仕事じゃないメッセージ
好きだと気づいてから、週末が一回過ぎた。
気づいたところで仕事は何も変わらない。朝は工房の前を通って二階に上がり、灯り市の出店者に電話をかけ、昼には瀬尾さんと五分だけ搬入の日程を確かめる。私のスマートフォンに入っている瀬尾さんの連絡先は工房の代表番号と仕事用のメールアドレスだけだ。
困るのは話したいことが仕事以外にばかり増えていくことだった。
帰り道に見かけた変な看板。カフェの新しいケーキ。電車で隣の人が読んでいた家具の雑誌。全部、瀬尾さんに言いたい。でも工房の代表番号に「変な看板がありました」と電話するわけにはいかない。相沢さんが出たら、私はもうこの街を歩けない。
月曜の夕方、搬入の打ち合わせが終わったところで、私は手帳を閉じた。
閉じて、開いて、もう一度閉じた。
「瀬尾さん」
「はい」
「仕事じゃない連絡先を、聞いてもいいですか」
言ってから、硬すぎたと思った。取引先に振込先を聞くみたいな言い方だった。
「仕事の連絡は今までどおり工房のほうにします。こっちは、その、仕事じゃないことを送りたくて。もちろん嫌だったら」
「嫌じゃないです」
三秒もかからなかった。
瀬尾さんは作業着のポケットからスマートフォンを出して、それから少しだけ手を止めた。
「高瀬さんもいいんですか。僕が仕事じゃないことを送っても」
「いいです。送ってください」
「何を送るかはまだわかりませんが」
「それは私もです」
画面にコードを出して、読み取ってもらう。一覧に新しい名前がひとつ増えた。「瀬尾直人」。工房の代表番号のすぐ下に、ちゃんと名前で並んでいる。
それだけのことで、帰りの階段を一段飛ばしで降りたくなった。大人なのでしなかった。
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最初の一通を送ったのは水曜の夜だった。
帰り道の商店街で、シャッターの閉まった八百屋の前に丸椅子が一脚置いてあった。脚が一本だけ短くて、その下に分厚い漫画雑誌が三冊重ねてある。それでも椅子は堂々としていた。誰かが毎日座っているらしく、座面だけがつやつやしている。
写真を撮った。送るかどうかは家に着いてお風呂に入って髪を乾かしても、まだ決まらなかった。
仕事じゃないことを送りたい、と言ったのは私だ。言った本人が送らないのはたぶん約束違反だ。
『帰り道で見つけました。この椅子、元気です』
送信して、スマートフォンを伏せた。伏せて五秒で表に戻した。
既読がついた。
返事はすぐには来なかった。十分たち、二十分たち、やっぱり変な人だと思われたかもしれないと布団の上で転がりはじめたころ、画面が光った。
長かった。
『短い脚の下に雑誌を重ねるのは理にかなっています。紙が詰まっているので潰れにくいです。ただ三冊だと、座ったときに少しずれるかもしれません。座面のつやを見ると、毎日誰かが座っているようです。ずれても、そのたびに直しながら使っているのだと思います。いい椅子です』
私は布団の上で、その文章を最後まで読んで、また最初から読んだ。
構造の話だった。真剣な、構造の話。私が「元気です」とだけ送った椅子に、この人は座る人のことまで考えて返してくれた。
笑ってしまった。笑いながら、胸の奥が少しきゅっとした。
『座る人のことまで、ありがとうございます』
『写真がよかったので』
それで終わりかと思ったら、もう一通来た。
『雑誌の題名が気になります』
拡大してみたら、三冊とも同じ漫画雑誌の同じ号だった。そう返すと、少しして『謎ですね』とだけ届いた。脚の短さには答えられても、同じ号が三冊ある理由には答えられないらしい。私は枕に顔を押しつけて笑いをこらえる。
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次の連絡は瀬尾さんからだった。
次の日の木曜、私は家で洗濯物を部屋に干していた。九時過ぎにスマートフォンが鳴った。
『見つけました』
写真が一枚ついていた。
雑貨屋の棚に、白い陶器の醤油差しが並んでいる。なぜか底に猫の脚が四本ついていて、ちょこんと座っているように見える。値札には手書きで商品名があった。
『おすわり醤油差し ちょこんと君』
私は洗濯ばさみを置いて、すぐに返事を打った。
『名前がすごいです』
『高瀬さんなら、もっといい名前をつけると思って』
覚えていたらしい。私が名前をつけるのが好きなことを。二人で椅子の名前を考えたのはもうひと月以上前なのに。
洗濯物を全部干し終えるまで考えてから送った。
『脚が猫なので、ねこあし醤油です』
『そのままですね』
『そのままが一番伝わるんです。仕事で学びました』
『ちょこんと君のほうが好きかもしれません』
負けた。醤油差しの命名で、雑貨屋の値札に負けた。
悔しいのに、顔が勝手にゆるんでいた。仕事帰りに雑貨屋の棚の前で、この人は私に送ろうと思ってくれたらしい。仕事の用事ではない。椅子でもない。醤油差しだ。
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金曜、一階のカフェで休憩が重なった。
瀬尾さんはいつものブラックで、私はほうじ茶ラテだった。ホイップは七センチではなく普通の量にした。毎回頼むと店員さんに覚えられてしまう。もう覚えられている気もする。
「ちょこんと君、買ったんですか」
「買いませんでした。家に醤油差しがあるので」
「真面目ですね」
「でも、次に行ったら買うかもしれません」
瀬尾さんはカップを置いた。
「あの雑貨屋の先で、日曜に古道具市があるんです。月に一度、神社の境内で」
「古道具市」
「古い椅子とか道具とか、誰が使っていたのかわからないものが並びます。脚の短い椅子もたぶんあります」
「雑誌つきですか」
「それは、行ってみないと」
私が笑うと、瀬尾さんも少し笑った。それからカップの縁を指でなぞって、言った。
「今度の日曜、一緒に行きませんか」
手の中のラテが急に熱くなった気がした。
「灯り市の下見、ですか」
聞いてしまった。仕事の確認みたいな顔をして。違ったら恥ずかしいから、先に逃げ道を作った。
「いいえ」
瀬尾さんは首を横に振った。
「仕事ではないです。高瀬さんと行きたいので、誘っています」
カフェの音が少し遠くなった。
食器の触れる音も、エスプレッソの機械の音も、窓の外の自転車のベルも、全部いつもどおりなのに耳に入ってこない。
今度は逃げ道を作らなかった。
「行きたいです」
声が少し大きかった。隣の席の人がこちらを見たので、カップで顔を半分隠す。
「行きたいです。日曜、空いてます」
「よかったです」
瀬尾さんはそう言って、ブラックを一口飲んだ。いつもの顔だ。ただ、カップを戻すときに受け皿に当たって小さな音がした。いつもはしない音だった。
休憩が終わって二階に戻ってからも、私は手帳を開いてペンを持ったままだった。
日曜の欄に「古道具市」と書く。その横に、もうひとつ書きたい言葉があった。
ペンの先まで来ているのに書けない。書いたら、自分で読んでしまう。
名前をつけるのは得意なはずなのに、この予定につけたい名前だけは、まだ手帳の外に出せなかった。
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