282部:京都
奇妙丸が岐阜に帰還した頃、京都では
2月30日
奇妙丸の父・織田信長は、近江国常楽寺で興行した相撲大会を終え、三河から上洛して来た徳川家康と水野信元、遠江国の旗頭・小笠原長忠等と合流。遠江・三河・尾張・美濃・伊勢の五ケ国の軍勢を伴って入京を果たしていた。その数は上洛戦の6万兵を越え、8万兵に達している。
それ以前に、信長は畿内諸将に向けて「禁中御修理、武家御用、そのほか天下いよいよ静謐」の為に二月中旬の自身の上洛を目処に、京都に集結することを催促していた。そして禁裏と将軍家への祗候、更に幕府会合に応じない者は、天下公儀に従う意思なき者として討伐の対象と認定することを全国に発表していた。これは、一度も幕府に出仕しない越前国の太守・朝倉義景の忠誠心を試すためのものだった。
信長の入洛にあわせて畿内の諸大名も上洛し、河内国の守護・三好義継に、摂津三守護の和田惟政、大和国守護の松永久秀、その与力である竹内秀勝も京都に終結した。
・・・・・竹内下総守秀勝は、20代の青年武将。松永久秀に武略を見込まれ大和方面にて筒井氏追討軍を率いる。もともと竹内家は久我家の家司だったが、父・季治(入道真滴)の代(1518~1571)に将軍家に直接出仕するようになった。竹内家の次男で久秀の婿・長治の弟にあたる。秀勝は松永家の家臣ながら将軍義昭の加判衆にも任じられている。父・季治は京都法華宗の首領格であったため、宣教師に寛容な先代将軍・義輝とは次第に対立した。
信長達の宿所は、京都東側郊外の明智光秀の邸宅と、京都の公家医者・半井驢庵(和気光成)の邸宅だ。
・・・・半井氏は、初代・明親が明国に渡り医学を修め、帰国して堺を本拠地に活動し、名医として称えられた。子孫は代々「蘆庵」を名乗る。光成は関東の後北条氏とは医者として氏康・氏政の父子2代において親交があり、京より相模へ下向し滞在したこともあり特別な関係にあった。
半井の屋敷は上京市街の中央付近にあり、その庭には「山里」と称する一角が設けられ、二階建ての亭子と呼ばれる壁の無い屋根と柱からなる天竺・唐風の東屋や、茶の湯座敷が工夫され、町人の屋敷でありながら京中の人々が目を見張るものであった。信長は半井邸の天竺・唐風建築様式を実見し、これを築城技術に取り入れようとしていた。
月が替わって3月1日、信長は衣冠の正装姿で禁裏に参内する。正親町帝とその皇太子である誠仁親王に面会し、それぞれに莫大な額の贈り物を献上した。
将軍邸よりも先に信長が直接禁中に参内したことに大きな意味がある。信長は帝から直接に天下の儀を委託される身分であることが世間に報じられるのだ。
それから信長は、足利義昭が進める禁裏の修復作業を見て回った。
信長は続けて新二条御所・足利義昭邸も訪問する。
従う者は、前・紀伊守護の畠山高政、河内南半国守護の畠山昭高の兄弟。河内北半国守護の三好義継。そして奉行衆の畠山播磨守、鷲巣某、大館左衛門佐、大館伊与守等。以下「御供衆」・「御部屋衆」・「申次衆」が順次従い、新二条将軍(足利)邸を訪問した。
「公家衆」で信長と共に新二条将軍邸へ祗候したのは烏丸光康・久我通俊・山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・広橋兼勝・三条公仲・姉小路頼綱・高倉永孝達であった。
次に足利義昭が禁裏に参内する。
将軍・義昭に供奉して禁裏に同行した公家は、三条西実澄・中山孝親・四辻季遠・万里小路惟房・三条西公国・四辻季満・甘露寺経元・勧修寺晴豊・山科言経・五辻為仲・中山親綱・中院通勝・「雅英」・橘以継・五辻元仲等である。
三条西家は、越後の上杉家と青苧の権益をめぐって暗闘中だ。
一方、信長が帰還した半井邸の宿所には、聖護院道澄・四辻季遠・山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・日野輝資・広橋兼勝・高倉永孝ら貴族衆が続々と贈答品を持って訪問し挨拶した。
日野家は、百年前から三河松平家の主筋にあたる。
都では、近衛前久の弟である聖護院道澄の下に、武藤喜兵衛の上洛後に武田家の使者が頻繁に出入りしていた。
5日(*1)には将軍・足利義昭が、織田信長・三好義継・松永久通らを洛外に随行させて、織田軍の勢子が森から獲物を追い、織田軍が警護する中で放鷹した。
これは世間に対して将軍の下に、気鋭の織田信長、畿内の諸政を牛耳った老練の謀将・松永久秀の息子、前天下人・三好入道長慶の継承者・三好義継が揃い踏みし、天下の静謐が実現しようとしていることを宣伝するための催しである。三人は将軍・義昭の面目を立てるように付き従ってはいたが、ここでは、足利義昭が8万の大軍を統べる信長を畏怖し、ご機嫌を伺いながら狩猟する姿があった。
6日信長により任命された朝山日乗、明智光秀が代官となり、公家衆の地行について聞き取り調査が行われ、先祖伝来の荘園知行を回復しようと都の貴族達が明智邸に殺到した。光秀は、幕府奉公衆が公家領を不正に違乱し獲得していることについて訴えを聞いた。正式な公家衆知行について調査を進め、横領している者へは返還を即す事にする。
10日泉州堺に隠居していた元・源氏長者の久我晴通が上洛。誠仁親王と対面し、右近衛大将の任務放棄を詫びる。「源氏長者」についても足利義昭からの奪回を願うが。信長を「御父」と呼ぶ足利義昭と、奇妙丸の猶子関係が正式なものとなった時に「源氏長者」継承権が織田と久我の間で拗れる恐れがある。判断に困った誠仁親王は、沙汰を待つように言って帰した。
17日には信長の命により洛外の「桜ノ馬場」にて、織田家家臣団、遠江衆と三河衆が、乗馬の腕前を披露した。貴賤の見物客が集まり、観衆は二万人の人数となった。この軍事的色彩の強い催しにより東海道筋が信長に完全に掌握されていることが周知となる。
18日中国地方の太守・毛利元就が率いる毛利の両川(吉川家、小早川家)より使者が来て、出雲尼子家の残党(尼子勝久を擁する山中鹿之助一党)を討つ協力を求めて来た。
20日には於勝の父である森三左衛門可成に命じ、比叡山を始めとする宗教勢力に対しての都警護と、京都から岐阜への往来の安全の確保(六角家残党の襲撃に備える)の為に、近江坂本に新城を築城させる。この城は、完成後には宇佐山城と呼ばれる。
22日朝山・明智の調査により発覚した、奉公衆・一色式部少輔藤長の違乱を止めた。
・・・・・一色藤長は、丹後国の式部一色家の出身で、一色晴具の息子だ。室町幕府奉公衆として京都に居り、永禄8年(1565)の三好三人衆の足利義輝襲撃事件の際には、同僚の三淵藤英等と共に義輝弟・一条院覚慶(足利義昭)の興福寺脱出を助け、義昭の側近として力を持った。
そのような流れの中で信長は、越前国主・朝倉義景の出方を伺っていた。
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(*1)『信長公記』作者の太田牛一は、3月5日に入洛したと記す。縁起を担いだものか、記憶違いかは定かでない。
京都で朝廷が定める公式暦「宣明暦(京暦)」と、坂東で多く利用され濃尾や伊勢の庶民が慣れ親しんだ「三島暦」との差異なのかもしれません。




