276部:母
北近江、清水谷浅井館。
「父上、それ以上申されると、ただではおきませんよ!」
長政の表情が、鬼の形相に変わっている。
「お前は、斎藤義龍と同じことをするのか? この父を殺すのか?」
自分の息子にひどく怯える久政。
父の情けない物言いにあきれるとともに、卑屈さに悲しくなる長政。
「私は不孝不忠の人間ではありませんよ。家中の見本となるべき当主がそのような不義理なことをすれば、戦乱の世に静謐などとり戻せませんから」
長政の理性的な言葉に、ほっと胸を撫で下ろす久政。
「しかし母の気持ちを思うと、私は・・」
夫に再び生贄にされた心情やいかばかりだろう、悲しみの気持ちを想う長政。
「私は母と家族を守ります」
一言言い残して、その場を去ろうとする。
「朝倉から連れ戻すのは無理だぞ、阿古はもう一乗谷に着いた頃だろう」
久政が長政に追い打ちを掛けるように、背中に冷たい言葉を投げかける。
「それでも母上を救い出す手立てを考えますよ」
振り返って父を睨みつけた。
「ところで、楚葉矢ノ剣はどうした?」
去ろうとする長政に久政は自分が一番聞きたいことを問うた、阿古ノ方の事はどうでも良い様子だ。
「玄蕃は盗まれたと言っていました」
「なんと?! あれは戦乱の世の覇者になれる剣だ。必ず取り戻せよ」
「わかっていますよ! しかし、私にとっては、剣よりも母の方が大事ですが」
「長政よ、浅井家の先を考えろ。浅井が天下に躍り出る時が来たのだ。これから於市を尾張へ送り返して織田家を離れるのだ!」
長政は一度、平井(佐々木)家の妻を離縁して六角家から独立している。それと同じことを久政は行えと言うのだ。
「父上、めったなことを言うものではありませぬ。朝倉と織田の戦いなどは中立すれば済むこと。それに、父上は妻をなんと考えておられるのです?」
「戦乱の世なれば、女は子造りの道具、政治の道具として扱うのが筋だろう」
眉間に筋が深く入る長政。
「私は、父上とは違う生き方を選びます!」
「父を馬鹿にするのか?」
「息子ではないと先におっしゃったのは貴方でしょうが!」
長政の右拳が館の壁を突き破った。
息子の怪力に、唖然とする久政。
「長政よ、国を統べる楚葉矢ノ剣があれば良いではないか? お主は浅井家の為に剣を振るえばよいのだ」
長政の怒りを宥めるように、つとめて低い声で話す久政。
「家族は捨てよと?」
「天下は織田に定まったように見えるが、剣が外界に出てしまった以上、これから一波乱が起きると言うことだ。なれば戦乱こそ、浅井が戦国の世をのし上がる為に良い機会なのかもしれぬではないか」
「今は何も考えられませぬ。話は後日」
久政の言葉を聞く気力はないと言いたい長政。
「浅井の天下を目指せ、長政。お主ならば天下を取れる」
「・・・・」
無言で踵を返して退出する。
(忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず・・・)
苦悶の表情の長政。
「母上」小さな声で呟く。
他国で再び人質生活を送ることになった母を不憫に思う長政だった。
*****
朝妻城。
新庄直頼が、守備兵に呼ばれて大手門までやって来た。
「於市様、茶々様! 間違いない。城門を開けよ!」
長政の家族が突然に来訪したので驚く直頼。
一行の中に見知った侍を見て、急いで駆け寄る。
「安養寺殿、突然のお越しとは、どうされましたか?」
・・・安養寺三郎左衛門 氏秀と氏種親子は、浅井家の重臣の中でも最初から親織田派で、氏秀は於市の輿入れに積極的に動き、氏種は仲介人として信長と長政の間を行き来して縁談を取り持った。特に氏種は信長に気に入られて、信長から土産物を贈られるなど昵懇の仲である。その為、親朝倉派の千田氏や東野氏からは目の敵にされている。
安養寺氏種が困った表情で直頼に答えた。
「小谷城の方が、朝倉方の息のかかった連中が久政様を擁して幅を利かせ始めたので、急遽ではあるが御前様を城外に連れ出してきたのだ」
氏種は、佐久間盛重の義息である立場の新庄直頼とは親しい付き合いだ。
幕府奉公衆の血筋でもあり、親織田派の新庄直頼の居城は、浅井領の中でも於市御前にとっては最も安全な場所と言える。
「そういうことか、長政様は知っているのか?」
「うむ。出城される際にご家族の事を私に一任された。湖北の疋田、千田、東野、西野、熊谷、井口、田子、伊部、西山といった連中が、どうも久政殿の復権を目論んでいる様子なのだ」
「なんと?! 久政殿が復権しても碌なことがないのは皆分かっているではないか」
「久政殿もその気になっている様子で、誠に困ったことです」
「どうやら、小谷の動きを注視しなければならないな」
安養寺氏種と新庄直頼にとって、もし長政が久政に浅井家の実権を奪われでもしたら、今後の両家の行く末にも関わる大事につながることなのかもしれない。
「遠藤殿の所にも、我らと談合の機会をつくる使者をおくったほうが良いやもしれぬな」
「誠に・・」
両者は、浅井領の南部を統括する、遠藤喜右衛門直経に今後の動きを相談することに決した。
*****
朝妻館、客室。
奇妙丸一行の部屋に、於市御前と於茶々が挨拶に来た。
「奇妙丸殿」
「これは、於市様、茶々殿」
「桜、また会えたね!」
桜の手にまとわりつく茶々姫。
「桜、庭に花が咲いているよ、見に行こう」
と言って桜の手を引っ張って、庭へと連れて行く於茶々。
「於市様、どうされたのですか?」と二人が朝妻城に来た理由を尋ねる奇妙丸。
「実は、安養寺殿が清水谷に居るとまずいことになりそうだと、朝妻城まで手引きして下さったのです」
「清水谷に出張って来ていた敦賀の朝倉景恒の手勢が原因ですか?」
「ええ。浅井と朝倉は不戦同盟を結んでいるので、朝倉の軍勢が来ても拒むことはありませんでしたので、これまでの関係を維持しようとするうちに小谷城の中が少し困ったことになってきました。朝倉方が小谷城に居座ることで朝倉家の圧力が強まり、義父上の久政様は親朝倉派と親織田派の家臣の対立に窮しておられるとのことで。
京極小法師殿が上洛戦に参加することになり、私達は安養寺氏秀・氏種殿の勧めで新庄殿のところへ一時的に待避させてもらいました」
「朝倉勢は諦めて退いたのでしょうか?」
「阿古様と京極高吉夫妻を、越前一乗谷城へと連れて行ってしまったそうです」
「長政様の母上が?」
「孫だけは差し出してはならないと、阿古様は身代わりとなって連れて行かれてしまいました」
「浅井家は難しい立場となってしまいましたね。やはり楚葉矢ノ剣が持ち逃げされたことで、戦乱が呼び起されるのだろうか・・・」
「楚葉矢ノ剣が持ち出されたのですか? それでは、夢のお告げは本当かもしれません」
「剣にどのような力があるのか解りませぬが、用心せねばならなくなりましたね」
「近江での争乱が終わればよいのですが」
そういって、中庭で桜から春の花の名前を教えて貰っている於茶々を、二人は見守るのだった。
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4月から部署が変わって忙しくなってしまいました。平日ほぼ、UPすることが無理な感じです。筆が遅くなってしまいますが、気長にお付き合いください。どうぞ宜しくお願いいたします。
(謹言)




