251部:浅井長政
信長に呼ばれた奇妙丸と林秀貞、そして長政。
今日の信長は、三人と話がしたかった。
「奇妙丸、秀貞。林家の下に居る妹姫を、岩崎丹羽氏勝の室とする件、了承する」
「有難うございまする。首を長くして待つ氏織に良い報告が出来まする」
「フン。奴にはもっと待たしてやりたいがな。奇妙丸の為だ」
奇妙丸に振り返る信長。
「これで丹羽氏勝の息子・氏次は、お主とは義兄弟だ。氏次はなかなかの槍の使い手だ、いずれお主の良き与力武将となるだろう。それに、岩崎城は西三河への足掛かりによかろう。立ち寄ってやれ」
「有り難きご配慮」
深々と父にお辞儀する。自分の将来を考えてくれている加護に感謝する。
「さて、余は、言う事を聞かなくなった役立たずの将軍を黙らせる為に、家康と長政殿と共に上洛しようと思う。良いか長政殿?」
「はっ」と長政も同意する。
「義昭公の上洛に協力した皆様方ですね」
「うむ。先の上洛に家康は、藤井松平の伊豆守信一を陣代としてよこしたが、今度は自ら上洛すると申してきた。他の分国領主にも声を掛けるが、三好義継に肩入れする義昭に、将軍を支えているのは誰かというのを理解してもらわねば困る」
「納得して頂けると宜しいですね」
「ああ。ここまで阿呆だとは思わなかったが。人とは解らぬものよ」
「皆の総意が伝われば、きっと理解して頂けるでしょう」
「ならば良いが」
・・・尾張の統一を進める為、尾張守護家の斯波義銀を擁立した事があった。その時も尾張国主となった義銀は実権を握ろうとして信長を排除しようとしたのだ。人間の欲は計り知れない。地位を得れば、自分の器量を顧みないで全てを手に入れようとし、返り咲くために支えてくれた恩人でさえ除こうとして態度が豹変することがある。
(名門の人間ほど、神輿のままでいれば安泰だというのに自分を見失い、欲をかく)
信長は、先祖の遺した過去の栄光にすがる名門子弟には辟易としていた。そのような人間ほど特権意識が強く、下からのし上がって来た者を「先祖の怪しい輩」と蔑み、人間として一対一で向き合った時の互いの実力を見ずに、なんの根拠もなく常に上からの目線だ。信長は幼少から蔑視に負けない為に地位を振り翳す者に対して、遜らず上から声をかけるように心がけて生きて来た。その結果、多くの重臣たちの反発を招いたが・・。しかし、信長は自分の育成した馬廻衆を率いて戦い、多くの敵を討ち破りここまで生き残って登って来た。
たとえ二世でも親の遺した遺産を糧とし、自己研鑽し、更に高みに登るべく泥臭い努力を積み重ねぬ人間は何の価値もないと思っている。長政は親の器を上回る軍事的才能を世に示した。家康は人質の身から独立し領土を取り戻した。信長は二人を認めている。
三河の松平氏出身の家康は、先祖が徳阿弥という諸国行脚の坊主だったため、官位を得ることが出来ず、京都吉田神社の神職・吉田兼見のつてで当時の関白・近衛家に献金をして源氏の先祖の家系図を手に入れ、源氏の世良田得川系の子孫であるとし徳川系図を作成しなければならなかった。
努力もせず世襲で与えられた地位に安穏とし、家人として養うべき者、国家の民を奴隷のように扱い、ただ苦しめ、己の気分で権力を振りかざしているだけの世襲大名は、天下の政道を取り戻す為にはただの害悪だ。朝倉義景の生き様は既に、信長にとって排除すべき人間であると確定の判子を押されていた。
「奇妙丸よ、金吾義景の様にはなるなよ。お主には日本の外の世界とやらを見てもらわねばならぬ」
「はっ!」
「秀貞、奇妙丸を儂の時の様に、命がけでしっかりと教育してくれ」
「ホッホッホッ、これは手厳しい。私も成長しました故、どうかご容赦を。奇妙丸様には私の学んできた事を全て伝授いたしまするぞ」
信長の振りに動揺した秀貞だったが、一呼吸おいて話題を変える。
・・・かつて秀貞は、信長の弟・信行(信勝)を擁立して信長を退けようとし、信長馬廻衆と森可成連合軍との合戦に敗れ降伏した。この戦では弟の林通具が信長により討たれている。
「信秀様も三河の安祥を手に入れた時は、いつか唐ノ国を見たいとおっしゃられていました。しかし、当時は織田弾正忠家も小さく、軍勢を頼み勢なされて動員されていたので、諸豪の意見に引っ張られて美濃とも戦が始まり、三河・美濃の両面作戦で疲弊されてしまいました。
信秀様は、過労により御寿命を短くされてしまったのでしょう」
「うむ。そうであるな。しかし、余も父の遺志を継いで唐ノ国を目指しているぞ。余が達せなければ、次は奇妙丸だ。人間五十年、余は急がねばならぬ」
「はい、政秀の分まで、私がお付き合いしましょう」
秀貞の言葉を聞き、ニヤリと信長が笑う。
「フッ、しっかりついて来い」
長政は黙って聞いている。
「ところで奇妙丸、船といえば九鬼嘉隆はどうだ?」
「はい、嘉隆殿は、新たな楽しみをみつけたようで、機嫌は良いです」
「ほう。楽しみとはなんじゃ?」
「新造戦艦の造船です」
「おお、それはどのような船だ?」
「船体は南蛮風の工法で建造しています。楽呂左衛門が志摩に残って船大工達を指導しています。そして、内装から上層部にかけては、熱田の宮大工棟梁の岡部又右衛門以言殿を説得して、息子の以俊殿を派遣して造ってもらう事にしました。嘉隆殿は和様と南蛮様を取り入れたので二成船と呼んでいます」
「奇妙丸様、その二成船(*1)というのが完成しましたら、我々も乗船させて頂けるのですかな?従来の伊勢船(*2)との違いを是非体験したいものです」
「ああ、勿論良いとも、それに熱田の岡部殿の処でも松姫館の材木が余るので、息子の以俊殿が志摩から技術を学んで帰ったら、もう一隻建造しようかと以言殿から話が合ったぞ」
「それは楽しみで御座る」
「余もその話しを後押ししよう。佐久間信盛や瀧川一益に命じて、九鬼嘉隆と楽呂左衛門を全面支援せよと命じておく。楽呂左衛門は役に立つ男よ」
「誠に」
「山科殿が次は都に呼びたいと申しておったぞ。奴の白武者の武具だが、新たに百領出来上がったので、楽呂左衛門の伊勢の領地に届けてやってくれ。奴にも与力が必要だな」
「あの南蛮人武将ですね」
秀貞も、楽呂左衛門と最初に会った時には驚いた。
「彼奴には信光殿の娘婿・森九郎左衛門高次を与力に使わせよう」
「有り難きご配慮。拝領いたします」
「うむ。彼奴は六角義賢・義治親子の逃げ込んだ鯰江城主・鯰江貞景の息子なので、今は我が家中でも肩身の狭い思いをしているのだ。家来の中でほとぼりの冷めるまで少し奇妙丸の家中に置いてやってくれ」
「はい。そのような事情でしたら」
「これで黒武者五百人、白武者百人の馬廻衆が出来たな。
しかし、お主はまだまだ元服せぬほうが余にとっては都合良い。元服して幕府や宮に出仕すれば、斯波家家督の件や宮廷の官位で、お主を縛り利用しようとする者が続出するだろう。余は十八の時に父・信秀が亡くなり、死を伏せて戦った岩崎城攻めでは手痛い敗北を喫したため多くの裏切りにあった。お主が十八で出陣するときは織田家家督継承者として敗北は許されぬ。初陣の時は父が見定めるゆえ、焦らず力を磨いて待て」
(やはり、藤島丹羽家の時に聞いた噂は本当だったのだな)
「はい。忝きお言葉」
自分の初陣には、織田家全体の未来がかかっていることを認識すると、鳥肌が立つほどの責任感を感じる。世間にそれほど注目されるのだと。
「長政殿の初陣の武勇伝を聞きたいと思っていたのだ」
「義兄上の桶狭間合戦に比べれば、私の初陣などは」
「いやいや、余は湖北に大変な人物が現れたと当時から関心があったのだ。なんせあの六角家を黙らせたのだからな」
「あの時、私は十五歳でしたが、義兄上が五月に今川義元を討ち取った話を聞き、いざ私もと勇気を頂いたものです」
「そうか。そうか」嬉しそうな信長。
「今川義元が尾張南部へ侵攻するのに合わせ、北伊勢へ進出していた六角家と美濃の斎藤義龍は、あわよくば隙を突いて北尾張に攻め込み、尾張への所領の拡大を狙っていました。北畠具教も海部郡の服部政友に協力し弥富水軍は千艘に達する船を用意し熱田湊を攻撃したとか。しかし、義元が討たれ状況が激変します」
「あの時は北畠も義元に靡いておったな」
「我ら浅井家は、南に兵力が集中し手薄になったこれを機会に六角氏より京極殿を奉じるべしと考え、六角と対立する三好長慶殿と結んで湖北を勝ち取ることが出来たのです」
「誠に見事な初陣である」
「八月に起きた野良田の合戦でしたね」
奇妙丸は、蒲生忠三郎から当時の長政の奮戦を聞いている。
「六角軍二万が北上して来たが、我らは一万。しかし、我らの結束は高く義兄上の前例もあり、数の優劣は関係なしと士気も高かったのです」
「なるほど、士気ですか」
うんうんと頷く秀貞。
「宇曽川を挟んで対陣し、我らは軍勢を二手に分け、私が率いる小谷勢が一丸となって六角義治の居る本陣を強襲し、義治を潰走させることが出来たのです」
「余がその二年前に将軍・義輝と三好長慶殿に会いに上洛した折には、三好と六角は和平し将軍が京都に戻った時だったのだが、あの頃の六角家は盛況だった。誠に長政殿は彗星の様な登場であった」
「ハッハッハ、義兄上の勝ち戦のおかげでありますよ」
すっかり機嫌のよくなった長政は、当時のことを思い出して頬が紅潮している。
長政は信長も認める戦上手である。強い敵に向かい命を燃やす時に生を実感する英雄気質を備えている。
「良き話が聞けました。有難うございます長政殿、父上様」
奇妙丸が深く頭を下げる。
「頼りにしているぞ、義弟殿。奇妙丸のことをよろしく頼む」
「私からも、奇妙丸様の初陣に向けて長政殿からの御指南をお願い申し上げます」と秀貞。
「ハッハッハ、私で良ければ」
「心強いですね奇妙丸様!」
「うむ。長政殿が御味方なら百人力です!」
長政と強く握手する奇妙丸。長政は頼られて悪い気はしない。
「うむ。余は、息子思いの良き父であるな」
顎をなでながら満足そうに頷く信長だった。
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(*1)二成船。名前の由来は良く分かりませんが、そのようにしました。瀬戸内海で主に使われたとされていますが、江戸時代の初期には伊豆の湊で向井氏が何隻か建造した事があるということなので(三浦按針が指導したものかもしれませんが)、東海道沿岸にこの船があってもおかしくはないと思いました。
(*2)伊勢船。伊勢湾で主に使われていた安宅船らしいです。これはあくまで交易重視の船かと考えました。商人ができるだけ積載量を増やすために箱型をあえて採用していたのではないかと考えています。兵員輸送重視なら多く乗る箱型が有利です。江戸幕府の規制が入るまでは、用途に応じて船は造り分けていたのではないでしょうか。




