291部:九頭竜王
一行は安桜山城下町に入り、大手街道傍の春日神社境内にて隊伍を分割し、隊長達は隊員それぞれに役割と集合時刻を告げる。あとはそれぞれ休息を兼ねての自由行動とした。
木陰に馬を繋いで休ませる者、物資の補給に出かける者、緊張から解放され垣根にもたれてへたり込んで眠る者もいる。
「広い境内があってよかったですね」
奇妙丸が黒武者衆、白武者衆、傍衆、竹中衆の様子を見ながら、傍らの於八の言葉に頷く。
「ここが、美濃の刀工たちの根拠地か」
・・・春日神社の創建は鎌倉公方全盛の頃。大和国から関に移り住んだ刀剣鍛冶師達が共同出資し、この地に大和国の春日大明神を勧請した。
「ええ、門前には多くの鍛冶屋が軒を連ねていますね」
於八が相槌を打つ。於勝は鍛冶屋街をキョロキョロと見回している。
「関は春日社を中心に斎藤道三様の頃から再整備され、美濃国の誇る鉄鉱産業の中心地として栄えて来たのです」
隊を解散させて半兵衛が奇妙丸の下にやって来た。
「北・東美濃の豊富な山林資源を燃料に、近隣の金山等の鉱山から得られる鉱物資源、長良川や木曽川の水源と、豊富な水量を活かした流通が成立することにより、この繁栄があるわけです」
「立地の条件が素晴らしい所なのだな」
竹中半兵衛の言葉には説得力がある。
「はい、そして鎌倉期に当時の刀工、敦賀の清泉寺金重、関ノ兼永が、鍛冶の神として奈良春日大明神を崇拝し、祖国を思い建立したと伝わります」
「春日大明神。藤原氏の氏神である武甕槌神、武布津主神、天ノ児屋根神、その妻である比売神・天ノ美津玉照姫の事と言う」
奇妙丸がその記憶を辿る。
織田家嫡男たるもの、津島天王社と熱田大宮司にも劣らぬ神仏についての教育を受けて来た。圧倒的物量の詰め込み教育を受けたが、興味もあったので奇妙丸にとっては苦に感じる事はなかった。
父・信長は、織田家伝統の詰め込み教育に反発を感じ、馬に乗って城を飛び出しては狂ったように野原を駆け回っていたという話も当時を知る者から伝え聞いたことがある。しかし、補佐役となる良き人物達と出会い、その時その場での具申を聞いて、経験として積み重ね現在があるという。ただ駆け回っていたのではなく自らの五感で確かめようとしていたのだ。
信長は反発を覚えたが、日本国家の「天道の正しき形」を見るには必要な事だったのだと肌で感じ、奇妙丸にもそれを強いたのだろう。
今、奇妙丸も方法は違うが、先に学んだことを目と耳で再確認し、父の跡を追っていると思う。
「姫神様とは、玉照姫とも呼ばれるのですか?」
桜が奇妙丸に尋ねる。最近は桜も古代史の面白さに目覚めた様子だ。
「想像するに、玉が名につく姫は、古代からの帝の系譜、玉依姫に近い神なのだろうな」
奇妙丸は質問には必ず答えようと努力する。
「そうなのでしょうか?」
半兵衛が異議を唱えた。
「照のつく神は多くいます。列島の各地方にそれぞれの照神がいて、王家の婚姻などにより次第に国同士が統合され、一つの帝王の系譜となったのではないでしょうか?」
目を閉じて、『記紀』の系譜に登場する、各地の地名と神の名を思う。
「半兵衛殿の推測も分かる。そう考えると、腑に落ちる面もあるな」
「歴史は様々な立場で振り返り検証してみることで、都合よく残された歴史の流れでない別の流れが見えてくる場合もあります」
「ふぅむ。今の歴史は“死人に口なし”ということでその時々の支配者一族により都合よく捻じ曲げられているかもしれぬと・・」
「はい」
半兵衛が深く頷く。
「この安桜山の麓の地も、古代の伝承とは深く関わりがありそうな雰囲気だな」
指示を終えて山田勝盛がやって来た。
「はい、城下の四方に古くからの古刹が鎮座しています」
と大島新八郎光成が、出番が来たとばかりに張り切って答える。
春日社から更に東には吉田観音と呼ばれる新長谷寺がある。これは鎌倉時代に創建された古刹だ。
・・・承久3年(1222)、承久の乱後、鎌倉幕府により擁立され、即位した後堀河天皇(当時10歳)の勅命により、空海の四世・護認上人が開山した。
護認上人が大和国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)で修行していた際、霊夢の御告げがあり、それにより本尊・木造 十一面観音 立像を獲得する事が出来たと伝えられる。
しかし、病弱だったとされる後堀川帝は12年後に崩御するが、激しく幕府を恨んだ後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂された。
「はせでら ではなく、ちょうこくじと読むのか?」
「はい。何故だかは分かりません。本尊は十一面観音像です」
大島新八郎は、知識の乏しさを申し訳なさそうに答える。
「本尊は長谷寺と同じなのか・・」
偶然にしては不可解だなと思う奇妙丸。
・・・・・大和国長谷寺の創建は奈良時代。8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。伝承によれば、天武帝の朱鳥元年(686年)、僧の「道明」が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立した。
続いて神亀4年(727年)、僧の「徳道」が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したという。
「面白い話があります。長谷寺開山と同じ頃に白山を開いた泰澄上人は、竜の神を否定して、十一面観音を召喚したと言います」
・・・修験僧の泰澄(682~767)は、717年に白山を開山した「越の大徳」と言われる人物だ。越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族・三神安角の次男として生まれる。14歳の時出家し、修験者・法澄(のちの泰澄)と名乗る。
彼は越智山にのぼり、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝2年(702年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、豊原寺を建立する。
717年(養老元年)白山に登って加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰に登って修行を重ねる泰澄が、頂上の緑碧池(翠ヶ池)ほとりで瞑想していた時に、池底から九頭竜王が出現したという。
しかし、それを見て「私の信仰する神の姿は、この様な荒ぶる神の化身ではない!」と更に念じた。すると、竜神は姿を消し変わって十一面観音が現れたという。
泰澄はこれに満足し十一面妙理大菩薩を感得した。そして同年、越前国にて平泉寺を建立する。平泉寺は今や比叡山にも劣らぬ修験の聖地だ。
泰澄は、養老3年からは、越前国を離れ各地にて仏教の布教活動を行う。
養老6年、元正天皇の病気平癒を祈願したその功により神融禅師の号を賜った。天平9年(737年)には、流行した疱瘡を収束させた功で名を馳せ、称徳天皇に即位の折り「正一位大僧正位」を賜り、名を法澄から「泰澄」に改名した。
「白山の神は九頭竜だったのか」水を飲んで戻って来た傍衆の森於九が「九」に反応する。
「ヤマタノオロチよりも一つ頭が多いですね」と正九郎。
「そこ?」と正九郎に突っ込む三吉。
「白山の神も十一面観音というのは奇遇だな」
半兵衛の言わんとすることを推し量る奇妙丸。
「現在は、”白山権現”と呼ばれ民衆に親しまれています」
・・・・・・・白山権現は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。
「そういえば、岐阜城にも山頂に白山権現が祀られているではないか!!」
「「あっ!!」」と顔を見合わせる傍衆達。
「上之権現」と呼ばれる遥拝所で毎日ご神体を拝んでいたのだったと、十一面観音神に急に親しみが湧いてきた。
(金華山の上之権現はいつ祀られたものなのだろう? そもそも、天武帝や後堀河帝の十一面観音への想いとは?
何のためにその様な事がおこなわれたのだろう・・)
「天武帝の頃から、白山権現や長谷寺が整理されたということになるな」
奇妙丸の疑問に、傍衆達が答えを考える。
「十一面観音の功徳をもってして国家鎮護の願いをかけたのでは?」
と於八の分析。
「近畿以東の荒ぶる神を否定し、御仏の力による・・・」
生駒三吉は、畿内視点で当時の東国を想像する。
古代史に思いを馳せる奇妙丸達だった。
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