優しいだけじゃない
試作確認の日は金曜に決まっていた。
灯り市の主催側の担当者が家具と展示の配置を見に来る。本番の約六週間前に実物を全部並べて、通路の幅と、座った人が動線をふさがないかを確かめる。ここで問題がなければ、あとは当日まで細かい調整だけになる。
私はこの日のために、配置図を六回描き直していた。
一番気をつかったのは「はなしごえ」の置き方だった。四脚を向かい合わせの二組にする。向かい合うと、座った人の膝と膝のあいだに空間ができて、そのぶん通路が狭くなる。図面の上では足りている。でも人が実際に座ったとき、ベビーカーが横を通れるかどうかは、並べてみないとわからない。
その確認の前々日、水曜の夕方だった。
「一脚、外したいんです」
工房の作業台の前で、瀬尾さんが言った。手には「はなしごえ」の座面がある。外されて、裏返されていた。
「金曜の確認からですか」
「はい」
「理由を聞いてもいいですか」
瀬尾さんは座面を作業台に置いて、表面を手のひらでなぞった。
「座ったときに、腿の裏が少し当たります。前の縁の角度が足りない。この座板は木目の向きのせいで削り込める量が少ないので、新しい板で作り直したいと思っています」
「作り直すと、いつまでかかりますか」
「板を選んで、削って、オイルを三回。二週間です」
二週間。仕上がるのは、灯り市のおよそ一か月前になる。
私は配置図を思い浮かべた。
「一脚ないと、向かい合わせの組が一つ欠けます。金曜は座った人の膝が通路にどれだけ出るかを確かめる日なんです。図面では足りていても、実物で一度も試さないまま本番になるのは怖いです」
「わかります」
「金曜に担当の人に立ち会ってもらって、全部確かめるつもりでした。二週間後にずらすなら、確認の段取りを一から組み直さないといけません」
「それも、わかります」
瀬尾さんは座面から手を離さなかった。
「でも、この状態で確認に出したくないです。座った人に、これで完成だと思われたくない」
私は黙った。
この人の言っていることは正しい。座った人のことを考えている。最初に会った日の、床の継ぎ目と同じだ。
でも私の言っていることも、たぶん間違っていない。
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その夜、家に帰っても配置図のことが頭から離れなかった。
瀬尾さんは譲らなかったし、私も譲らなかった。言い合いにはならなかったけれど、どちらも「わかりました」とは言わないまま、私は工房を出た。
あの人の前で、仕事の意見をはっきり違えたのは初めてだった。
嫌な気持ちではない。それが少し意外だった。瀬尾さんが「出したくない」と言ったときの顔を思い出すと、怒る気にはなれなかった。あれは頑固な顔ではない。自分の作ったものに責任を持っている顔だ。
私は配置図を広げ直した。
金曜に全部を確かめたい、と私は思っていた。でも、本当に金曜でなければいけないのは何だろう。
鉛筆を持って、確認する項目を書き出した。それから、その横に線を一本引いた。
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木曜の朝、工房に行くと、瀬尾さんが先に口を開いた。
「昨日の件ですが」
「はい」
「板は新しくしません。今の座板のまま、前の縁だけ削り直します。削れる量は少ないですが、角度を変えるだけなら足ります」
「それなら、いつ」
「オイルを塗り直して乾かすので、来週の水曜には」
私は少し驚いた。昨日の二週間が、一週間になっていた。
「新しい板じゃなくて、大丈夫なんですか」
「昨日、高瀬さんが『一度も試さないまま本番になるのは怖い』と言ったのが、ずっと気になっていました。完璧な板を待つより、本番の前に一度、四脚で座ってもらえるほうがいいと思いました」
私は配置図を出した。昨日の夜に線を引いた紙を。
「私も考えました。金曜に確かめるのは、全体の動線と、そろっている一組の向かい合わせです。膝と通路の間隔は、一組あればわかります。欠けた一組の場所には椅子の大きさの印だけ置いておきます」
「印」
「床にテープで。椅子・ここにくる予定、って書きます」
「名前はつけないんですか」
「つけません。かなり低めとか書かれたら困るので」
瀬尾さんの口元がゆるんだ。
「それで、四脚そろったところは来週の木曜に見ます。担当の人には私から連絡して、十五分だけ来てもらえないか頼みます。無理なら菜月さんと私で確かめて、写真と寸法を送ります。水曜に仕上がるなら、一日余裕があったほうがいいので」
瀬尾さんは図面を覗き込んだ。長いあいだ見ていた。
「ありがとうございます。それでお願いします」
「こちらこそ」
決まった。三分もかからなかった。
昨日あれだけ譲らなかったのに、今日は三分だった。
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金曜の確認は問題なく終わった。
担当の人はそろっている一組に実際に座って、膝の位置と通路の幅を確かめていく。床のテープを見て「ここは来週ですね」と言い、木曜の十五分を引き受けてくれた。帰り際に菜月さんが「ひより、説明うまかったね」と小声で言ってくれたのが、少しくすぐったい。
翌週の木曜、仕上がった椅子が二階に運ばれてきた。
瀬尾さんが自分で運んできて床のテープをはがし、向かい合わせの位置に置いた。四脚の「はなしごえ」がようやく二組そろう。担当の人が座って通路を確かめ、「大丈夫です」と言って帰っていった。
二人になってから、瀬尾さんが言った。
「座ってみてください」
私は直したほうの椅子に座った。座面の前の縁が、腿の裏に当たらない。ほかの三脚と座り比べてみると、縁が気にならないぶん、背もたれに預けるまでの姿勢が自然だった。
「腿のところ、当たらないです」
「そうですか」
瀬尾さんが笑った。
この前の夕日の窓辺の笑顔とも違った。もっと子どもみたいな、無防備な笑い方だった。自分の手で直したものを、誰かが気持ちよく使っている。それだけで、この人はこんな顔をする。
私は椅子に座ったまま、その顔を見ていた。
楽しいときに笑い合える人は、ほかにもいるかもしれない。
でも、意見が違うときにも向かい合っていたいと思える人は。
向かいの椅子に、瀬尾さんが座った。向かい合わせの「はなしごえ」に、私たち二人が座っている。
「高瀬さん」
「はい」
「床のテープ、いい案でした」
「瀬尾さんの削り直しも」
それ以上は言えなかった。言ったら、仕事の話ではなくなってしまう気がした。
窓の外は晴れていた。冬がもうすぐそこまで来ていた。
ああ、と思った。
照れさせる会の会長は、ここでようやく自分の負けを認めた。
笑顔だけではなかった。
私は、この人が好きだ。
向かいの瀬尾さんが不思議そうに首をかしげたので、私は慌てて座り心地の話をした。前の縁がどうとか、腿の裏がどうとか。
自分でも何を言っているのかわからない。でも瀬尾さんは真剣に聞いていて、それがまた好きだと思った。
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