290部:武儀(むぎ)関城
安桜山山麓、関城城下町。
「東美濃無双の城塞都市」の異名をとるに相応しく、惣構えの機能を持つ外堀が東西南北周囲に巡り、外堀沿いに築かれた外曲輪の盛土と城壁に囲まれた城下町が広がる(ここでは岐阜以東を東美濃とします)。
城下町の周溝でもある東方側堀(吉田川)は、堀底の中央が深い「薬研堀」の掘り方。
南方側堀(津保川)は片側が深くなる「片薬研堀」が交互に造られ、航路が船底の深さで限定される構造となっている。
城内の者が日常的に船を使っていれば記憶できる航路だが、敵方の者が船にのって堀内に侵入すれば、周溝の構造を知らないので、船底を石垣に座礁させてしまう。
もしくは、底板を傷つけ転覆や沈没することになる。敵船の侵入を拒む罠が潜んでいるのだ。
外堀西方側には、堀と盛土の間に段上の平場があり、商船の積み荷の荷上場に利用されている。西側の堀(関川)の底は箱堀にされていて、船の往来が可能な運河の機能も備えている。関城は平山城ながら長良川の流れを利用した水城でもあった。
敵方が長良川の流れに乗って船で西方運河(関川)から攻め込んだ場合、守備の面では容易に上陸を許すことになるが、運河に沿って築かれた高い盛土の土塁と城壁により城内への侵入は許さない構造だ。
更に、城壁を乗り越えても、ニノ丸山城の西斜面はまるで天まで届くような野面積みの石垣が聳え立ち、敵兵がよじ登る気持ちを萎えさせる。
丹羽長秀の下では織田家の技能集団、織田家工作部隊が養成され、後に関城改築の際にも蓄えられた技術が、近江の名城・佐和山城の誕生や、織田信長の本城・安土城の誕生へと繋がって行く事となる。
奇妙丸一行は南側の大手門櫓の下にまできて、眼前に聳え立つ巨大城門の門構えを見上げる。
黒金造りの漆黒の門戸に驚く一行。ここにも熱田神宮と同じく身分を明確にする各門戸が左右に設置され出張った区画で仕切られている。そして大手門櫓の両傍らには太鼓櫓が設置され、門・櫓が凹凸構造になっている。
太鼓櫓の真下にある、他国の者と犯罪者の通る厚木戸門は特に厳重な造りであることが見ただけでも判る。
さらに厚木戸門の通過者は、正面と左右の狭間から警備兵により見張られ、織田家に仇なす者が城門の前に立てば、三方から狙い撃ちされる構造だ。
城門の真下まで来て、櫓の欄干にいる衛兵を見上げる奇妙丸。予め伝令が奇妙丸一行の到着することを伝えていたので、城兵方も出迎える為に大手門に集結していた。
「織田奇妙丸だ!開門せよ!」
欄干に居た武将が、奇妙丸の人相を確認する。
「奇妙丸様に間違い御座いませぬ!」
奇妙丸一行を迎え入れる為に、日頃は開くことの無い大手門の大扉がゆっくりと開く。
奇妙丸達の到着を確認し、大島光義*の留守居、嫡男の大島次右衛門光安が櫓から飛び出す様に降りて来て城門を開けて出迎える。
・・・次右衛門光安は今年30歳、父・光義にも劣らぬ勇将だ。彼の長男には大島新八郎光成がいる。光成は奇妙丸よりも4歳年少だが今年早くも元服していた。光安には年齢の離れた弟がいるが、弟達と光成の年齢があまりにも近い事を心配した祖父・光義が、早くに嫡流家を光成に相続させて筋目を明らかとし、弟は栗山氏の養子に出して、加治田城主となった斎藤新五長龍の下に出仕させている。
「若様、よくぞお越しくださいました。この我が息子・新八郎光成が城内をご案内致します」
若武者・新八郎光成が、奇妙丸の前に進み出る。強弓の勇将・大島光義の孫なだけあって腕が長く筋骨隆々の恵まれた体躯をし、しっかりと祖父の良いところを継承している様だ。
「宜しく頼む」
奇妙丸の言葉に、光安と光成親子が深々とお辞儀した。
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「それでは、早速」と関城内の案内する役目を受けた新八郎光成は張り切っている。
奇妙丸が光成に話しかける。
「お主の祖父・光義殿も新八郎と言ったな?」
「はい、現在は入道雲八と名乗っています」
「成程、お主は光義殿の名を引き継いだ訳だな」
「祖父の武名に恥じぬよう、精進したいと思います」
「うむ」
納得して、改めて関城の大手門を見上げる奇妙丸。
「立派な太鼓がある太鼓櫓だな」
「はい、山頂の物見楼閣まで音が聞こえるようになっています」
太鼓櫓に備えられた大太鼓は、関城下全域にまで聞こえる大音響を発するというが、この大太鼓をバチで叩きこなすには、余程の膂力が必要だろう。大島家臣団は強弓使いが多いとの噂が聴こえるので、その特徴を生かした通信設備が設けられたのかもしれない。
「丹羽五郎左衛門殿が、広大な城下町と城を監督するために城門に備え付けたそうです」
「丹羽殿は、準備の良い方だな」
奇妙丸の傍に控える於八も、改めて家老衆の若手筆頭ともいえる丹羽五郎左衛門に敬意の念をもつのだった。
黒金門をくぐり、内部に足を踏み入れる一行。
前方には広場があり、正面奥には石垣の壁が現れた。岐阜城と同じ虎口状の構造となっている様子だ。
しかし、岐阜城と違う処は、虎口を抜けて次の門を通り抜けると、四方を石垣と櫓に囲まれた空間が出現することである。
「これは枡形!」半兵衛がこの日一番の大きな声で嬉しそうに発言する。日頃冷静な半兵衛だが城門を通り抜ける時には気分が高揚する様子だ。
ここは、城門を破って入った敵兵がこの枡形に充満したところで、四方の城壁の狭間から狙い撃ちされる「死の空間」となる。
「ここは先年の改修工事で新たに竣工した場所です」
光成が説明する。
(見事だ、丹羽長秀殿!)
枡形の中心に立ち、四方を見渡して合理的な構造に感心する竹中半兵衛。半兵衛の頭の中では、どうやってこの城門を攻略するかいろいろと作戦が練られているのだろう。
「ほう、なかなかですね」
楽呂左衛門も門を通り抜けてから、その守備能力を値踏みしていた。
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*大島家の系譜には疑念をもっています。光義の出生年が1508年なのですが、系譜上で嫡男とされる光成の成年が1559年とされるのが通説です。関ケ原で東軍・西軍に分かれ、更に光成の後裔が三代で断絶する中で、系譜を引き継いだ光政の系統が、嫡流に自らの系譜を寄せたのではないだろうかとも思えます。そこで色々と年代上の齟齬が生じて、光義の長男誕生年が40歳代ということになったのではとも思う訳です。江戸徳川史観の中で消された敗者の歴史を考えてみたいと思いますので、ここでは自分の思いで説を書き進めます(フィクションです)。




