傘は二本、帰り道は一緒
六時を過ぎたころから、窓の外の音が変わった。
最初は細かい音だった。それがだんだん粒の大きな音になって、七時前には二階のガラスを叩いている。灯り市の出店者一覧を最後まで確認して顔を上げると、ガラスの向こうで街灯がにじんでいた。
菜月さんは五時半に帰っている。フロアには私一人だった。
ロッカーを開けて、傘を出した。紺色の、骨が八本ある傘。朝の天気予報で午後から雨だと言っていたので、ちゃんと持ってきた。社会人として当然のことだ。
一階に降りると、工房の明かりがまだついていた。
引き戸のガラス越しに、瀬尾さんが作業台を拭いているのが見えた。片づけの最中らしい。私は通り過ぎようとして、足が勝手に遅くなった。
引き戸が開いた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。まだいらしたんですね」
「今、終わりました」
瀬尾さんは私の手の傘を見て、それから外を見た。雨はさっきより強くなっている。
「降ってますね」
「降ってますね」
同じことを言い合ってから、瀬尾さんは引き戸の内側に手を伸ばした。壁のフックから、黒い傘を一本取った。
二本。
私の紺と、瀬尾さんの黒。
一瞬だけ、頭の中に別の光景がよぎった。どちらかが傘を忘れていて、どちらかが「入りますか」と言う光景。少女漫画で百回くらい見た光景。
現実の私たちは二人とも天気予報を見る大人だった。
「駅ですか」
「駅です」
「僕もです」
瀬尾さんは引き戸に鍵をかけて黒い傘を開いた。私も紺の傘を開く。二つの傘が並んで、テラスの出口へ向かった。
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灯町テラスから駅までは普通に歩けば十分ほどかかる。
テラスの裏手に抜ける細い道を使えば七分で着く。工房の人たちはいつもその道を使うと、前に相沢さんが言っていた。
瀬尾さんは裏手の道に曲がらなかった。
表の通りをまっすぐ、私と同じ道を歩いている。私が何か言う前に、もう角を一つ過ぎていた。
「そっちの道のほうが、近いんじゃないですか」
「こっちのほうが明るいので」
確かに表通りは街灯が多い。雨の日は特に、そのほうが歩きやすい。それはそうだ。
でも、それだけかどうかは聞かなかった。聞いたら、答えが返ってくる人だということを私はもう知っている。
傘と傘のあいだには距離があった。骨がぶつからないくらいの距離。並んで歩くと声は傘の内側にこもって、相手の声は雨音の向こうから聞こえてくる。
「説明の練習、あれから工房でもやりました」
瀬尾さんが言った。
「誰に聞いてもらったんですか」
「相沢さんです。最初の一言だけ」
「どうでした」
「『座ってほしい』が、ちゃんと言えました。相沢さんは座りませんでしたが」
「座らなかったんですか」
「作業椅子に座ってもらおうとしたら、断られました」
想像して、笑ってしまった。相沢さんが腕を組んで作業椅子の前に立っている姿。瀬尾さんが真顔で「座ってください」と言っている姿。
「見たかったです」
「次は、高瀬さんに座ってもらいます」
「私、灯り市当日にも座りますよ。客として」
「仕事中ですよね」
「休憩中です」
瀬尾さんの傘が少し揺れた。笑ったのだと思う。傘の陰で顔はよく見えなかったけれど、肩の動きでわかった。
雨の音と、二人分の足音と、車が水を跳ねる音。
話すことはいくらでもあった。灯り市の準備のこと。ほうじ茶ラテが思ったより美味しかったこと。仕上げ見本のオイル一回のこと。全部、どうでもいいことで、全部、話していたかった。
信号で止まった。赤が長い。
傘の縁から落ちる雨粒を見ていたら、瀬尾さんが言った。
「高瀬さんは、雨の日は好きですか」
「好きじゃないです。髪が言うことを聞かないので」
「今日は耳にかけていますね」
「かけてないと顔に張りつくんです」
言ってから思い出した。この人は前にも、私の髪のことをちゃんと見ていた。
信号が青になった。
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駅の明かりが見えてきた。
改札の手前、屋根のあるところで二人とも傘を閉じた。雨粒を払う音が二つ重なった。
瀬尾さんは私と反対の方面だった。ホームが違う。ここで別れることになる。
私は傘の留め具を留めながら、言葉を探していた。
もう少し話していたかった。
それだけのことがなぜか言えなかった。言ったら、瀬尾さんは困るかもしれない。仕事のあとで疲れているかもしれない。明日も早いかもしれない。相手の時間を、仕事でもない私の都合でもらうのは。
そこまで考えて、口が先に動いた。
「これ以上お引き留めしたら、残業代が出ますね」
言った瞬間、自分で自分の言葉を聞いて、違うと思った。
違う。言いたかったのはそれではない。
瀬尾さんは少しだけ間を置いて、穏やかに笑った。
「そうですね。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
それで終わりだった。
瀬尾さんは軽く頭を下げて、改札を抜けて、反対側のホームへの階段を上がっていった。黒い傘を片手に提げて。一度も振り返らなかった。
私はしばらく改札の前に立っていた。手の中の紺の傘から、まだ雨粒が落ちている。近道を使わずに歩いてくれた十分間が、もう終わっていた。
帰りの電車で窓に映る自分の顔を見ていた。前髪が雨でうねっている。耳にかけた髪だけが、きちんとしていた。
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翌朝は晴れていた。
道路の水たまりが朝日を跳ね返していて、昨日の雨が嘘みたいだった。私はいつもより早く家を出て、いつもより早くテラスに着いた。理由はない。たまたまだ。
工房の引き戸は開いていた。
瀬尾さんが昨日の黒い傘を外に干していた。広げた傘を引き戸の脇に立てかけている。
「おはようございます」
「おはようございます」
私は二階に上がろうとした。上がろうとして、瀬尾さんが傘から手を離して、こちらを向いたのがわかった。
「昨日は」
止まった。
瀬尾さんは一度口を閉じて、言葉を選び直しているようだった。前にも見た顔だ。言い方を探している顔。
「もう少し、一緒にいたかったです」
朝の光が、干した黒い傘の上で光っている。
私は階段の手すりに手を置いたまま、動けなかった。
昨日改札の前で私が言えなかったことを、この人は一晩置いてちゃんと持ってきた。
「私も」
声が少しかすれた。咳払いをして、言い直した。
「私も、楽しかったです」
それから、もう一つ。
「昨日は、帰りたかったわけじゃないです」
「はい」
「もう少し、話していたかったです」
「そうでしたか」
瀬尾さんはそれだけ言って小さくうなずいた。口元がゆるんでいた。
「傘、乾きそうですね」
瀬尾さんが干した傘を見て言った。
「今日は晴れてますから」
「はい」
階段を上がりながら自分の手を見た。手すりを握っていた手のひらが汗ばんでいる。
一晩遅れて届いた言葉だった。届かないよりずっといい。
でも次は、私のほうがその場で言えたらいいのに。
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