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織田信忠ー奇妙丸道中記ー Lost Generation  作者: 鳥見 勝成
第三十六話(関・安桜山編)
289/404

289部:安桜山

岐阜と郡上を結ぶ北美濃街道(別名:白山はくさん郡上ぐんじょう街道)と、列島の東西を結ぶ中山道なかせんどう大街道の交差合流地である、武儀むぎ郡のせき


関は、「こし白山しらやま白山はくさん山麓から流れ出る清流・長良川ながらがわに沿って開かれた北美濃街道の要衝地であり、古代から白山信仰の道として栄えた街道の出発拠点でもあり、白山 御師おんしや修験者の布教活動により日本全国に知られた宿場町だ。


岐阜城から関城を目指し中山道を東に進む奇妙丸一行の前方に、信長の義弟・丹羽五郎左衛門長秀が織田家城郭として新しく整備し、北東尾張の小牧山城下町に劣らぬ、東美濃に一帯に威容を誇る城塞都市が見えてきた。

関城の象徴でもある三層の物見楼閣*が、眼下に広がる濃尾の平野(木曽川の扇状地:各務原)を見下ろす様に佇む。


関城は別名・安桜山あざくらやま城という。四方をお堀に囲まれた関城下町。その中心にある安桜あさくら山の山頂(標高152m)にある。織田家では朝倉あさくらと同じ響きを嫌い、今は安桜山あざくらやまと呼ぶ。


・・・・・関城は、かつて長井長弘が関領主として入る以前、室町幕府に出仕する村山三河守が居城としていたともいう。

享禄元年(1528)に美濃の小守護代・長井長弘がそれを大幅に改修工事し築いた山城だ。長井長弘は守護土岐家の守護代・斎藤家を牛耳る有力者で、京都の油商人・松波庄五郎(西村勘九郎)を斎藤家に採用した人物だ。

美濃の騒乱の中で長井家代々の城主が手を加えて城塞化し、安桜山山頂に本丸、山の南側は急峻な岩壁、北側の斜面には複数の曲輪が造られ北の山麓は城前という。西に水道山、東に観音山と尾根が連なり、それぞれに二ノ丸と三ノ丸が設けられている。

丹羽長秀が入城してからは、黒屋から引いた用水が城の北で東西に分かれ、東は吉田川、西は関川となって城を巡り、南で津保川に注いでいる。

これらは尾張・美濃・三河の三ケ国の民衆を動員して掘られたもので、津保川と長良川を合わせて東西南北の守りを固める惣構の機能を持っている。

特に北街道と接する西面の水道山すいどうさんの山麓には、織田家工兵部隊の最新技術を用いた石垣でニノ丸曲輪が造られている。


その城は、現在は丹羽長秀の居城*だが、長秀在京の際に留守居として、丹羽家家老の大島新八郎光義が守備している。


・・・大島光義は元々、斎藤道三の舎弟・長井道利の重臣だったが、斎藤家を見限って織田家へと寝返り、丹羽長秀により抜擢されて城代となっている。年齢は今年62歳を迎える老将で長秀の27歳年長だ。早くに父を亡くし、13歳での初陣以来、弓をもって数々の武勲を立てて関に大島ありと怖れられてきた。



「石垣が壮観だな!」

金山城に暮らす於勝には帰郷の際にいつも見る景色なのだが、いつみても感動すら覚える。

「これも、織田家の城となってからの事なのか?」

奇妙丸の問いに頷く於八。

「白山に詣でる参拝者は、関城の堅固な構えに威圧されますね」

生駒三吉が率直な感想を述べる。

丹羽長秀は、白山詣での信者の旅行記や口伝えを利用して、織田家の城郭の素晴らしさを全国に宣伝しようと考えていた。

「誠に、五郎左殿は織田家随一の切れ者に御座います」

いつのまにか奇妙丸の傍までやって来ていた竹中半兵衛が、丹羽長秀を褒め讃える。

「龍興時代に、ここの城主だった長井道利の妻は、郡上郡の実力者・遠藤盛数の元妻であり、現当主・盛枝の母で御座いました」

「西遠藤家の盛枝(のちに慶隆と改名)か」

奇妙丸の問いに半兵衛が頷く。

「はい。郡上郡の実権を取り戻したい西遠藤家の思惑と、東美濃を抑え我が物としたい長井道利殿の思惑が一致した結果に御座います」

「長井家は、この関を拠点に繫栄していたのだな。父上は丹羽殿に長井道利殿の果たした様な役割を求めて抜擢されたのだろう」

「ゆっくりと腰を据える間もなく上洛戦に活躍されているので、丹羽殿が城主である印象が薄いですね」


「しかし、厳格な治安と、公正な法を整備されて、民衆は安心して生活することが出来ている様子です」

金山城主・森可成の息子としての視点で、丹羽長秀の城下を見る於勝。

「罪を犯した者からは、鬼五郎左と呼ばれているそうです」

佐治新太郎が京洛での長秀の評価を伝える。

丹羽長秀は畿内でも、織田家の法の監督者として勇名(利権に動く富裕層にとっては悪名でもある)を轟かしていた。


「丹羽殿は安桜山あさくらやまを「あざくらやま」と改名されたそうだ」

「朝倉氏と対立している時に、安桜あさくら山とは呼びたくないよな」

「「うむ」」

気持ちは理解できると一斉に頷く傍衆達。それほどに朝倉家は憎悪され始めている。


「しかし、あさくら と呼ばれたそれよりも以前は荒倉山あらくらやまと呼ばれていたようです*」

「荒倉神を祀る山だったのだろうか?」

「安桜山山頂には御岳山を望む「御嶽大神神社」が鎮座しています」

「大神神社か・・」

「おかみを社名とする神社は、きっとオオカミが、昔から住んで居たのですよ」と言い切る於勝。

半兵衛は物事を真っすぐに捉えて本質を突く於勝の考えに、それもあるかもしれぬ。と否定はしない。

於勝に微笑みを返し話を進める半兵衛。


「麓には神明神社があるのですが、「天地神明」に相当する「神明」の御祭神は天闇龗大神あめのやみたまたつのかみ とも言います」

「天津神の系譜ですか?」

「読みは「あまのくらおかみのおおかみ」と同じく、一般に闇龗神くらおかみのかみ(闇於加美神)とも言いますが、その神が祀られる前は高龗神が本当の祭神だったようです」

「別の神が置き換わったのですか?」

高龗神たかおかみのかみ」と「闇龗神」は両者とも竜神(水の神)さんと呼ばれます。その為に同一神ではないかとも考えられています」

「ふむ」

高龗神たかおかみのかみ」は高い峯や山に坐する竜神で、「闇龗神 (くらおかみのかみ)」は名の通り谷底や滝壺のような低い所に坐す竜神のことです」


神話では、二神の「神産み」において伊邪那岐いざなぎ神が、迦具土かぐつちの神を斬り殺した際に、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神くらみつはのかみとともに闇龗神くらおかみのかみが生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神たかおかみのかみであるとしている。


「高龗神は、玉依姫が建立した京都の貴船神社の祭神でもあります。そして、大和の丹生川上神社の祭神でもあります」

「玉依姫の皇子である神武帝の大和入りを助けたのは高倉下(たかくらけ**)という人物であったな。丹生川上流の神と、この関の神に深い関わりがあることが示唆されているのだろうか?」

「流石、若様です。よく勉強されていますね」

「織田家は、剣神社の神職でもあったから、神話には自然と詳しくなるのです」

奇妙丸にとっては意識せずとも自身の中に取り込む環境があった。


「半兵衛殿は、どうしてそのように神話に詳しいのですか?」と池田正九郎が半兵衛に聞く。

半兵衛が一同を見回し、一呼吸おいてから口を開いた。

「私はこの日本という自分の生まれた国の成り立ちを知りたいのです。そして天皇家という帝が出現する系譜が、どうしてこの国に君臨しているのかを知りたい。それがこの国の本質を知ることになるからです」

「確かに、武家の棟梁である源氏も平家も、天皇家の分流ですからね」

半兵衛の疑問に、その通りだと肯定する於八。


「織田家が戦国時代をまとめた時に、どのように帝と寄り添うか、それ次第で織田家「千年の計」が成るか成らないかの分かれ道が決まることでしょう」

奇妙丸の目を見て話す半兵衛。

「難しい課題ですね」

半兵衛が、古代をみて未来を見る姿勢に共感を覚える奇妙丸。


「この時代に、そこまで先の事を考えている人物は何人いるでしょうか?」

「かつて、斎藤道三入道が、明智光秀殿を召し寄せた時に、東美濃の古の事を聞いていたそうです。我舅の安藤守就殿が同席されたが、その会話が何を意味しているかは分からなかったそうです」

「明智殿が、美濃の古を理解していると?」

頷く半兵衛、当然、光秀殿は天皇家とこの国のあり方を、この乱世の中で考えているに違いない。そこでどのような理想の国を思い描いているかは想像できないが・・。


「そして、貴方の御父上である信長様と、丹羽長秀殿は古の事を承知のうえで行動されている様に思えます」

「成程・・・」

父と長秀殿が二人でよく意見を交わされているのは見ているが、独りでそこまで考え及んでいる半兵衛殿は、やはりこの時代の傑物だ。


乱世に後の国の形をみているのは、父と長秀殿、光秀に半兵衛殿の四人。それに亡き道三入道殿、いや、長秀と信長を結び付けた祖父・織田信秀もその一人であったのかもしれないのだな。


半兵衛の考えの深さを思い知る奇妙丸だった。


自分にはまだ、織田家が天下を平定した暁の、この国の形などとても想像の及ばぬところだ。父・信長が楽呂左衛門や宣教師との会話を楽しみとしているのは、そこに理想の国の形を求めてのことなのだろうか。


****

岐阜城城下、武田家臣・若尾元昌屋敷。


・・・岐阜若尾屋敷、織田信長から武田家一族の若尾氏に与えられた武家屋敷だ*。

織田家と同盟関係にある武田家は、信濃の平井氏や、木曽氏の一門だった山村氏を東美濃に派遣し、岐阜城下にも多くの家臣を置いていた。

その中でも武田一門衆の若尾元昌は、武田信玄入道の意向で東美濃多治見の根本城主となっていた。元昌は、岐阜城下にも屋敷を貰い、織田・武田に両属する形で存在する。両家友好の懸け橋的な存在であるとともに、信玄の為に信長の動向を監視する目付の役割も持っている。

根本城は若尾元昌・元美親子が武田家の築城術に沿って大規模に改修を施し居城としている。武田家にとっては東美濃の行政を監督する軍事拠点なので、元昌自身は根本城に詰め、家老の清水式部丞を岐阜屋敷に派遣している。


若尾屋敷の庭で真剣を素振りする武藤喜兵衛

旅先とはいえ、喜兵衛は日課として己に貸している素振り千本の鍛錬を怠ってはいなかった。

「喜兵衛殿」

「どうした?」

喜兵衛の相棒・出浦出羽守の姿は見えないが、声だけは聞こえてくる。

「奇妙丸、半兵衛一行が関方面へと出向した様です」

「なんと? 半兵衛殿は何も声をかけてくれなんだが」

「どうしますか?」

「信玄公の片眼かたまなことして見届けねば。すぐに、追いかけよう」

「はっ」

武藤喜兵衛は井戸水を浴びて汗を流し、身体を拭く。

「清水式部殿を呼んでくれ!」

屋敷に詰める若尾家の雑人に声を掛ける。

喜兵衛は、館主の若尾元昌の代行で岐阜屋敷執事を兼ねる清水式部丞に旅の準備を命じたのだった。


****


*フィクションです。関城は落城後に廃城となったのではないかと考えられていますが、ここでは、丹羽長秀と由緒のある大島家の領地ですから、美濃攻略に大活躍した丹羽長秀が城主へと抜擢されていたものと推測しました。秀吉・家康の勝者の歴史の中で丹羽長秀の事跡は過小評価されていると考えているからです。関城の堀に囲まれる惣構えは、近江の佐和山城に良く類似していると思えますので、同じ系譜上にあると考えました。


**高倉下 一般に読みは たかくらじ の様です。または、たかくらした。小説内では古代美濃の姫、下照姫や、地名の気良・気良川の読みに通じるものとして「ケ」または「ゲ」と音読み当て字することとしました。

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