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好きの返事は、翌日になります  作者: 白川 透


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19/20

好きの返事は、今日ください

「はい」


 直人さんはそれだけ言って、待ってくれた。


 急かさない人だ。最初に打ち合わせをした日からずっとそうだった。私が言葉を探していると、探し終わるまで待っている。


 考えてきた言葉はあった。昨日の夜、布団の中で何度も並べ直した。なのに今はほとんど思い出せない。


 だから、残っているものだけを話すことにした。


「私、人といるとき、いつも少しだけ頑張ってるんです。場を明るくしようとか、相手が退屈してないかなとか。それが嫌なわけじゃないんですけど」


 直人さんは黙って聞いていた。


「直人さんといると、それを忘れてるときがあります。笑わせようとしてないのに、気づいたら二人で笑ってて。私、それがすごく楽なんです」


 街灯の下で、自分の声がやけにはっきり聞こえた。


「それと、意見が違うときも、直人さんはちゃんと違うって言ってくれます。私もそれで、逃げずに向き合おうって思えるんです。違うままでも、この人とは話していたいなって」


 言いながら、ほかにもたくさんあると思った。けれど全部を並べたら、今言いたいことが埋もれてしまう気がした。


 一つだけ、まっすぐ言えばいい。


「直人さんが好きです。恋人になりたいです」


 言ってしまうと、胸の中が急に静かになった。


 直人さんは私を見ていた。瞬きを一回して、それから少しだけ息を吸った。


「僕も好きです。ぜひ」


 短い返事だった。


 言葉が足りないと思ったとき、この人の気持ちは翌日に届くことがあった。昨日言いそびれましたが、と丁寧な文章で。


 恋人になりたいという私の願いには、その場で同じ気持ちが返ってきた。


「ぜひ、って」

「ぜひです」


 直人さんは真面目な顔のまま、もう一度言った。


 その顔を見ていたら肩の力が抜けた。泣くかと思ったのに、出てきたのは笑いだった。


「今日は早いですね」


 言ってから、しまったと思った。冗談は言わないと決めていたのに。


 でも直人さんは少しだけ口元をゆるめた。


「この返事は、今日渡したかったので」

「今日」

「翌日に回したら、ひよりさんが一晩待つことになります。それに、僕も今日のうちに言いたかった」


 それを聞いたら、今度こそ目の奥が熱くなった。


 私は下を向いて、濡れた石畳の上の自分の靴を見た。直人さんの靴が半歩分だけ近づいた。


「ひよりさん」

「はい」

「抱きしめてもいいですか」


 顔を上げると、直人さんはまっすぐこっちを見ていた。聞くときもこの人は目をそらさない。


「はい。私も、そうしたいです」


 直人さんの腕がそっと背中に回った。私も手を伸ばして、上着の背中をつかんだ。


 木の匂いがした。一日中工房と会場を行き来していた人の、少し冷えた上着の匂いだった。


 どちらの心臓の音なのか分からなかった。たぶん両方だった。


 しばらくそうしていた。遠くでまた車が水を跳ねて、それで二人とも少し笑って離れた。


「帰りましょうか」


 直人さんが言った。さっき工房の前で言ったのと同じ言葉なのに、違って聞こえた。


「はい」


 今度は、私から手を出した。直人さんがそれを取った。


 駅までの道を、手をつないで歩いた。直人さんの手は上着よりずっと温かかった。


 話したのは今日のことばかりだった。ベンチの男の子のこと。二階の受付まで届いていた菜月さんの無線の声。相沢さんが片づけの最後に、椅子を一脚ずつ数えていたこと。


「おるすばんにも、今日のこと報告しないと」

「明日の朝、棚の上に報告します」

「明日なんですか」

「おるすばんへの報告は、翌日便でいいと思うので」


 私は笑った。棚の上の小さな椅子が、直人さんの報告を朝まで待っているところを想像した。


「今度、喫茶店に行きませんか。焼きプリンの」

「行きましょう。今度は、閉店の時間を僕も確認します」

「じゃあ私は、寄り道を増やさない係をします」

「それは難しい係ですね」

「自分でも難しいと思います」


 伝えそびれた話は一つもなかった。明日に回す気持ちも、なかった。


 改札の前で手を離すとき、直人さんが言った。


「おやすみなさい。今日、ありがとうございました」

「おやすみなさい。こちらこそです」


 改札を抜けてから振り返ると、直人さんはまだそこにいた。手を振ると、少し遅れて振り返してくれる。その遅れ方が、もう可笑しくて愛おしかった。


---


 翌朝、目が覚めると、カーテンの隙間が明るかった。


 昨日のことを順番に思い出して、布団の中で一人で顔を覆った。夢じゃない。右手に、まだ少しだけ感触が残っている気がした。


 枕元のスマホが光っていた。


 直人さんからだった。


『おはようございます。今日も好きです』


 それだけだった。


 翌日に届いたのは、昨日の返事の続きではなかった。今日の分の好きだった。


 私は布団の中でしばらく画面を見ていた。何度読んでも、同じことしか書いていない。それから指を動かした。


『おはようございます。私も、今日も好きです』


 送信してから、もう一行足した。


『明日の分も、明日ちゃんと言います』


 既読はすぐについた。


『楽しみにしています』


 窓の外は晴れていた。昨日の雨はもう、どこにも残っていなかった。

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