259部:六角親子
南近江、鯰江城。
・・・・鯰江城は、甲賀郡を流れる愛知川右岸の河岸段丘上に築かれている。愛知川以東は、1566年の浅井長政との和睦以来、浅井家に割譲され国境になっていた。鯰江城は浅井領側に突出する位置にあるため、防備が強化されている。西端は川が開析した急峻な崖面に面し、東は伊勢に向かう八風街道や、大和へ向かう高野街道に隣接する。軍事的に要衝の地にある。城主の鯰江氏は鎌倉幕府の頃は興福寺に鯰江荘を寄進し荘園領主として栄え、八風街道を抑える地の利を生かして伊勢にも進出し、木曽川に面する長嶋の北岸に中江の地に鯰江系森氏が勢力を広げていた。城主の鯰江貞景は六角親子を迎え、鯰江城に空濠や、土塁を再構築して織田軍を撃退する準備を進めていた。
「ふむぅ。信長め‼ なめくさりおって!」
六角承禎入道義賢が百済寺前に掲げられた高札の写しを握りつぶす。
・・・・この時、義賢49歳。もはや老域に入っている。天文二十二年(1543)年浅井久政を「地頭山の合戦」で破り、長政を腹に宿していた久政の室(阿古ノ方)を観音寺城に連れ去り人質とした。浅井家は六角氏に屈し北近江は六角家に併合されたかに見えた。しかし、阿古の方が生んだ浅井賢政(長政)が成人し小谷山に戻るや否や、久政を竹生島に隠居させた浅井家家臣達に擁立されて反乱。独立を許してしまう。更に、永禄十一年に織田信長が7万の大軍を率いて上洛。六角義賢親子は強大な織田軍に太刀打ちできずに観音寺城から逃亡した。
「父上、伊賀衆の協力が得られそうです。信長が相撲興行をする機会こそ、観音寺城奪取の好機ではないでしょうか」
息子の六角右衛門尉義治が、信長打倒の策を、義賢に進言する
・・・・・義治は25歳。義賢の嫡男として家督を譲り受けたが、当主の権限を高めようと後藤・進藤の両職のうち後藤賢豊親子を建部・種村に襲わせて討ち取った。しかし、当主のこの暴挙に家臣団が反発し家中が分裂する内紛が勃発。蒲生定秀が仲介し家臣団と和解するが、六角家の勢いは一気に失速した。
「どうしてお前はそのように馬鹿なのだ! 信長の罠に決まっておるだろうが!」
「はっ?」
「我々を平野地に引きずり出して、まとめて討ち取ろうという魂胆が何故わからぬ!」
「なるほど」
「甲賀衆の三雲・山中、こやつらが一番の頼みの綱だ。織田に寝返った蒲生家を逆に包囲できるように東西から挟み撃ちにする段取りを早急にとり進めよ、その次は山岡を始末してくれる」
「はい。父上」
永禄四年の家督相続以来、数々の失敗を繰り返し没落の憂き目をみせたので返しようがない義治だ。
しかし、心の中では、六角家の最初の躓きは、永禄四(1560)年に父が浅井長政との「野良田合戦」に敗れたことに始まると思っている。
父は敗戦のけじめをとって引退したつもりなのだろうが、あの合戦で湖北の領土大半を失ってしまった。その責を棚上げにして、義治に全ての責任を負わせようとしている。
(私の失策ばかりが原因ではないのに卑怯な親父だ。しかし、父に逆らって家督を弟に奪われることはまっぴら御免だ、汚名を被った意味がない)
悔しさのにじむ表情で書院ノ間を退出する義治。
鯰江城、剣道場。
義治の側近、種村・建部達と城主の鯰江貞景、そしてこげ茶色の覆面で顔を隠した伊賀衆が、義治の登場を待っていた。
・・・伊賀国の南半は伊勢北畠に従う土豪が多く、北半は近江六角氏に多くの土豪が従っていた。中でも伊賀柘植三方衆の日置、福地、北村家は義賢の祖父・六角高頼の時代から六角家とは昵懇な間柄だ。九代将軍・義尚の六角征伐の際には、高頼を匿ってゲリラ戦を展開し、将軍が動座した近江鈎の本陣を襲撃し、ついには幕府軍を京都に追い返した。
「伊賀ノ衆、待たせたな。そちらの情勢はどうなのだ?」
伊賀衆の棟梁らしき覆面の男が前に進み出る。一際大きな体だ。
「大和宇陀の秋山は信長方、伊賀では守護の仁木、丸山が公儀に靡いているようです」
「今更、仁木に従うものはいないだろう。南伊勢の北畠はどうだ?」
「具房は、信長の上洛の呼びかけに応じて入京するようです」
「むぅ。北畠もあてにはならぬな」
「次はどちらと交渉いたしましょう」
「浅井との同盟を考える事は儂の尊厳が許さぬ。が、朝倉を動かせれば活路が見えるかもしれぬな」
「朝倉が動けば、浅井も朝倉に従うやもしれませぬぞ」
(しかし、その前になんとしても、長政に奪われた宝物を取り戻さねばならぬ)
「小谷城から盗んでもらいたいものがある」
「信長の相撲興行の襲撃ではないので? 我ら今回の任務は命がけの一戦と思っていましたが」
「うむ。襲撃は下策と評された。斎藤義龍のように信長暗殺に失敗して恥を晒すなとのことだ」
「はぁ」相撲に興じる信長を襲撃し、将軍・義尚の様に追い詰め伊賀衆の名を高めようと考えていたので気合の抜けた伊賀衆。
「それで、何を盗み出すので?」
「これは剣の写しなのだが、我が家の家宝にこのような形の剣があったのだ、これを恩知らずの猿夜叉(浅井長政)に盗まれたのだ。奴の手に渡ったままなのは口惜しいので取り戻してほしい」
「たやすいことです」浅井家ならば今は敵国もなく館の用心は手薄そうだ。
浅井の抱える忍びとは、命の取り合いになる可能性は低い。
「これを取り戻した暁には、報酬を倍くれてやろう」
「よろしいのですか?」
義治の大盤振る舞いに不安を覚えた側近の種村三河守。
「私は、今や甲賀衆よりも伊賀衆に信頼を置いている。和田や黒川の動きは最近どうもあやしい。伊賀ノ衆よ、頼りにしているぞ!」
「ははっ!」
伊賀衆と甲賀衆を互いに競わせて、六角に対する忠誠心を高めさせようと考える義治だった。
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