喪山
「嘘のように痛みが引きました!」
破顔する桜。
「そうですか、それは良かった」
優しく答える女性。
深く被った塗笠の、笠布の隙間から見える女性の横顔は端正に整っていて美しく、冬姫にどことなく似ている。
亡き母の若い頃は、このような女性だったのだろうか。
「治療して頂き有難うございます。しかしこれは、いったいどうやって?」
「良くなってと念じただけですよ」
そこへ、桜と同世代程の娘が駆け寄ってきた。
「お姉さま、日が暮れるまでに参りませんと」
「そうでしたね」
音もなく立ち上がる女性。身のこなしはどこか品がある。
「この先の村長に呼ばれているので、私はこれで失礼しますね。 お大事に」
「有難うございます」
「待って、お名前を!」
女性の正体を知りたくなった奇妙丸。
「また、すぐに会えるでしょう。そのような予感がします」
「は? 」
女性の声は小さく、よく聞き取れなかった。
ふたりの女性は、しずしずと行列に戻った。
「行ってしまった」
奇妙丸一行はただ茫然と旅の一団を見送った。
不審な一団と無理に止めるのも失礼にあたる。恩を仇で返す訳にもいかない。
*****
「不思議な雰囲気を持つ方でした」
森於九はつい先刻の出来事が夢の様に思え、周りの者に確認しようとする。
「しかも、ふたりとも美人だった」
呟く於勝。それに頷く正九郎。
「姉妹なのだな」
於八が顎に手を当てて分析する。
「妹の方が活発そうだったな」
三吉は姉よりも妹の方が人として親しみをもてそうだと思った。
見送った一団の方向から、佐治新太郎が戻って来る。
「水を汲んできたぞ!」
「有難うございます」
礼を言う桜。
「ご苦労だった新太郎!」
「この先に神社があり、その境内に泉がありました」
小高い山の麓にある森を指す。そこには古びてはいるが、森の木々から一段飛び出す巨大な鳥居が見える。
「あの神社は、かつては喪山山頂にあったという喪山天神社です」
案内人の新八郎光成が、鳥居を指さして説明する。
「山頂から麓に移ったのだな。私も見てみたいし、今日はあそこで宿泊しよう」
「「はっ!我君!!」」
一斉に奇妙丸に同意する一同。今夜の野営地は喪山天神社だ。
*****
「喪山の神は、遠い古からの神だ。大和の三輪山のように山全体が御神体だったのかもしれぬ」と、現地にて説明する半兵衛。
喪山にまつられていた喪山天神社は今は寂れ、北方の天王山の麓、楓谷の大矢田神社(牛頭天王社)の境内社となっている。
「ここの御祭神に宿を借りる挨拶をしておかなければな!」
拝殿に向かう奇妙丸達。
奥から、年老いた神職の男が出てきた。
「神主殿、一夜の宿を借りるお礼を奏上させて下さい」
「良き心がけです。ここの大宮司様は大矢田神社の祭りに参上し、私が留守を預かっております。どうぞご自由になさって下さい。この拝殿の神は、古事記にも登場する天ノ若日子神様です」
「天ノ若日子神様」
・・・高天原から、大国主の治める豊葦原中津国へ、国譲りの交渉の為に派遣された天ノ菩比神が三年たっても戻らない、天ノ菩比神の兄弟である天津彦根神の息子が代わりに派遣された。それが天ノ若日子神だ(またの名を天ノ稚彦)。
そして、天ノ若日子神は、天津国玉(天御魂)の娘婿になり八年たっても高天原にもどらなかったという。
「伝説では反逆の神様だが、このようにしっかりと祀られているのだな」
「恨みを残して死ぬと怨念が残ります。朝廷は天ノ若日子神の祟りを恐れてここに喪屋を建立したのでしょう」
「荒ぶる魂を鎮める為の神社だったか・・」
「今では、その名前の由来でさえも里の人々の記憶から忘れられようとしていますが」
「時が若日子神の荒魂を慰めているのではないだろうか」
神職との会話の後、御神体の鏡に祈りを捧げる奇妙丸達。
(天ノ若日子様、御心静かに我らをお見守り下さい)
****
境内にて野営する一行。
「奇妙丸様、どうしてこの美濃国に出雲大国主の娘婿の喪屋があるのでしょうか?」
金森甚七郎が素朴な疑問を訪ねる。
「皆、天ノ若日子神のことは知っているな? 古事記や日本書紀にも登場する有名な神だ」
「たしか、天ノ邪鬼とも呼ばれていますよね」
「それは、天に逆らったが故の蔑称なのでしょう」
と半兵衛。
「天ノ若日子神は、庭先に来た高天原神の使者である雉子を矢で射殺すが、その矢が天から戻って来て、返し矢に当たって死んだ。
若日子を失った妻・下照姫の泣き叫ぶ声は天まで響き、父である天津国玉が降臨したという。
葬儀のとき、下照姫の兄の阿遅志貴高彦根神が喪屋を弔ふと、
高彦根神は死んだ天ノ若日子と容貌がよく似ていたので、親族は「天若日子が生き返ったようだ」と言った。
阿遅志貴高彦根神は、死人と間違へられたことを怒り、喪屋を足で蹴飛ばし暴れる。喪屋は空を飛んで美濃国の藍見川の川上に至った、それが今の喪山(美濃市大矢田)である」
奇妙丸が、伝説の結末を語る。
「酷い奴ですね」
と、於勝の率直な意見に、ぎょっとする周囲。
はっはっはっは、と笑い於勝の背中を叩く於八。
「天津国玉は、大国主の息子である建御方富神のことだろうか?(浅井姫は建息長刀美ノ命と呼んでいた・・) 半兵衛殿はどう思われる?」
若日子神の父は天津彦根のはず。国玉とは大国主を指している可能性がある。
「そうですね、建御方富命とも別の時代に、天ノ若日子の一族が滅ぼされた歴史があったのかもしれません。
しかし、古事記や日本書紀に秘められた大和国家形成の物語が、この美濃や信濃にも関連するのは間違いないことでしょう」
「そうか、出雲や日向の事ばかりかと思っていたが、広く坂東にも及ぶような物語なのかもしれないのだな」
奇妙丸の言葉に頷く半兵衛。
「そうです。美濃に来た阿遅志貴高彦根神は、別名を天ノ夷鳥とも言う。又の名を天ノ日照命。これは出雲国造家の祖とされます」
「出雲の神が、美濃の神を討ったと理解しているのか? 同じ大国主の系譜に入るのに可笑しなことだな。内乱だったのか?」
(というか、王家が複数あったことに驚きだな。いや、しかし、もし私が王ならば、広い国土を支配する為に弟達もそれぞれに領土があてがって国を分割統治させているかもしれない。
古代の国家の形は、本家を中心に各地を分家が分割統治していた・・、それならば伝説の語ろうとしていることも分かるような気がする)
「今の戦国の世と重ねれば、跡目争いの内紛かなにかだったとは容易に想像されます」
「神々の世にもそのようなことが・・」
「天ノ日照と読むなら、対となる下照姫は、天津下照姫でしょうか」
桜は、独り残された妻である下照姫の伝承が気になった。
「成程、両極の神か。冴えているな桜殿」
半兵衛は桜の推理力に感心する。
桜が元気になった様子で、本当に良かったと思う奇妙丸。
「シナテル・・・、信濃国と関連する姫ならば、天界・下界と理解するよりも、西国と東国と考えてみても良いかもしれぬ」
(伊賀者により竹生島から奪われた、楚葉矢ノ剣の行方も気がかりだな・・)
その後も、傍衆達は宿営本陣の松明の炎を囲んで、深夜まで語り合うのだった。
*****
*1 建御方富命ノ神 タケミナカタトミノミコトノカミ。大国主の息子、高天原から派遣された建布津、建御雷の両神に敗北し信濃諏訪に落ちる。270部・272部に名前のみ登場。




