椅子の名前が大事故です
案内板の入稿期限は金曜だった。
灯り市の展示物には一点ずつ名前と短い説明をつける。来場者が「これ何だろう」で止まらないための札で、毎年私が最後に文章を整える。今年の家具は五点。低いベンチが一つと、向かい合わせに置く椅子が、追加の二脚を入れて四脚。種類は二つだから名前も二つでいい。文章はすぐ書ける。名前さえあれば。
「名前の案、工房さんから来てますか」
「来てる」
菜月さんが一枚の紙を渡してくれた。手書きだった。几帳面な字で、三行。
座りやすい椅子一号
座りやすい椅子二号
低いベンチ
私は紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。
「これ、本気かな」
「本気だと思う。瀬尾さん、字が真面目」
「真面目なのはわかる。わかるけど」
一号と二号。製品番号だ。椅子は四脚あるのに番号は二つまでで、三つ目は急に番号がなくなって、低いベンチ。低いのは事実だけれど、札に「低いベンチ」と書いてあって座りたくなる人がいるだろうか。
「相沢さんから電話あったよ。高瀬さんに相談したいって」
「相沢さんが?」
「名前のことで、って。あたしが出たら、そっちの人に見てもらえませんかって言われた」
工房の人が、名前のことで、私に。
「行ってくる」
---
工房では相沢さんが待ち構えていた。待ち構えていたというのは誇張ではなく、引き戸を開けた瞬間に「来た」と言われた。
「高瀬さん。あれ見ました」
「見ました」
「どう思いました」
「正直に言っていいですか」
「お願いします」
「一号と二号は、売り場の在庫管理みたいです」
相沢さんが天を仰いだ。奥で瀬尾さんが振り返った。
「言ったろ瀬尾。在庫だって」
「わかりやすいと思ったんですが」
「わかりやすさの方向が違う」
瀬尾さんは手を止めて、作業台に置いた紙を見た。私が持ってきたのと同じ三行の紙だ。本人も納得はしていないらしく、眉のあたりが少し困っている。
「名前をつけるのが、昔から苦手で」
「知ってる。だから高瀬さんに来てもらった」
相沢さんが私に向き直る。
「うちは作るほうは任せてもらっていいんですが、名前だけはどうにもならなくて。前の展示で瀬尾がつけた名前、何だったと思います」
「何ですか」
「『木の棚』」
「それは」
「そのまんまでしょう。来た人が『木の棚だね』って言って通り過ぎました」
瀬尾さんが黙って紙を折った。折ってもなかったことにはならない。
私は笑うのをこらえる。こらえたけれど、たぶん肩が動いた。瀬尾さんがこっちを見たので、仕事の顔に戻す。
「わかりました。少し時間をもらえますか。椅子のことを聞きながら考えたいので」
「どうぞ。瀬尾、ちゃんと答えろよ」
「はい」
---
私は紙とペンを持って、工房の隅に置かれた試作のベンチの前に座った。二階に運んだのとは別の一台で、同じ形をしている。瀬尾さんが向かいの作業椅子に腰を下ろした。相沢さんは電話が鳴って奥へ行った。
「このベンチ、どういう人に座ってほしいですか」
「誰でも」
早い。早いけれど、それでは名前にならない。
「じゃあ聞き方を変えます。これを作っているとき、頭の中で誰が座っていましたか」
瀬尾さんが少し黙った。前にも見た黙り方だ。答えがないのではなく、答えを探している。
「買い物の帰りの人です。荷物を持って、ちょっと座りたい人。あと、子どもを待っている親」
「待っている人」
「はい。待つのは立っているときつい」
私は紙に「待つ」と書いた。
「座り心地はどうですか。低いのは意図があるんですよね」
「子どもと年配の方が同じ高さで座れるように」
「前にも聞きました。覚えてます」
瀬尾さんが一瞬だけ私を見た。何か言いそうになって、やめた。たぶん、あの日の縁側の話だ。私も思い出していた。でもそれを今ここで出すと話が逸れる。逸れた先で、この前みたいに自爆しない自信がなかった。
「背もたれがないのは」
「どっちからでも座れるように。通路の両側から」
「なるほど」
両側から座れて、低くて、待つ人のため。頭の中で商店街の脇に置かれた姿を思い浮かべた。買い物袋を足元に置いた人と、ランドセルの子どもが背中合わせに座っている。知らない者同士が、ひとやすみしている。
「まちのひとやすみ」
口に出してから、自分で確かめるようにもう一回言った。
「まちのひとやすみ。どうですか」
瀬尾さんが私を見た。それから紙を見た。私の字で書いてある。
「ひらがなですか」
「ひらがなです。子どもも読めるように」
「低いベンチより、いいです」
「低いベンチには勝てます」
「はい」
瀬尾さんが紙の字をもう一度見た。
「まち、というのは」
「商店街の脇に置いてあるところを想像しました。買い物袋の人と、ランドセルの子が背中合わせで座ってるみたいな」
「ここは商店街ではないですが」
「でも、そういう顔をしてます。このベンチ」
瀬尾さんが笑った。小さくだけれど、今度はちゃんと笑った。縁側のときに崩れた真顔とは違う。口元だけでなく目が笑っていた。
私はそれを見て、仕事の顔を保つのに少し苦労した。
「じゃあ、椅子のほうも」
気を取り直して紙を一枚めくる。背もたれのある椅子が四脚。こちらは「待つ」ではなく「話す」ための椅子だと瀬尾さんは言った。向かい合わせに置いて、知り合いと座る。
「向かい合わせなら、名前は一つでいいですよね。一号二号じゃなくて」
「はい」
「何か案は」
聞いてはみたけれど期待していなかった。瀬尾さんは腕を組んで、天井を見て、それから真顔で言った。
「椅子・かなり低め」
私は一拍遅れて顔を上げた。
「かなり低め」
「はい」
「このベンチが低いベンチで、椅子は、かなり低め」
「はい」
真顔だった。完全な真顔だった。
でも私は見た。言い終わったあとの一瞬、瀬尾さんの目が私の反応を確かめるように動いたのを。
「瀬尾さん」
「はい」
「今、わざとですよね」
瀬尾さんは答えなかった。答えない代わりに、折った紙をもう一度開いて、「低いベンチ」の文字を指でとんとんと叩いた。
「これより、ひどい名前を考えました」
「やっぱりわざとじゃないですか」
「低いベンチが一番下だと思われたくなかったので」
私は吹き出した。こらえられなかった。工房の奥で電話をしていた相沢さんが「何、どうした」と顔を出す。私が手を振って大丈夫ですと伝える間も、瀬尾さんは真顔のままでいる。でも口の端が、少しだけ得意そうに見えた。
この人は名前をつけるのが苦手だ。それは本当だ。
でも、わざとひどい名前を言って、私が笑うかどうかを見ている。そんなことをする人だとは、先週まで思っていなかった。
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椅子のほうはしばらく二人で黙って向かい合わせの椅子を眺めた。瀬尾さんは候補を出すのをやめている。私は「話す」から離れずに言葉を探した。
「はなしごえ」
「話し声」
「向かい合って座ると、自然と声が小さくなりますよね。その感じです」
「話し声は、うるさくないですか」
「小さい声で話したくなる名前にしたつもりです」
瀬尾さんは少し考えて、「なら、いいです」と言った。
戻ってきた相沢さんに二つの名前を見せると、相沢さんは紙を持ったまま三秒くらい黙って、それから瀬尾さんに向かって言った。
「次から名前は全部高瀬さんに頼め」
「はい」
「返事が早いな」
入稿は木曜の夕方に済んだ。菜月さんが「早いね」と言って、私は「工房の人が早いから」と答えた。
帰り際、工房の前を通ると瀬尾さんが引き戸のところにいた。偶然かどうかは聞かなかった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。名前、ありがとうございました」
「こちらこそ。椅子・かなり低めは、どこかで使いたいです」
「使わないでください」
即答だった。
「じゃあ、二人だけで使います」
言ってから、自分の言った「二人だけで」という言葉が耳に残って、慌てて歩き出した。後ろで引き戸の閉まる音がする。振り返らなかった。
明日、何か届くのかどうかは読めない。読めないのが、少しだけ楽しみだった。
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