甘党とブラック派の仁義なき戦い
一階のカフェには私の定位置がある。
カウンターの一番端、工房の引き戸が見える席。見えるからといって見ているわけではない。たまたま空いていることが多いだけだ。
その席に座る前に、まずレジで注文する。
「いつもので」
「はい。キャラメルラテ、ホイップ多めですね」
店員さんが言い直してくれるのは、たぶん親切だ。いつもの、で済ませたい気持ちを毎回言葉にされる。私は小さくうなずいた。
午後三時十五分。灯り市の資料を印刷に出して、戻ってくるまでの十五分が今日の休憩だった。カフェの奥では低い音でラジオが流れている。
後ろで引き戸の音がした。足音がレジに近づいてきて、私の隣で止まった。
「ブラックを。ホットで」
振り向かなくてもわかる。わかったけれど振り向いた。瀬尾さんは作業着のままで、袖に木屑がついていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
それだけ言って、二人で受け取り口の前に立った。店員さんが私のラテにホイップを絞っている。山になっていく。瀬尾さんの視線がその山を追っているのがわかった。
「それは」
「はい」
「飲み物ですか」
「飲み物です」
「デザートに見えます」
「飲めるデザートです」
瀬尾さんが黙った。否定しなかったので、たぶん納得した。
私のラテと瀬尾さんのブラックが同時に出てきた。白と黒。並ぶと絵に描いたみたいに対照的で、店員さんが少し笑った。
「十分だけ、いいですか」
瀬尾さんが言った。私が言おうとしていたことを先に言われた。
「十分なら」
---
窓際の小さいテーブルに向かい合って座った。私の定位置ではない席に座るのは久しぶりだった。
瀬尾さんはカップを両手で持って、香りを確かめてから一口飲んだ。何も入れない。砂糖もミルクも見なかった。
「苦くないんですか」
「苦いです」
「苦いのに飲むんですか」
「苦いから飲みます」
苦いのをわざわざ選ぶ気持ちが、私にはわからない。
「高瀬さんのは、甘いですか」
「甘いです」
「甘いから飲むんですか」
「甘いから飲みます」
言ってから、同じ構文で返してしまったことに気づいた。瀬尾さんの口元が少し動いた。
「じゃあ、お互い様ですね」
「お互い様です」
私はスプーンでホイップの山をすくった。すくいながら、ふと思いついた。
「一口、飲んでみますか」
言ってから、これは変な提案だっただろうかと思う。でも瀬尾さんは変だと思わなかったらしく、少し考えてから「お願いします」と言った。店員さんに小さいカップを一つもらって、私はラテを分けた。ホイップは入れない。初心者にいきなり山は厳しい。
瀬尾さんがカップを持ち上げて、飲んだ。
動きが止まった。
目が見開かれて、それから何かを確かめるようにもう一口飲んだ。二口目でも止まった。
「どうですか」
「甘いです」
「甘いって言いました」
「思っていたより、ずっと甘いです」
真剣な声だった。嫌そうではない。ただ驚いている。カップの中を覗き込んで、底に何か沈んでいないか確かめている。
「これは、糖分が」
「気にしたら負けです」
「負けですか」
「負けです」
瀬尾さんはもう一度カップを見て、小さく「そうですか」と言った。負けを認めた顔ではなく、新しい材料を見つけた職人の顔だった。
「じゃあ、こっちも」
瀬尾さんが自分のカップをこちらへ押し出した。同じように小さいカップをもらって、ブラックが移される。黒い。本当に黒い。
私は覚悟を決めて飲んだ。
「っ」
声にならなかった。苦い。苦いというより、口の中が一気に仕事モードになる味だった。顔に出さないように努力したけれど、努力が顔に出た。
「苦いです」
「苦いですよね」
「なんでこれが飲めるんですか」
「慣れです」
「慣れたくない」
正直に言ったら、瀬尾さんが笑った。声を出して笑ったわけではない。でも肩が揺れた。この前の命名のときより、はっきりと。
「高瀬さんは、顔に全部出ますね」
「出ます。知ってます」
「仕事のときは出ないのに」
「仕事のときは出さないんです。今は休憩なので」
言ってから、休憩だから出していいと自分で決めていることに気づいた。瀬尾さんの前で。
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結局、私はラテに戻り、瀬尾さんはブラックに戻った。
それでよかった。それがよかった。
「ホイップの山は」
瀬尾さんが私のカップを見て言った。
「どのくらいまで高くできるんですか」
「店員さんの気分です」
「構造的には限界があります」
「それは瀬尾さんが考えてください」
瀬尾さんが本当に考え始めたので、私は止めなかった。十分は、たぶん少し過ぎていた。
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数日後の午後、二階で動線の確認をしていたら、階段を上がってくる足音がした。
瀬尾さんだった。仕事の用件かと思って図面を手に取ったら、瀬尾さんは図面を見ずに言った。
「カフェに、新しいのが出ていました」
「新しいの」
「ほうじ茶のラテです。ホイップが乗せられます」
私は図面を持ったまま、何を言われたのかすぐにはわからなかった。
「それを、わざわざ」
「高瀬さんが好きそうだったので」
早い。即答だった。
「飲んだんですか」
「飲んでいません。見ただけです」
「見ただけで、私が好きそうだと」
「はい」
この前の一口で何を学んだのか知らないけれど、この人は私の好みを覚えて、新しいラテを見つけて、わざわざ階段を上がってきた。仕事の用件ではなく。
「ありがとうございます。あとで行きます」
「はい」
瀬尾さんはそれだけ言って、来たときと同じ速さで降りていった。階段の途中で一度、足音が止まった。
「ホイップの限界ですが」
下から声がした。
「たぶん、七センチです」
足音が再開して、遠ざかった。
私はしばらく図面を見ていた。見ていたけれど、何も読んでいなかった。七センチ。本当に考えたらしい。この前の十分のあとも、たぶん工房で。
午後の休憩はほうじ茶ラテにした。ホイップは多めで、と頼んでから、つい付け足した。
「七センチくらいまで、いけますか」
店員さんは一瞬きょとんとして、それから笑って「挑戦してみますね」と言った。
山になっていくホイップを、私は定規を当てる気持ちで見ていた。
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