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好きの返事は、翌日になります  作者: 白川 透


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7/20

傘は二本、帰り道は一緒

六時を過ぎたころから、窓の外の音が変わった。


最初は細かい音だった。それがだんだん粒の大きな音になって、七時前には二階のガラスを叩いている。灯り市の出店者一覧を最後まで確認して顔を上げると、ガラスの向こうで街灯がにじんでいた。


菜月さんは五時半に帰っている。フロアには私一人だった。


ロッカーを開けて、傘を出した。紺色の、骨が八本ある傘。朝の天気予報で午後から雨だと言っていたので、ちゃんと持ってきた。社会人として当然のことだ。


一階に降りると、工房の明かりがまだついていた。


引き戸のガラス越しに、瀬尾さんが作業台を拭いているのが見えた。片づけの最中らしい。私は通り過ぎようとして、足が勝手に遅くなった。


引き戸が開いた。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです。まだいらしたんですね」

「今、終わりました」


瀬尾さんは私の手の傘を見て、それから外を見た。雨はさっきより強くなっている。


「降ってますね」

「降ってますね」


同じことを言い合ってから、瀬尾さんは引き戸の内側に手を伸ばした。壁のフックから、黒い傘を一本取った。


二本。


私の紺と、瀬尾さんの黒。


一瞬だけ、頭の中に別の光景がよぎった。どちらかが傘を忘れていて、どちらかが「入りますか」と言う光景。少女漫画で百回くらい見た光景。


現実の私たちは二人とも天気予報を見る大人だった。


「駅ですか」

「駅です」

「僕もです」


瀬尾さんは引き戸に鍵をかけて黒い傘を開いた。私も紺の傘を開く。二つの傘が並んで、テラスの出口へ向かった。


---


灯町テラスから駅までは普通に歩けば十分ほどかかる。


テラスの裏手に抜ける細い道を使えば七分で着く。工房の人たちはいつもその道を使うと、前に相沢さんが言っていた。


瀬尾さんは裏手の道に曲がらなかった。


表の通りをまっすぐ、私と同じ道を歩いている。私が何か言う前に、もう角を一つ過ぎていた。


「そっちの道のほうが、近いんじゃないですか」

「こっちのほうが明るいので」


確かに表通りは街灯が多い。雨の日は特に、そのほうが歩きやすい。それはそうだ。


でも、それだけかどうかは聞かなかった。聞いたら、答えが返ってくる人だということを私はもう知っている。


傘と傘のあいだには距離があった。骨がぶつからないくらいの距離。並んで歩くと声は傘の内側にこもって、相手の声は雨音の向こうから聞こえてくる。


「説明の練習、あれから工房でもやりました」


瀬尾さんが言った。


「誰に聞いてもらったんですか」

「相沢さんです。最初の一言だけ」

「どうでした」

「『座ってほしい』が、ちゃんと言えました。相沢さんは座りませんでしたが」

「座らなかったんですか」

「作業椅子に座ってもらおうとしたら、断られました」


想像して、笑ってしまった。相沢さんが腕を組んで作業椅子の前に立っている姿。瀬尾さんが真顔で「座ってください」と言っている姿。


「見たかったです」

「次は、高瀬さんに座ってもらいます」

「私、灯り市当日にも座りますよ。客として」

「仕事中ですよね」

「休憩中です」


瀬尾さんの傘が少し揺れた。笑ったのだと思う。傘の陰で顔はよく見えなかったけれど、肩の動きでわかった。


雨の音と、二人分の足音と、車が水を跳ねる音。


話すことはいくらでもあった。灯り市の準備のこと。ほうじ茶ラテが思ったより美味しかったこと。仕上げ見本のオイル一回のこと。全部、どうでもいいことで、全部、話していたかった。


信号で止まった。赤が長い。


傘の縁から落ちる雨粒を見ていたら、瀬尾さんが言った。


「高瀬さんは、雨の日は好きですか」

「好きじゃないです。髪が言うことを聞かないので」

「今日は耳にかけていますね」

「かけてないと顔に張りつくんです」


言ってから思い出した。この人は前にも、私の髪のことをちゃんと見ていた。


信号が青になった。


---


駅の明かりが見えてきた。


改札の手前、屋根のあるところで二人とも傘を閉じた。雨粒を払う音が二つ重なった。


瀬尾さんは私と反対の方面だった。ホームが違う。ここで別れることになる。


私は傘の留め具を留めながら、言葉を探していた。


もう少し話していたかった。


それだけのことがなぜか言えなかった。言ったら、瀬尾さんは困るかもしれない。仕事のあとで疲れているかもしれない。明日も早いかもしれない。相手の時間を、仕事でもない私の都合でもらうのは。


そこまで考えて、口が先に動いた。


「これ以上お引き留めしたら、残業代が出ますね」


言った瞬間、自分で自分の言葉を聞いて、違うと思った。


違う。言いたかったのはそれではない。


瀬尾さんは少しだけ間を置いて、穏やかに笑った。


「そうですね。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」


それで終わりだった。


瀬尾さんは軽く頭を下げて、改札を抜けて、反対側のホームへの階段を上がっていった。黒い傘を片手に提げて。一度も振り返らなかった。


私はしばらく改札の前に立っていた。手の中の紺の傘から、まだ雨粒が落ちている。近道を使わずに歩いてくれた十分間が、もう終わっていた。


帰りの電車で窓に映る自分の顔を見ていた。前髪が雨でうねっている。耳にかけた髪だけが、きちんとしていた。


---


翌朝は晴れていた。


道路の水たまりが朝日を跳ね返していて、昨日の雨が嘘みたいだった。私はいつもより早く家を出て、いつもより早くテラスに着いた。理由はない。たまたまだ。


工房の引き戸は開いていた。


瀬尾さんが昨日の黒い傘を外に干していた。広げた傘を引き戸の脇に立てかけている。


「おはようございます」

「おはようございます」


私は二階に上がろうとした。上がろうとして、瀬尾さんが傘から手を離して、こちらを向いたのがわかった。


「昨日は」


止まった。


瀬尾さんは一度口を閉じて、言葉を選び直しているようだった。前にも見た顔だ。言い方を探している顔。


「もう少し、一緒にいたかったです」


朝の光が、干した黒い傘の上で光っている。


私は階段の手すりに手を置いたまま、動けなかった。


昨日改札の前で私が言えなかったことを、この人は一晩置いてちゃんと持ってきた。


「私も」


声が少しかすれた。咳払いをして、言い直した。


「私も、楽しかったです」


それから、もう一つ。


「昨日は、帰りたかったわけじゃないです」

「はい」

「もう少し、話していたかったです」

「そうでしたか」


瀬尾さんはそれだけ言って小さくうなずいた。口元がゆるんでいた。


「傘、乾きそうですね」


瀬尾さんが干した傘を見て言った。


「今日は晴れてますから」

「はい」


階段を上がりながら自分の手を見た。手すりを握っていた手のひらが汗ばんでいる。


一晩遅れて届いた言葉だった。届かないよりずっといい。


でも次は、私のほうがその場で言えたらいいのに。

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