255部:義兄
「久蔵は中々手強かったの、次は伝兵衛! お主も余の相手をせよ」
「それでは、奇妙丸様、弟達を頼みます」
可隆が上着をはだけて、土俵に走ってゆく。
「あの方が、於勝のお兄様ですか」と桜が奇妙丸の傍にやって来た。
「遠征から戻られたのだ。桜は会うのは初めてか?」
頷く桜。
「背の高い方ですね」
「うむ。佐久間理助と同じくらいだな」
理助は横幅もあるが、可隆は痩せて縦長の印象がある。
「尚恒に決して劣る身体つきではない。筋肉質だ」と評する於八。
「家で読書ばかりでなく。剣の稽古もされていますし、弓の腕前は中々なのです」
「文武両道なのだな」
尚恒が可隆と交代し、背で息をしながら土俵を降りる。
信長に負けて、実力差を思い知らされた様子だ。信長もまだまだ自分には及ばないところを見せつけて尚恒の増長を抑えるつもりがあったのだろう。それに、尚恒が調子に乗って戦場で手傷を追わぬように上には上がいることを諭すつもりもある。
尚恒は全身、土埃で汚れている。
「あちらは、於勝の義理の兄上になるのですね」
「うーむ。やり難い」と於勝。
坂井尚恒は、於勝がいつも一緒にいる奇妙丸・於八と同年生まれなのだが、実戦に出た武功を鼻にかけているところがあるので、於勝としても負けていられないという気持ちの方が勝る。
尚恒は今回、於高姫との縁談で年上の女房を貰う事になる。
「嫡男は家を背負っているから大変なのだ。可隆殿!頑張れ!」
奇妙丸が可隆を応援する。
可隆は、土俵上で信長に対し、がっぷり四つに組み合っている。
「ああ!」
於勝の残念そうな叫び。
「おお」と信長の強さを認める観衆の声。
可隆は場外に投げ飛ばされてしまった。
「どうした伝兵衛?終わりであるか?」
「もう一本お願いします!」すぐに立ち上がる可隆。
両拳を握りしめて、於勝が可隆を見ている。自分も土俵に上がり兄に加勢したいというくらいに真剣に見つめていた。
(可隆殿も、弟達が同僚の笑いものにならぬように、森家の名を背負って必死に立ち向かっているのだろうな)
「於勝殿は、良い兄上をお持ちの様ですね。私は可隆殿を応援したくなりましたよ」
奇妙丸に、奇蝶御前がそっと囁き、可隆を褒めた。
「そうですね、人望もあるし、上に立つ者としての器があるのではないでしょうか」
自分と同じ境遇にある可隆には是非とも頑張ってほしいし、自分も見習いたい。
「我らよりも二歳年長ですか」と於八。
「随分、大人に見えますよね」桜が可隆の印象を述べる。
「うむ」
於高姫は可隆の妹なので、その婿となる尚恒は義弟だ。義理の兄弟だが、これから歩み寄って本当の兄弟の様になれるか、それが心配だ。
信長の仲裁策によって、森家と坂井家の関係が円満になるのを願う奇妙丸とその一同だった。
*****
「姉上、奇妙丸殿、また信長様が面白い事を始められましたね!」
奇蝶御前に姉と呼びかけるのは、斎藤長龍(利治*2)だった。
・・・・長龍は、斎藤山城入道道三の末っ子で、信長が稲葉山城から追いだした斎藤龍興は甥にあたる。道三は、長子・義龍によって討たれる前に、信長の下に長龍を遣わし、美濃一国譲り状を与えたのだった。
その後、長龍は道三の遺言に従って出家することは拒み、武士として生きることを選択した。
信長の斡旋で猶子入りした東美濃の雄・佐藤紀伊守忠能の城・加治田城を相続し居城としているが、日頃は岐阜城下町に屋敷を構え、姉・濃姫の身辺護衛に係る事を請け負っている。姉が城外に出掛ける時はついて回るのが日課だ。
奇妙丸にとっては義母方の身内であるので、家族と思い接している。少し調子の良い性格ではあるが、ほぼ平手家に居る叔父・長益の様に、織田一門と距離を置く様なところもなく、気安く接することが出来る相手だ。
「姉上、伊勢に続いて申し訳ないですが、今度の上洛には私も殿に御相伴します」
「庶兄の利尭殿に、加治田城と斎藤家の事はお願いしています。困ったことがおきたら兄にご相談下さい」
「すいませんね。近江ノ方*はお元気ですか?」*浅井久政の娘、義龍夫人
「はい。姉上様と若様に感謝していますとお伝え下さいと(*1)」
「明日から奇妙丸が、長政殿ご夫妻について小谷城に行って来るとお伝えください」
「それは急ですね?」
「先程、長政殿にお願いしたものですから」
長龍は、奇妙丸が北近江に出向いても不都合はないのだろうかと少し思案する。斎藤家と朝倉家は昔は婚姻関係を結び、斎藤家の一部が越前一乗谷に移住する等、親しく付き合う同盟関係にあったが、斎藤家が織田家の傘下となってからは、朝倉家からの援助などは途絶えてしまっている。むしろ甥の龍興が美濃を取り戻すために、義景を反信長同盟に引き込もうと画策している節がある。浅井家も朝倉家の援助を受けていたことがあり、自分(長龍)とは似たような立場にいると感じる。
しかし、姉の手前でいたずらに危機感を煽るべきではないと判断した。
「琵琶湖の眺めは絶景ですぞ。しかし、越後の宇佐美定満と長尾政景殿の事件(*3)の噂もあります。舟遊びにはご注意を!」
「ご助言、有難うございます」
「前から感じていたのですが、奇妙丸殿と私は運命を共にする星の下に生まれた気がします」
「それでは、無事に戻って来る事ができますね。叔父上」
「確かに」
ハッハッハッハ!
「それでは、お気をつけて」
「はい」
長龍は杯をもって、伊勢大河内攻めに同陣していた坂井政尚の所に、上洛の準備について問い合わせに行った。
「長龍殿は、奇妙丸と相性が良いのでしょうね。奇妙丸にとって可隆殿のような兄様になってくれると良いですね」
二人の仲の良い所を見て、奇蝶は嬉しそうだった。
*****
(*1)信長が義龍の遺品の茶道具等を没収しようとしたが奇蝶の反対で断念した。
(*2)長龍の方が、昔からの愛着がありますので、この小説では長龍で走ります。
(*3)長尾景虎(上杉謙信)の腹心・宇佐美定満が、景虎の姉婿で長尾一族の坂戸上田長尾氏の惣領・長尾政景(景虎にとって代わることができる実力者だった)を舟遊びに誘い。船を転覆させて両者ともに溺死した事件。




