210部:楠湊
伊勢、楠湊。
・・・室町期、伊勢平氏の後裔・神戸家の湊町として栄えた楠湊。南北朝期の南朝方の楠木氏が、神戸家と結びつきながら土着して根を広げていた。永禄10年(1567)楠城主・楠木十郎左衛門正孝が、瀧川一益に徹底抗戦し落城し一族は離散する。息子の七郎左衛門正具は大坂石山本願寺に保護され、顕如の側近に登用されていた。正具は領主・神戸具盛の娘婿でもある。
織田軍の大河内城攻めを邪魔するべく、石山本願寺の下に居た楠木正具が大坂から派遣され、北伊勢の門徒衆の協力を得て、桑名城の牢獄から山路弾正を救出していた。
楠湊は、現在は瀧川一益配下の大野佐治水軍が駐留しているが、安宅船の大半は出払っていて、広大な湊の船の出入りを管理するには人数が足りない。
楽々と侵入し、楠湊に停泊した伊勢御師船は、波止場で食料・飲料水等の荷物の積み替えを行っている。警備の兵達には見慣れた光景で、誰も伊勢御師の船に冬姫が監禁されているとは思わない。
「後藤殿!」
声を掛けられて振り向いたのは弥五郎基成だ。
「弾正、首尾はどうだった」
「豊漁だったぞ」
二人とも伊勢神戸家に仕える重臣の家柄に生まれ、山路弾正が采女城の後藤千奈姫と縁組した暁には、両家は縁戚に繋がる間柄になるはずだった。
二人が、織田家を恨む気持ちは同じだ。
肩を並べながら周囲に人がいない波止場の舳先まで行き、打ち合わせをする二人。
「北畠国司は、大河内城を退去し坂内御所に移られる。その後、外宮は堤御師の案内で、内宮は渡会御師の案内で伊勢神宮に信長が参拝するという情報が入った」
「そうか、国司殿も織田には敵わなかったか。降伏ではなく和睦ということなのだな?」
「うむ」
「神宮の御師殿は、なんと言っている?」
「福井御師は、信長に内宮参拝は渡会御師ではなく福井御師を、外宮参拝は堤御師ではなく福島御師を、それぞれの宮の御師惣官に任じ仕切らせる様に命じよと要求するつもりらしい。信長も生け捕られた冬姫を見れば条件を呑むしかあるまい」
「私は、信長を脅迫するだけでは気が収まらないがな・・」
「伊勢内宮の福井家と外宮の福島家は国司北畠家に御味方している。場合によっては信長を討っても良いとのこと。これを機に信長を暗殺しても、足利将軍家も黙認してくれましょう」
「では、伊勢神宮に乗り込み、信長を待つか」
「私もお供いたします」
「うむ」
楠湊で補給を終え、後藤達、長島浪人勢を加えて伊勢御師の船が動き始める。
「帆をあげろー!」
船は、風を受けて南へと走り出した。
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伊勢桑名湊。
長嶋城の伊藤家惣領・伊藤長時の命で瀧川家の与力となっている伊藤孫大夫、伊藤兵夫が、対岸の桑名湊の警護の任務に就いている。
「奇妙丸様の使い伴ノ二郎左衛門です。こちらに熱田から伊勢御師・福島の船は来ていませんか?」
二郎左衛門は、伴兄弟の中でも兄・一郎をしっかりと支える補佐役的存在だ。武士の正装姿は、隠密の任を請け負う忍びの者とは思えぬ程に似合う。兄弟の中では作戦計画の立案とまとめ役を担当することが多い。
身分を示す証拠に、織田木瓜の家紋入りの刀鍔を見せる。
「これは確かに、奇妙丸様のご家来衆に間違いない。伊勢御師の船ですか?」
「熱田から財宝を盗んで逃走しているのです」
「ここは街道の旅人や、都と売り買いされる物が行きかい、津島、長島からの船が往来していますので出入りは煩雑ですが、熱田方面から来た伊勢御師の船は立ち寄っていませんね」
伊藤孫大夫は検使官としてしっかり船の往来を管理している。信頼できそうな武将だ。
「判りました。忝い」
湊の街中を歩きまわって、魚屋などで情報収集するが、福島御師に係る情報は無い。
しかし、木曽川の漁師の中に長島願証寺から侍大将格の威風ある武士が、船で南の楠湊に向かうのを見たという者がいた。
湊を離れ次の目的地へと向かう二郎。
海を臨む断崖まで来て、甲賀隠密の愛用する伝書鳩の足に付けられた通信管に密書をつめて解き放つ。
「鳩よ、桜の所まで頼んだぞ!」
パタパタパタッ! 鳩が磯風にも負けずに飛んで行った。
・・奇妙丸船団旗艦、加藤船壱号艦・・
「兄上からの鳩が来ました」
「おお、早いな」
桜が鳩の伝書管から密書を取り出す。
「二郎兄からです」
「なんと書かれている?」
「桑名湊は織田軍が緊密に警護しているので、御師船は来ていないそうです。しかし、長島願証寺から南方面に出向した船があったそうです」
「願証寺から? 伊勢神宮とは関係の無い様に思えるが・・。怪しいな」
今までの経験から言って、石山本願寺が絡んでいるかもしれぬ。
伊勢長島の不穏な動きを疑い始める奇妙丸。
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