244部:永禄13(1570)年・元亀元年 (本能寺の変まであと12年)
永禄13年1月。
織田信長が、足利義昭と共に入京してから1年3ヶ月が経過し、両者の間には数々の対立する案件が浮上していた。
15代将軍となった義昭は、三好三人衆(三好 日向守長逸・下野守政康・岩成主税助長信)の擁立した14代将軍・足利義栄(義栄は避難先の阿波で重病に臥せっているが)に対抗し、誰が本当の“天下人”であるかを証明するため「年号改元」計画を進めていた。
更に、幕府政所執事に亡き兄・義輝の遺臣である摂津 掃部頭晴門を据え、義栄幕府(三好幕府)側についた世襲政所執事家の伊勢 兵庫頭貞為を追放してその家督は弟の貞興に相続させた。そして、貞興はまだ幼いため伊勢氏分家出身の伊勢因幡入道貞倍を本流として重用した。今回所領の回復運動を推進しているのは因幡入道貞倍だ。
そして義昭は、“先の天下人たる三好長慶入道(三好 筑前守範長)”の養子である三好義継(十河重存)と傘下の河内三好家に対しては、「御父上」信長を仲人として義継を妹婿に迎え、前天下人の子・義継は将軍の義弟となったのである。こうして自分の権力の確立に努め、義継を積極的に狩りに誘うなどして足利・三好主従の親交を深めていた。
そして、義継の家宰・松永久秀には、武家伝奏であり源氏長者でもあった久我家の元執事、竹内家出身の竹内 下総守秀勝を添えて大和国に侵攻させ、三人衆方の興福寺一条院坊人・筒井陽舜房順慶入道(筒井藤政)一派を追い詰めて優勢を保っている。
・・・竹内秀勝は文武に通じる切れ者で、松永久秀はその将来を見込んで久我家から引き抜き娘婿にしたほどの武将だ。
こうして、義昭はその政治力で三好家の本流を幕府に取り込んで三好家中を分断することに成功していた。
更に義昭は、朝廷工作も着実に進ませ、兄・義輝の死に関与し更に足利義栄を将軍職に推した関白・近衛前久(晴嗣)を追放し、義昭の加冠役になった前関白・二条晴良を関白に推している。更に源氏長者だった久我通俊(通堅)を追放した義輝の政策を継承し、久我家の赦免を拒否し「源氏長者」を手に入れ足利家の家格を向上させていた。義昭にとってはまさに絶頂期である。
信長は、未だ足利義栄と細川 掃部頭真之を擁立する阿波・讃岐の国主・三好 阿波守長治・十河 隼人佐存保兄弟と配下の三好三人衆や、一門の長老・三好 咲岩入道康長、執事・篠原入道紫雲(右京進長房)をはじめとする三好家の脅威と、不気味な沈黙を貫く越前・朝倉 左衛門督義景「唐名、金吾大将軍」の動向の不安が拭い去れていない中での改元に反対する。
そして、義昭が幕府の為に働いた者への恩賞をおざなりにして、勲功を上げていない旧家に対して所領を復活させていることに対して上洛軍の諸将が不公平感を抱いていることが政治不信の原因と捉えていた。
織田家としては、三好家は東西に分裂しているとはいえ、いつ勢力を一つに結集して敵対することがあるかもしれず、畿内に残る三好党は速やかに四国島に追い落としたかった。そして、未だ幕府に従わない越前の朝倉義景も排除しなければならないと考えていた。
義昭は、信長の考えに対して一時的とはいえ朝倉義景の保護を受けていたので越前征伐には反対だった。
そして、若狭湾からの輸出入に依存する湖北の領主・浅井長政も、若狭武田家を間接的に支配する朝倉義景との戦争は回避したかった。
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