(九)
白くまどろむ光の廊を、ローザは、着せられた柘榴色の薄衣の――ちょっときわどくあやうげな意匠の胸元を押さえつつ歩き、広大と見える後宮内のあちこちを、流れるように探察していた。
探察の目的は勿論、人間界へ帰るため。
帰還に繋がる確かな情報や“あて”はなくても、それでも今は、部屋でじっと待つよりも動くことで流れに乗れると、ローザは心のどこかで感じ取っていた。
だめならだめで、そういうことならそういうこと、と、どんな未来も抱きしめるつもりで、ローザは自分の本当の心のままに進んでいた。
女官達に出くわさぬよう周辺の気配を読みつつ、頭と心の一致が示すままに分岐を重ね経て、そうして進んだ果てに、ローザは、それまでの白い玉の廊とは意匠の異なる、広い空間に辿り着いた。
金色を帯びた白大理石のような質感の内壁、円蓋状の天井は高く、その天井も壁も、緻密な模様めいた彫刻で成り立っている。
ここが後宮の最奥だろうか、とローザは内部を見回して――奥の一点に目をとめた。
それは壁に拱門型に空いた、何かの入り口らしきもの。扉はなく、近付いてみると、その向こうには幅広の昇り階段が続いていた。
階上は死角になっていて視認できないが、ローザはそこから、奇妙な気配を感じ取っていた。
喩えようのない、未知の気配。惹かれるまま、ローザは入り口をくぐり、階に足を掛ける。
足は段を昇りながら、目と心は気配を見据えたまま、一段、また一段、と、ローザは階上の気配に近付き続け、そうして、半ばほどまでを昇った時のことだった。
「薔薇姫様。」
ふいに聞こえた声に、弾かれたようにローザは振り向く。
振り向いた先の下方、階段のたもとでローザを見上げているのは、艶然たる、蘇芳色の髪の美女。
「斯様な処で、何をなさっておいででしょう。」
ローザはゆるりと息を吐くと、彼女を向き直った。
「陛下を待ちきれなくて、探しに来て迷ってた、っていう言い訳はどう思う?」
ローザの不敵な返答に、ユーディアは「ほほ、」と愉しげな笑い声を立てた。そして意味めく微笑を浮かべ、
「其は、時しも宣わせるもの、と存じまする。」
同時に彼女の後ろ、拱門の向こうからゆったりと黒衣のひと影が現れて、ローザは硬直した。
追ってユーディアの笑み声が鮮やかに言う。
「是は、陛下も、薔薇姫様をお探しなさりておられましたゆえ。」
艶然たる美女の隣、ゆったりと並び来た黒衣の男性が、金の眼差しをローザに向ける。
興を湛えたその眼差しに、ローザは一瞬、自分の脳裏を何か不穏なものがよぎった気がしないでもなかったが、ともあれ気を取り直して呼吸をひとつ、魔王の眼差しを受け止めて、そして真っ直ぐに見返す。
「…探して頂いたなんて光栄だわ、もの好きな魔王さま。」
ローザの不遜に、金の瞳の幽かな微笑をもって、魔王は応えた。ローザの挙動――選択を、愉しんで観察している様子だ。
ローザは問う。
「あなたは、私をどうするつもり。」
魔王は変わらぬ眼差しで、
「そなたの知るがままに。」
と謎の答えを返した。その意味をはかれず、ローザが彼を見つめたままでいると、彼の瞳は微笑を濃くして、
「来い、ローザ。」
心地よい低声にそこはかとなく愉しげな響きを滲ませて、魔王はローザを誘った。
行くか行くまいか、正解のない正解を追うつもりのないローザは、そういうことならそういうこと、と覚悟を決めて全てを抱きしめ、足を踏み出す。
階を降りきったローザを、美貌の主従は、興ありげな眼差しで迎えた。
「なれば、参られませ。」
蘇芳色の髪の美女が促し、ローザは彼らについて歩き出す。
白いまどろみの路に出ながら、ローザは思わず、ため息と共にこぼしていた。
「よりによって不浄の術師をお妃にしようなんて。魔王陛下はご乱心なのかしら?」
するとその発言のどこかに興を引かれたものか、前を歩くユーディアが「ほほ、」とおかしそうな笑い声を上げた。
「もう。笑ってないで、女官長として主君の暴挙を止めてよ、ユーディア。」
ローザがそう返した直後だった。前を行く魔王の気配が、ちらとユーディアを向く。
「名を?」
主が静かに問い、ユーディアは「はい」と笑みを纏ったような声で答えた。
短いやり取りではあったが、それはローザの中に、何か引っ掛かる感じを与えた。違和感の正体を探ろうとしたローザの思考はしかし、次に続いた、
「着きました。」
のユーディアの一言に、瞬時に放り棄てられた。
見れば彼女の言葉通り、そこにあるのは、見覚えのあるあの扉。ユーディアの手がそれを開き、開かれたその向こうには、薄明かりにほのめく、これまた見覚えのある室内。
早すぎる、とローザは戸惑う。先程いたあの場所を発ってから、まだ五分、いや三分だって経ってはいないだろう。
ローザが思わず「魔術を使ったの、」と問うと、「否々、後宮の内の近道は、よく存じておりますれば。」とにこやかにユーディアは答えた。
「さ、薔薇姫様。」と笑顔の美女が示す先、そこには既に部屋の中へと歩を進めていく、長身の黒衣の後ろ姿が見えた。
「二人寝の夜明けはいと近きものにてございますれば、ささ、早く中へ。」
女官の長が意味深長に促し、ローザは何だかよく分からないながらもちょっと動揺し、だが立て直し、部屋の内へと踏み出した。
扉をくぐって二、三歩のところで、後ろから「薔薇姫様」とユーディアの声に呼ばれて振り返ると、入り口の向こうから、彼女のにこやかな笑みが言った。
「薔薇姫様、人間の御身とてご案じなさることはありませぬ。」
どこか艶っぽい微笑で彼女は続ける。
「陛下は、あらゆる花を咲かせなさる御業を心得ておられますゆえ。」
「え、それってどういう」
ローザの疑問を待たず、美女は「なればよき夜を。」との台詞と共に、優美な所作で扉を閉じた。
閉まった扉に、謎の台詞の余韻が漂う。
頭の中は空白のまま、扉を見つめることしばし、ローザは、はっと我に返った。
――そうだ、魔王と話し合いをしなきゃ。
今すべきことを思い出し、ローザは後ろを振り返ろうとした。だが、できなかった。ローザの体はふいに絡め取られて、掬い上げられたのだ。
息を飲み、身をよじり仰いだ視界にローザが見たのは――
「ま、…」
薄明かりに微かな光を湛えた興ありげな眼差しが、静かにローザを見下ろしているのだった。
ローザが状況を把握する間に、魔王はローザを抱きかかえたまま、ゆったりと歩き出す。
「あ、魔王、あの、」
交渉しようと口を開き、そして何気なく目に入った光景に、ローザは硬直する。
抱えられたまま向かう先、薄明かりに照らされ待ち受けるのは――紅帳の閨。
「ま、待って、」
ローザは叫ぶ。
「待って、魔王、まだ話が――って、ひぁっ」
黒衣の胸に抱えられたまま紅帳の閨へと体は傾き、視界はくらりと反転して、背にふかふかとやわらかな感触を、ローザは感じた。
瞬間、頭より先に、体が動く。
魔王の腕から跳ねるようにすり抜け、体をひねって跳転、ぐるぐる転がり遠ざかった先で跳ね起き、身構える。
一瞬で閨の奥に逃げのびたローザを、紅帳の入り口に腰掛けた魔王が、おもしろそうに見つめていた。優雅なしぐさで腰掛けたまま、ローザの挙動を、“ただ見守っている”。
それを目にして、ローザは悟る。
「…あなた、今、私をからかったのね」
魔王の口許が弧を描く。
「…私のこと、どうするつもり。」
魔王は答えず、変わらぬ眼差しでローザを見ている。その瞳を見て、ローザの中で思い出された言葉があった。
“そなたの知るがまま”
つまり――
「私次第、ということ。」
ローザが問うと、王はやはり答えず、変わらずの表情。
ローザは、その目をじっと見つめて、ゆっくりと問いを紡ぎ出す。
「どうしたら、私を解放してくれる?」
「飽かば。」
「飽きたら、って…」
この魔王がローザの何に興味を持っているのかが分からない以上、彼が飽きる状況というのも分からない。
一体彼はローザをどうしようというのだろうかと、ローザが彼を見つめたまま思案に陥りかけていると――ふいに、魔王は動いた。
ローザは身構えたが、だが次の瞬間、視界は反転し、瞠目するままに、視界に翻る黒を、ローザは見ていた。
なにが起こったか理解できないまま、背はやわらかな感触に沈み、視界に黒衣の肩が、首筋が映り、そして――。
ローザは、ひくり、と喉をひきつらせた。
ひやり、とローザの首筋に絹のような感触。それが艶めく黒髪の長いひと房であることを、ローザの目が認識する。
たどった視線の先に、長い黒髪に縁取られた、金の瞳の至近の美貌。その唇は優雅な弧を描いている。
ローザは状況を理解して、じたばたと彼の下から二度目の脱走を試みた。が、優雅にローザを組み敷いたまま、魔族の男性の体は、ローザの抵抗を受け付けない。
先程と違い今度の彼には、ローザを捕らえておく明確な意志があるらしい。そう悟り、ローザは、さっと周囲の音が引く感覚を覚えていた。
「さっきみたいなおたわむれも、本気で私をどうにかするのも両方、お断りだわ。」
金の瞳を見据えて意志を放つと、魔王は微笑めいたまま、その口を開く。
「魔に言立てるに、其では足らぬ。」
彼の指がローザの唇をゆっくりとなぞる。
ローザの内を、一瞬、不穏なざわめきが迅ったが、だが次の瞬間、ローザの中に閃く何かが、広がる波紋のようにそれを打ち消していた。
――“そなたの知るがまま”――
「ねえ、」
水鏡のような心が広がる。心が映すままに、ローザは言葉を解き放っていた。
「わたしと、契約、しない?」
見つめ合う金の瞳が興ありげに眼差しを深め、それを意識に映しながら、ローザは、心からひらかれてゆく言葉を、ひとつひとつ、確かめるようにして紡いでいた。
「私とあなたは体を結ばない。その代わり、私はあなたに、心で仕えるの。」
そう紡いだ時、その言葉はローザの奥にぴったりと寄り添い、ローザの一部になったように感じた。
同時にそれを見つめる金の瞳に気付いた刹那、不思議な感覚が生まれる。
互いに瞳をとおしてつながり、彼がローザでローザが彼で、互いに互いであるような、永遠のような心地よさが広がる。他の何もかもすべてが流れ去って、ただ共に、海のようなやすらぎに満たされているのだった。
ふいに、その感覚はゆるやかに波ひいてゆき、ローザは静かな余韻に浸りながら、金の瞳の深い眼差しを見上げていた。
彼とつながったままの心が、彼の中の答えを共にしっていて、そしてその答えを、彼が言葉に紡ぐ。
「然、契る。」
その低く心地よい響きの誓約と共に契約は成り、余韻の中で、ローザはそれを理解していた。