褒め言葉の納品が遅い
褒め言葉には納期がない。
私がそのことを身をもって知ったのは十月のはじめ、灯町テラスの二階で椅子を三脚ずらした翌朝のことだった。
話は前日に戻る。
「ここ、入口から奥が見えないね」
午後三時のイベントスペースはまだ空っぽに近い。十二月の冬の灯り市に向けて、一階の家具工房から試作品が三点だけ運び込まれたところだった。背の低いベンチが一つ、背もたれのある椅子が二つ。それをとりあえず壁沿いに並べてみた結果、入口に立つと一番手前の椅子の背もたれが視界をふさいで奥が暗く見える。
「菜月さん、入口から見て」
同僚の三浦菜月が書類を抱えたまま入口に立ち、首を伸ばして眉を寄せた。
「うん。初めて来た人はここで止まるね。奥に何があるかわからないと進まない」
「だよね。手前の椅子を向こうに回したい。でも工房の人に動かしていいか聞かないと」
「聞いてきなよ。あたしは案内板の発注があるから戻る」
菜月さんは恋の相談には向かないが仕事の相談には最高に向いている。結論が早い。私は配置図を一枚持って階段を降りた。
灯町テラスは一階に工房とカフェ、二階にイベントスペースが入った小さな複合施設で、私はその二階を運営する側の人間だ。試作品は工房から預かっているものなので、動かす前に一言確認しておきたかった。
工房の引き戸を開けると木の匂いがした。奥の作業台で背の高い人が何かを削っていて、手前では別の人が電話をしている。電話のほうが気づいて片手を上げた。共同経営者の相沢圭吾さんだ。相沢さんは受話器を押さえて顎で奥を指す。
「瀬尾、二階」
削っていた人が顔を上げた。瀬尾直人さん。この工房のもう一人の経営者で、試作品を作った本人でもある。先週の打ち合わせで名刺を交換したきりだった。
「すみません。配置のことで少しだけ」
「はい」
返事が早い。椅子を一脚、入口から見て奥の窓際へ回したいこと。背もたれが視線をさえぎっていること。図面を見せながら話すと瀬尾さんは三秒くらい黙って図面を見てから言った。
「わかりました。行きます」
本当に早い。
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二階に上がった瀬尾さんは入口に立って私と同じ場所から奥を見て、それから何も言わずに手前の椅子を持ち上げた。片手で。私は慌てて反対側を支えに行ったけれど、必要なかったみたいだ。
「ここですか」
「もう少し右。窓の光が座面に当たるくらい」
「はい」
置き直した椅子はちゃんと窓の光を受けて、入口からは背もたれの向こうに奥のベンチが見えるようになった。
「見えますね」
「見えます」
私は図面に鉛筆で椅子の位置を描き直した。ついでに入口から奥までの通路幅を歩いて測る。当日はベビーカーも車椅子も来る。椅子と壁のあいだは大人二人がすれ違える幅がほしい。歩幅で数えて、もう少しだけベンチを壁に寄せてもらえないかと頼むと、瀬尾さんは理由を聞く前に動いてくれた。
「通路ですか」
「はい。ベビーカーが通れる幅にしたくて」
「なら、こっちの椅子ももう十センチ寄せます」
言われてみればそのとおりで、私が頼む前に二脚目も動いた。
これで終わりかと思ったら、瀬尾さんは置いた椅子の前にしゃがみ込んだ。座面の裏に手を入れて揺すっている。次にベンチのほうへ移動して同じことをする。床に膝をついて、ベンチの脚の下を覗き込んでいる。
「どうかしましたか」
「床の継ぎ目に脚が乗っていたので。がたつくと座った人が不安になります」
言われて見ると、床板の継ぎ目にベンチの脚が一本だけかかっていた。瀬尾さんはベンチを数センチ横にずらして、また揺すって、うなずいた。
私は通る人を見ていた。この人は座る人を見ていた。座ったときのがたつきまで、私の目は届いていない。
「ありがとうございます。あの、これ、座っていいんですよね。展示品だけど」
「座ってください。そのために作っています」
「じゃあ遠慮なく」
ベンチに座ってみた。低い。想像よりずっと低くて、膝が少し上がる。でも足の裏がしっかり床について、体が妙に落ち着く。
「低いですね」
「子どもと年配の方が同じ高さで座れるようにしました」
「なるほど。これ、縁側ですね」
瀬尾さんが私を見た。
「縁側ですか」
「はい。知らない家の縁側に勝手に座ってる気分です。おばあちゃんがお茶を持ってきそう」
一瞬の間があって、瀬尾さんの口元が少しだけゆるんだ。笑ったというほどではない。でも真顔が崩れた。私はそれを見逃さなかった。
「お茶は出ません」
「出ないんですか」
「カフェは一階です」
真面目な顔で言うので私のほうが吹き出した。冗談なのか本気なのかわからない。たぶん半分ずつだ。
「縁側、ですか」
瀬尾さんが小さく繰り返す。私にではなくベンチに向かって言ったみたいだった。何も言わずにベンチの端を手のひらで撫でる。確かめるというより覚えておくような手つきで、何を覚えたのかは聞かなかった。
そのあと瀬尾さんは残りの椅子の脚も全部確かめて、床の継ぎ目を避けて置き直して、最後にもう一度入口に立った。
「これで大丈夫だと思います」
「助かりました。配置図は直して明日共有します」
「お願いします」
瀬尾さんは軽く頭を下げて階段を降りていった。来たときと同じ速さで。
私は入口に立ったまましばらく椅子を眺めていた。窓の光が座面に当たっている。奥のベンチが見える。たった三脚なのに、部屋が少しだけ人を待っている顔になった。
真面目なのか冗談なのか、まだよくわからない人だった。仕事は早くて、床の継ぎ目を見る人。わかっているのはそれだけだ。
夕方、戻ってきた菜月さんが入口で立ち止まって「あ、見える」と言った。それだけで今日の仕事は半分終わった気がした。残りの半分は配置図の清書で、私はそこに瀬尾さんが直した脚の位置まで細かく描き込んだ。描きながら、床の継ぎ目のことを教えてくれてありがとうございますと言い忘れたことに気づいた。
まあいい。明日、図面と一緒に送ればいい。
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翌朝、私は直した配置図を工房の共有フォルダに入れた。お礼の一文を添えようとして、何度か打っては消した。床の継ぎ目のことを書くと長くなる。結局「昨日はありがとうございました」だけにした。短い。でも遅れるよりはいい。
九時半にメッセージが届いた。瀬尾さんからだ。
『配置図を確認しました。問題ありません』
早い。やっぱりこの人は早い。そう思ってスマホを置こうとしたら、続けてもう一通届いた。
『昨日言いそびれましたが』
言いそびれた。何を。私は画面を見つめた。椅子の数を間違えたとか、やっぱり床がまずいとか、そういうことだろうか。
『入口から奥を見せたいという話は、来場者が最初に立つ場所から考えていたのだと思います。椅子を見せたいのではなく、来た人に進んでほしいという配置でした。自分は作る側なので、そういう見方をしてもらえるのはありがたいです』
私は三回読んだ。
それから自分の机に突っ伏した。
「どうしたの」
隣の菜月さんが書類越しに聞いてくる。
「褒められた」
「誰に」
「工房の瀬尾さん。昨日の椅子の配置のこと」
「よかったじゃん」
「昨日の話なんだよ。昨日言ってくれればよかったのに。昨日はお茶は出ませんとか言ってたのに」
菜月さんは何のことかわからないという顔をして、わからないまま書類に戻った。正しい。説明しても伝わらない。
だって、昨日の私は瀬尾さんが床の継ぎ目を見ているところを見ていた。
その瀬尾さんが、私のこともちゃんと見ていた。
来場者が最初に立つ場所。私はそんなふうに言葉にしていなかった。入口から奥が見えない、としか言わなかったのに、翌朝になってそれが私の考えていた形で返ってきた。
仕事の返事は三秒。褒め言葉は翌日。
納期の感覚が独特すぎる。
私はスマホを持ち直して返事を打った。
『ありがとうございます。ベンチの脚のこと、私は気づいていませんでした。座る人のことを考えてくださって嬉しかったです』
既読はすぐについた。返事はなかった。これにも続きがあるんだろうか。
私は配置図の端に小さく、窓、と書き足した。光が当たる位置を忘れないように。それから十二月の灯り市まであと何回この人と話すことになるのかを、ちょっとだけ数えた。
恋とかそういうのではない。ただ、もう一回あの真顔が崩れるところを見たいと思っただけだ。
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