今日の可愛いは当日便で!
髪を切った。
理由は特にない。前髪が目にかかって図面が見づらかったのと、十二月に向けて忙しくなる前に済ませておきたかったのと、美容師さんが「肩につくかつかないかくらい、いけますよ」と言ったのが上手だったから。
つまり理由は三つあった。どれも瀬尾さんとは関係ない。
関係ないのに、月曜の朝に工房の前を通るとき、少しだけ歩く速さが変わった。自覚はある。自覚があるから余計に腹が立つ。
工房の引き戸は開いていた。相沢さんの姿はなく、奥で瀬尾さんが一人で何かを測っている。私は二階に上がる前に、追加の椅子の件を聞いておくことにした。仕事だ。ちゃんとした仕事の用件がある。
「おはようございます。瀬尾さん、今いいですか」
瀬尾さんが顔を上げた。
「おはようございます」
視線が一瞬だけ私の顔の横で止まった。止まって、戻った。
「髪、切りましたか」
「あ、はい。土曜に」
「似合っています」
早い。
私は口を開けて、閉じた。用件を言うつもりだった口が別の仕事をしようとして失敗した。
「ありがとうございます。あの、追加で椅子を二脚お願いできるか、納期を確認したくて」
言いながら、落ちてきた横の髪を耳にかけた。かけてから、下ろしたほうがよかったかと思って、思ったことに自分で驚いた。
「二脚なら灯り市には間に合います。十二月の第一週には渡せます」
「わかりました。じゃあ正式に書面で」
「お願いします」
三秒。納期の返事は三秒だった。似合っていますも三秒だった。
階段を上がりながら、私は自分の頬が温かいことに気づかないふりをした。別に何もおかしくない。髪を切った人に似合っていますと言うのは社会人として普通のことで、私も菜月さんに言うし、菜月さんも私に言った。瀬尾さんはそれを普通に言っただけだ。
ただ、第一声で言うとは思っていなかった。
先週の瀬尾さんは配置図の褒め言葉を翌朝に届けた。仕事の返事は三秒で、気持ちの話は翌日。私はそういう人だと思いかけていた。思いかけていたところで、似合っていますを当日に受け取った。
あれは何だったんだろう。先週のは。
月曜の午後は忙しかった。灯り市の出店者から電話が三本、案内板の色校正が一回、十二月の搬入時間の調整が一つ。電話のたびに髪が耳から落ちてきて、そのたびにかけ直した。切る前はこんなことで手が止まらなかった。慣れていないだけだ。瀬尾さんとは関係ない。
夕方、相沢さんが二階に顔を出して「追加の二脚、瀬尾から聞きました。明日こっちから位置を見に行かせます」と言う。私はカレンダーに書いた。火曜、瀬尾さん、二階。仕事の予定に人の名前を書くのはいつものことなのに、なんとなく字が丁寧になった気がして消しゴムをかけたくなる。かけなかった。
その夜、洗面所の鏡の前で髪を耳にかけてみた。かけると顔の輪郭が出て、仕事中の顔になる。下ろすと少しやわらかい。美容師さんの言ったとおりだった。どっちがいいのかはわからない。わからないまま三回くらいかけたり下ろしたりして、何をしているんだろうと思ってやめた。明日は作業があるからかける。それだけのことだ。
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火曜の昼過ぎ、二階で展示台の高さを決めていたら瀬尾さんが上がってきた。追加の二脚を置く位置を見ておきたいという。私は図面を広げて、入口からの見え方と通路の幅を確認しながら位置を決めた。
「奥の壁沿いだと、座った人が入口に背を向けます」
「じゃあ窓に向けますか」
「窓に向けると、入口から背もたれしか見えません」
「横向き」
「横向きですね」
十五分で終わった。この人と仕事をすると早い。私も早くなる。
「ありがとうございます。じゃあこれで発注書を」
「はい」
瀬尾さんは図面をたたんで、たたんだまま動かなかった。何かを言おうとして言葉を選んでいる顔をしている。私はそれを待った。先週の配置図のことがあるから、待つことを覚えた。
「昨日は言いそびれましたが」
来た。
今日は髪を耳にかけていた。作業中に落ちてくるのが面倒だったからで、瀬尾さんが来るからではない。そのはずだった。
「横の髪を耳にかけているときと下ろしているときで、雰囲気が変わりますね。今日は耳にかけていて、仕事のときの顔に見えます」
私は図面を持ったまま固まった。
昨日の似合っていますは三秒で終わった。それで全部だと思っていたのに、続きがあった。この人は昨日の朝、私が話しながら髪を耳にかけたところまで見ていて、それを一日置いてから持ってくる。
先週の配置図と同じだ。その場で一言、翌日に細かいところ。
聞いてみたかった。なんで翌日なんですか、と。でも聞き方がわからなかった。仕事の納期は三秒で答える人に、気持ちの納期だけ聞くのは変だ。変だし、聞いたら何かが始まってしまう気がした。
「それは」
声が出た。出たついでに、私の中の何かが反撃に回った。黙っていたらまた負ける。先週みたいに机に突っ伏すことになる。
「それは、つまり、可愛いってことですか」
言った瞬間に後悔した。
冗談だった。冗談のつもりだった。似合っていますで済んだ話をわざわざ翌日に細かく補足してくる人に、提出期限を過ぎてますよ、と言うくらいの軽さで。瀬尾さんが「いえ、そういう意味では」と困ってくれれば、私は笑って図面をたたんで終わりにできた。
瀬尾さんは困らなかった。
瀬尾さんが黙る。何と返ってくるのか待つ間、図面の端を持つ指に力が入って、紙が少し波打つ。
「はい」
それだけだった。
私は何も言えなかった。
「冗談です」
ようやく出た声は、冗談ですと言うには少し遅かった。
「わかっています」
瀬尾さんは私の顔を見て、それから目をそらして、窓のほうを見た。
「でも、聞かれたので」
聞かれたから答えた。この人の中ではそれで筋が通っている。通っているのはわかる。わかるけれど、窓のほうを向いたまま戻ってこないのは反則だと思う。
「位置はこれでお願いします」
瀬尾さんが図面を指さして言った。仕事の声に戻っていた。戻るのも早い。
「はい」
私は仕事の声に戻れなかった。はい、しか言えなかった。
瀬尾さんは軽く頭を下げて階段を降りていった。足音が聞こえなくなってから、私は展示台の縁に手をついて、追加の二脚の位置につけた丸を意味もなく見つめていた。
聞いたのは私だ。
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その日の夕方、発注書を書いた。椅子二脚、納期十二月第一週、設置位置は別紙図面のとおり。いつもどおりに書いて、いつもどおりに送った。送信ボタンを押して手が空いた瞬間に、はい、が頭の中で再生された。
窓際の椅子に座った。先週瀬尾さんが片手で持ち上げた椅子だ。座面に夕方の光が当たっている。
髪を耳にかける。かけてから、今日はかけていると言われたことを思い出して下ろした。下ろしてから、昨日の夜と同じことをしていると気づく。昨日は誰にも見られていなかった。今日は見られたあとだ。それだけでこんなに違う。
どこまでが三秒でどこからが翌日なのか、私にはまだ線が見えない。
帰りに一階を通ると工房の引き戸はもう閉まっていて、明かりだけがついていた。中で誰かが動いている。瀬尾さんかもしれないし相沢さんかもしれない。私は立ち止まらずに通り過ぎた。立ち止まったら、ガラス越しに目が合うかもしれない。合ったら、今日はまだ顔に出ている自信がある。
外に出て、十月の風が首筋に当たった。切る前はここまで風が来なかった。
当日便で届いたのは、私の自爆だった。
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