285部:傍衆軍議
奇妙丸の傍衆達が、地図を囲んで座る。
「現在の東美濃、中美濃、西美濃、北美濃の状況ですが」
現況を語り始める、爺こと塚本小大膳。
塚本は、信長から岐阜城留守居役と美濃衆の取り纏めを委任されている。塚本家は岐阜城の北側の扇状地に本貫地を持つ深尾氏の分流であり、領地の接する福富氏の福富秀勝と共に、渥美郡・方懸郡に広がる集落の町都督(市長兼警察署長)の様な役割を担っていた。岐阜城から南東部は、墨俣の木下秀吉が管理していたが、上洛後は京都代官も兼任した為、秀吉の一門である杉原氏・浅野氏が代官代理を勤めていた。
・・・美濃国の深尾氏は近江佐々木源氏の分流で、平治の乱に敗れて伊勢鈴鹿山中の員弁郡深尾谷に隠遁し深尾氏を称した。のちに伊勢・近江・美濃三国の国境に位置する三国岳に立て籠った盗賊を退治したことで有名となり、 文明年間(1469-1486)に美濃守護土岐氏に臣従し、美濃国山縣郡にある太郎丸城の城主となった。塚本氏はその一門だが、小大膳は斎藤道三に出仕し尾張の織田弾正忠家に嫁入りした道三の娘・奇蝶の守役兼護衛の将として尾張に下向し弾正忠家の老臣となった。道三により付属された美濃衆は厳選された有能な将ばかりであった(当初は婿である信長の器量が足りなかった場合は造反せよと言う密命があったのかもしれないが、会見により道三に認められた信長は、それ以来彼らの真の主君となっていた)。
岐阜城下の町は信長の楽市楽座政策によって市井が活況を呈していた。岐阜城下には新興商人や、尾張や北伊勢の各地(津島・熱田・桑名等)から新たな利益を求めて進出してきた豪商が集まり、長良川や木曽川河川沿いの運河には荷揚げ用の波止場の整備が行われている。
新たに織田家に臣従し、信長により城下に敷地を与えられた美濃・尾張・三河・遠江・伊勢・近江の豪族達の武家屋敷や、それを取り巻く町人の長屋普請の為の建設、配水下水の整備や道路の普請が各地で行われ、市場には堺の町を凌ぐ程の人数がごった返し、城下町に納まりきらない程に人数が溢れ、周辺地域の町や村にも居住地を求め、驚異的に人口が増えはじめている。
主要な交通路となっている長良川流域と中仙道の街道に沿って田園地帯が広がる西美濃は、要所ごとに多数の豪族が割拠し、その領内の集落も人口が多い。
「西美濃のことは、本貫地をお持ちだった竹中殿の方が詳しいかもしれませぬが、西美濃は柴田勝家殿の御番でその与力に安藤、稲葉、氏家、不破の西美濃四人衆がつけられています」
西美濃の状況を話す塚本だが、竹中半兵衛に遠慮がちだ。
「私は弟に家督と城を譲渡し、世捨て人となりましたので・・。補足程度ではありますが」
ことわりを入れて半兵衛が語る。
「道三殿が支配した頃は竹腰殿や、岩手殿、林殿、堀田殿といった重鎮がおられ、両道の権益で鎬を削る諸豪を、脅したり宥めたりして美濃守護代・斎藤家に協力していましたが、今は大きく様変わりしています。私よりも深尾氏の一門である塚本殿の方が現況をご存知なのではないでしょうか」
伊吹山山麓に隠棲していたとはいえ、竹中半兵衛は忠誠を誓う16人衆に世情を探らせ、美濃の事情には精通していると考えられる。
(ここは織田家内部でしか聞けないような人間関係の内輪話を聞いて、潜在的な対人関係も知ることから何らか政治的操作をする際の収穫を得よう)
半兵衛はそう心に決めている。岐阜城下に宿をとって滞在している武田家の武藤喜兵衛には声を掛けてはこなかったので、外部に織田家の内部情報が漏れる心配もない。新参の半兵衛ひとりを注意するだけで良いならば奇妙丸の傍衆も多少口が和らぐだろう。
「西美濃の日根野一族は、未だ抵抗勢力として根強い力を持っていますね」竹中半兵衛が小大膳に話を振って催促する。
「柴田殿は北伊勢の山路や、南近江日野の蒲生殿も従えその動員力は、東美濃の北半の旗頭・森可成殿や、南半の遠山氏を与力とする坂井殿を越えて、織田随一の旗頭です」
一同が頷く。
「西三河の高橋衆を従える佐久間信盛殿と合わせて、織田主力軍の新たな双璧と言っても良いでしょう」
「それでは、森・坂井・柴田・佐久間の四人が織田家の四天王ということですか?」
佐治新太郎は四天王という看板の語呂が良くて好きだ。
「実力的にそうなるのではないか」と於八。
「今度の伊勢攻めでは、瀧川一益殿がその一角に加わったと思うぞ。それに、美濃攻略に獅子奮迅の大活躍をし、織田家の内政も担う丹羽長秀殿は、なくてはならない方だと思う」
奇妙丸は、瀧川一益も佐久間や柴田に匹敵する大将の器量を持っていると思う。それに丹羽長秀は、信長の不在時は御名代として岐阜周辺の旗頭を担っている。信長のお膝元は長秀を長として福富秀勝、塚本小大膳、木下秀吉、大島光義が各地の町を統制している様な状況だ。
「御番役兼旗頭の六人衆ですね」
金森甚七郎が纏める。
塚本小大膳もそうだなと納得顔だ。
「そういえば、齊藤義龍殿の頃には美濃に六奉行と呼ばれる重臣達がいましたよ」
竹中半兵衛が言葉を挟んだ。
「六人の奉行ですか?」
問い返す於八。
「龍興がまだ幼かったため、義龍殿はその六人の家老を国政の舵取りとしようとしたのです」
今でも半兵衛は斎藤龍興に対しては尊称を用いない。
「重臣の合議制だったというわけですね」
義龍の政治は決して当主独裁という訳ではなかった様子だ。
・・・・義龍の選定した六奉行には、長井甲斐守 衛安、日根野(延永)備中守弘就、日比野下野守清実、安藤日向守(伊賀伊賀守)守就、桑原(氏家)三河守直元、竹腰(成吉)摂津守尚光といった名の通った武将達だった。
「信長様は、各大名の良き所は積極的に取り入れようとなさっている気がしますね」
半兵衛は冷静に信長の政治手法を分析している。
「成程。美濃が長く持ちこたえたのも六人の重臣達の指導の賜物だったのか。父が取り入れたというのは、そうかもしれない」
同意する奇妙丸。
「それに、敵対政権の政を継承したという正当性を判り易く織田政権の中に残しているのも特徴的です」
第三者として織田家を見て来た半兵衛は、弾正家家中の面白い構成に気付いていた。
「それはどういうことですか?」問い返す生駒三吉。
「斯波家の家老・毛利、佐脇、簗田、森家。清洲織田家の又代・坂井家と重臣・河尻家。岩倉織田家の家老である山内、堀尾、前野家。犬山織田家の中嶋、和田、梶原家。上手く重臣家を取り込み、弾正忠家の家老衆として待遇しています。これはどういう事に繋がりますか?」
「前政権の家老達が、主家を見放して弾正忠家を正当な国主として認めたという事になりますね」池田正九郎が答える。
「その通りです!」
半兵衛に肯定され、照れる正九郎。
そこへ、廊下から複数の足音がする。
襖が開けられて山田勝盛が、新しく奇妙丸付きとなった森高次と一緒に現れた。
「丁度、玄関で高次殿と遭遇したで御座る」
「おはようございます。皆様、ご出仕が早いのですね」と感心する高次。高次は新参なので早くに見参するのを遠慮していた様子だった。上官である楽呂左衛門は気分で動くので何時頃登庁するかは伝えていない。
「陽が昇るとともに若様を起こしに来て頂いても宜しいですぞ」と小大膳。
「爺、毎日は困るぞ」と困惑する奇妙丸。
「それでは再び参りますかな」と何事もなかったように続ける小大膳。
これから、皆でこうやって打ち合わせをし、共通認識を持つ事は良い事だ。
「越前・近江に接する国境。揖斐川流域の池田地域は、市橋長利殿が旗頭となり、堀池殿、吉田殿、国枝殿が与力として従っています」
「国枝殿は足利義昭殿との交渉事でも取次の役目を果たされています。市橋殿は北近江の浅井家との縁談にも尽力されました」
市橋氏は長利の父・利尚が、信長と合戦で手合わせした事からその力量を認めて早くから信長に通じていた。信長は譜代の将と変わりなく重用している。
「守護土岐氏の地盤だった岐阜の西北方面は、土岐家の流れを継ぐ原長頼殿を旗頭に、旧南朝勢力の根尾氏一門や、徳山殿が、その与力として国境を警戒しています」
・・・・原氏は土岐家分流蜂屋氏の分家だ。上洛戦に活躍し摂津表の番役となった一門惣領の蜂屋頼隆に代わって旗頭を勤めている。最初は彦次郎政茂と言ったが、武功を認められ信長から一字を宛がわれて名を長頼と改めた。
「旧南朝方豪族と交流のある根尾氏の勢力は侮れないものがあるな」
南伊勢の北畠氏をはじめ、弾正忠家の基盤を支える津島の町衆達はほぼ南朝の後裔だ。
「また、金森長近殿も美濃守護・土岐家の地盤だった大桑を中心に板取の長屋殿や、鉈於山城の佐藤氏を与力に北美濃を睨んでいます」
・・・・金森氏は土岐家の分流で、美濃土岐氏の本拠地・大桑から、東美濃の多治見大畑に移り、更に定近の代に近江の金森に移住して金森を姓とした。五郎八可近は、尾張に来て信長に出仕、才能を認められ信長から一字を宛がわれて名を長近と改名している。斎藤道三の娘婿でもあり、信長とは相婿の関係だ。
「北美濃郡上郡は旧郡主である東家の勢力が根強く、東家一門で重臣の両遠藤。西遠藤の盛枝殿、東の遠藤胤俊殿が対立し、その他の東家旧臣達との勢力争いに明け暮れています。ここは先年も東遠藤家の娘婿・畑佐(東)信国が飛騨の三木自綱と結んで遠藤家に反乱し、内紛続きで政情が落ち着きません」
「次は岐阜からの東域です。東美濃は、斎藤家時代は道三の舎弟・長井道利の管轄でしたが、現在は飛騨街道と中山道が合流する要である関城を上様の義弟・丹羽長秀殿が管轄し、丹羽家家老の大島光義殿が定番を勤めています。それに東方の加茂郡は長秀殿の与力である蜂屋頼隆殿の祖が旧領主だったので代官として取りまとめることも領主達に認められています」
・・・・大島光義は、元は長井家の家臣で、弓の名手として武名が高かった。新領主となった丹羽長秀により見出され、行政官としての才能も発揮し、現在では関城の城代を任されている。
「関城は国内の流通の拠点でもあり、長秀殿の下に集められた諸将の人質や、国内の訴訟事なども処理している番所の役割もある」
「織田家の一大行政拠点ですね」
・・・・丹羽長秀は、飛騨路から火薬の原料となる硫黄や硝石を手に入れて、信長の軍事行動を支えていた。丹羽長秀を長として、岐阜城の北西方向を抑える金森長近や、蜂屋頼隆(現在は原長頼が代行する)、市橋長利も織田家の資源開発部門を担っている。
「関から更に東は、昔からの大族である佐藤氏が加治田城を中心に蟠踞しています。斎藤家の頃は長井道利殿が佐藤家惣領の人事権を持ち、加治田の佐藤忠能・忠康(名は信氏とも)親子、堂洞城の佐藤家庶流・岸(佐藤)信周・信友親子、鉈尾山城の佐藤秀信・秀方親子、揖深の佐藤信則・堅忠親子を競合させ、互いの監視をさせていたのです」
斎藤道三は、一門の長井道利に東美濃の要所を任せ、義龍も道利を信任していた。道利は斎藤家の重鎮として六奉行の上に君臨し、美濃支配を担っていたのだろう。
「現在は奇蝶様の御舎弟・斎藤長龍殿が加治田城に入り、佐藤家の旧臣達を引き継いでいます」
「佐藤家は鉈於山の佐藤家がいるし、斎藤家も名跡を残せてよかった母上も一安心だろう」
「誠にそうですな」塚本小大膳も頷く。武士にとって家名を残すことは重要な事だった。
「更に東の木曽川流域は、川尻秀隆殿、森可成殿が入りしっかりと根を下ろし盤石で御座います」
父・可成の名前が出て於勝が満足げに頷く。
「木曽川のその向こうは坂井政尚殿が旗頭となり、更に東域は遠山氏七家が蟠踞しています。坂井家と遠山家の御縁が深まれば、より政情の安定した地域となりましょう」
更に奇妙丸と松姫との婚姻が成立すれば、東美濃は人々が安心して暮らせる地域となることだろう。
「北側の飛騨に繋がる下呂地域は、姉小路家を継承した(三木)自綱殿が御舎弟や重臣を配し、強力に支配しています」
・・・・南飛騨の豪族・三木良頼の息子・自綱親子は、弘治4年(1558)年頃から飛騨国司家の姉小路氏を称し、翌年関白(当時)・近衛前久の仲介で古川姉小路家の家督を認められた。今回は信長の呼びかけに応じ良頼の代行として上洛し正親町帝に拝謁している。
「姉小路自綱殿は今回の上洛に参加しているとのことですが?」
始めて発言した森高次。
「父は今回の召集で、天下公儀に敵対するものを洗い出すと言っていました。姉小路殿は京都での政治工作も兼ねて積極的に上洛されたようですね」
奇妙丸は丁寧に答える。
「今回、各大名の上洛に期限を設けられているのは、のちに発令する武力征伐の為ではないですか?」
半兵衛が鋭く切り込む。
うーむ、と唸る一同。
「信長様が動き出すとすれば、峠の雪が消える四月末」
半兵衛の言葉に固まる奇妙丸だった。
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