瀬尾さんを照れさせる会
数えてみた。
配置図のあとの翌朝は机に突っ伏した。髪を切った翌日は「はい」で黙らされて、雨の翌朝は階段の手すりを握ったまま動けなかった。
ほかにも細かいものがいくつもある。七センチとか、手袋の片方とか、話しやすいとか。
つまり私はこの一か月で何度も照れさせられている。
そして瀬尾さんは一度も照れていない。
真顔か、小さく笑うか、口元をゆるめるか。そのくらいだ。こっちが図面を握りしめている間、向こうは平然と傘を干している。
これは不公平だと思う。
仕事の打ち合わせなら、私は相手の反応を見て段取りを組める。来場者の流れも、出店者の機嫌も、だいたい読める。読めないのはあの人の照れたところだけで、それはつまり、まだ見たことがないということだ。
見たことがないなら、見ればいい。
月曜の朝、パソコンを立ち上げながら、私は心の中で会を発足させた。
瀬尾さんを照れさせる会。会員一名。会長も一名。活動内容、瀬尾さんを照れさせること。活動場所、二人きりのとき限定。人前で困らせるのは趣味が悪いので、それは会則で禁止にした。
会則を作っている時点で、何かがおかしいことには気づいていた。気づいていたけれど、気づかないふりをした。
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第一回活動は火曜の午後だった。
一階のカフェで休憩を取っていたら、瀬尾さんが入ってきた。いつものブラック。いつもの作業着。ただ、今日は作業着の下に紺色のニットを着ていた。襟元から少しだけ見えている。
好機だった。
「瀬尾さん、そのニット似合いますね」
言った。言えた。髪を切ったときの私とは違う。今日の私は攻める側だ。
瀬尾さんはカップを受け取りながら、自分の襟元を見下ろした。
「ありがとうございます。寒くなってきたので」
「色がいいです。作業着の色と合ってて」
「そうですか」
瀬尾さんは少しだけ嬉しそうな顔をした。
それだけだった。
赤くならない。目もそらさない。窓のほうも見ない。ただ嬉しそうにカップを持って、「高瀬さんも今日は温かそうですね」と言った。
私のカーディガンを見て。
「……ありがとうございます」
褒められたわけではない。私の服まで見ていた、というだけだ。それだけで、攻めたはずの私がカーディガンの袖を引っぱっている。
第一回活動、失敗。
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第二回活動は水曜だった。
作戦を変えた。服装は向こうも慣れている。ならば仕事だ。職人は仕事を褒められると弱いはずだ。たぶん。
夕方、二階で家具の最終確認をしていた瀬尾さんに、私は資料を抱えたまま声をかけた。
「瀬尾さんの家具って、角が全部丸いですよね」
「はい」
「触っても痛くない。子どもがぶつかっても大丈夫なように、ですよね。そういうところ、すごく好きです。使う人のことを最後まで考えてる」
言いながら、自分で少し照れそうになった。でも本当のことだ。本当のことを言っているのだから、照れる必要はない。照れるべきなのは向こうだ。
瀬尾さんは「はなしごえ」の背もたれの角に指を当てた。
「ありがとうございます。そこまで触ってもらえると」
「触りますよ。気になるので」
「はい。嬉しいです」
嬉しいです、と言った。はっきりと。笑って。
赤くはならなかった。
それどころか瀬尾さんは角の丸め方の話を始めた。半径が何ミリで、どの道具で、何回やすりをかけるか。楽しそうだった。目がきらきらしている。木の話になると早口になるのは、前にも見た。
私は資料を抱えたまま、それを聞いていた。聞きながら、気づいたら笑っていた。
楽しそうに話している人を見るのは、こんなに楽しいのか。
第二回活動、失敗。ただし、会長は満足していた。会の目的を見失いかけていることに、会長はまだ気づいていない。
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第三回活動は予定になかった。
木曜の夕方、二階の窓際の椅子で、菜月さんから預かった書類を読んでいた。そこへ瀬尾さんが上がってきた。追加の二脚が予定より早く仕上がったので、明日運び込みたいという。
確認は三分で終わった。
瀬尾さんは帰りかけて、窓の外を見た。日が落ちる前の、オレンジ色の空だった。
「きれいですね」
「きれいですね」
同じことを言った。それがおかしかったのか、瀬尾さんが笑った。
いつもの小さい笑い方ではなかった。声が少しだけ出て、目尻が下がって、顔全体がほどけていく。夕日がそれを横から照らしていた。
それを見た瞬間、会のことは頭から消えていた。
「瀬尾さんの笑顔、好きです」
口から出ていた。
作戦ではなかった。会則にも活動計画にもない。見たものをそのまま言っただけだった。
瀬尾さんの笑顔が止まった。
止まって、それから。
耳が赤くなった。
耳から首筋へ、首筋から頬へ。
瀬尾さんは何か言おうとして、口を開けて、閉じた。窓のほうを見て、それから床を見る。
あの瀬尾さんが、赤くなっている。
勝った、と思った。
思った次の瞬間、自分の顔も熱いことに気づいた。
「……照れさせ作戦、成功です」
とっさに出たのはそれだった。冗談の形にして二人のあいだに置く。置かないと、この熱さの置き場所がなかった。
瀬尾さんは顔を上げた。まだ赤かった。
「作戦だったんですか」
「作戦です。会もあります。瀬尾さんを照れさせる会」
「会」
「会員一名です」
瀬尾さんは赤い顔のまま、ふっと息を吐いて笑った。
「それは、困ります」
「困ってください。会の目的なので」
「明日、椅子を運びます」
「はい。お待ちしてます」
それだけ言って、瀬尾さんは階段を降りていった。いつもより少し速い足音だった。
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一人になった二階で、私は窓際の椅子に座り直した。
勝った。初めて勝った。会の悲願達成だ。
達成したのだから、もっと嬉しいはずだった。
さっきの言葉を、頭の中でもう一度再生してみた。
瀬尾さんの笑顔、好きです。
好きです、と言った。
笑顔が、とつけたけれど。どうしてそこに「笑顔が」をつけたのか、自分でもうまく説明できない。つけなかったら何になっていたのかは、もっと説明できない。
膝の上の書類がいつの間にか皺になっていた。握っていたらしい。窓の外のオレンジはもう紺色に変わりかけていて、ガラスに映った自分の顔が見えた。
赤かった。
夕日はもう沈んでいた。だから、これは夕日のせいではない。
会長は書類を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。会の次の活動計画は、まだ何も考えていない。考えられる気がしなかった。
笑顔が好きなのは、本当だった。
その「本当」がどこまで続いているのかは、今はまだ確かめないでおくことにした。
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