今日は冗談を言わない
土曜の朝は予報どおり小雨だった。
七時にテラスに着くと、一階の通路にはもう出店の机が並びはじめていた。広場に出すはずだった焼き菓子の店も、木のおもちゃの店も、雨の日の案どおり通路の両側に寄せてある。菜月さんが無線を片手に、机の位置を一つずつ確かめていた。
「ひより、二階お願い。こっちは任せて」
「はい」
階段を上がる。
二階のイベントスペースには家具が五点並んでいた。奥に「まちのひとやすみ」、その手前に向かい合わせの「はなしごえ」が二組。柱の手前には火曜に足した案内板が立っている。低い位置の矢印もちゃんとついていた。
床を見た。
『椅子(かなり低め)はこちら』のテープは、もうなかった。かわりに、私の作った札がベンチの前に立っている。
まちのひとやすみ。
誰がはがしたのかは聞かなくてもわかった。
---
十時に開場すると、思っていたよりずっと人が来た。
去年の灯り市も雨で、人はまばらだった。今年は違った。一階の通路が屋根の下でつながっているせいか、傘を閉じた人たちがそのまま奥まで流れてくる。焼き菓子の甘い匂いと、濡れたコートの匂いと、木のおもちゃを鳴らす音が一緒になって、階段の上まで届いてきた。
二階の入口から三歩奥の受付で、私は案内図を渡し、階段の上で人が止まらないように声をかけた。傘袋は一階の入口で菜月さんたちが配ってくれているので、上がってくる人の傘はみんな袋に収まっていて、階段に水滴が落ちない。
「奥に座れる場所があります。どうぞ、休んでいってください」
言いながら、何度も奥のベンチを見た。
「まちのひとやすみ」には、ずっと誰かが座っていた。
最初はお年寄りの夫婦だった。二人並んで、膝の上に紙袋を置いて、窓の外の雨を見ていた。次は高校生くらいの女の子が二人。その次は知らない者同士だったはずの、赤ちゃんを抱いたお母さんと、杖をついたおじいさん。おじいさんがお母さんに何か話しかけて、お母さんが笑っていた。
ひとやすみの、町の人たち。
十月に名前をつけたとき、頭の中で思い描いていたのがちょうどこういう光景だった。
耳につけた無線からはひっきりなしに菜月さんの声が聞こえてきた。延長コードをもう一本、焼き菓子の列が階段のほうまで伸びています、と一階の様子が次々に届く。声だけで、走りながら話しているのがわかった。相沢さんは二階の通路の端で、「はなしごえ」の背もたれを触っている男の人に、木の種類を説明していた。いつもは瀬尾さんの命名に呆れている人が自分の工房の椅子の話になると、少しだけ声が大きくなる。
---
昼過ぎに、瀬尾さんの家具紹介の時間が来た。
一回五分。奥のベンチの前に立って、来場者に話す。練習した日から、二か月がたっていた。
瀬尾さんがベンチの横に立つと、前に七、八人が集まった。私は受付から少しだけ離れて、後ろのほうで見ていた。
「この家具は、座ってもらうために作りました」
最初の一言は練習どおりだった。
「低いのは、子どもが座りやすいように。並んで座ると、同じものを一緒に見られます。よかったら、座ってみてください」
小さな男の子がまっさきにベンチに座った。五歳くらいだろうか。両足が床につかなくて、ぶらぶらさせている。それから、まっすぐ瀬尾さんを見上げて聞いた。
「おにいさんは、どこにすわるの?」
まわりの大人が笑った。
瀬尾さんは一瞬だけ黙った。予定にない質問だった。練習の日に私がした質問より、ずっと予想外だ。
私は息を止めて見ていた。
瀬尾さんは男の子の隣にしゃがんだ。それから、ベンチの空いているところに、自分で座った。低いベンチなので、膝が高く上がる。背の高い人が小さく折りたたまれたみたいになった。
「隣に座ります」
男の子がきゃっと笑った。
「ひくい!」
「低いです」
瀬尾さんは男の子と同じほうを向いた。窓の外の、雨に濡れた広場のほうを。
「ほら。同じものが見えますね」
「みえる!」
男の子のお母さんが後ろでスマートフォンを構えていた。まわりの大人たちも順番にベンチの端に座りはじめた。
私は受付に戻りながら、こっそり手を握りしめた。
練習の日、瀬尾さんは自分の言葉が多すぎて困っていた。今日は、言葉の代わりに隣に座った。
---
夕方、灯り市は終わった。
最後の来場者を見送って、片づけが始まった。一階の出店は菜月さんが仕切り、二階の家具は相沢さんと瀬尾さんが運ぶ。私は案内板を一枚ずつ外して、受付の机をたたんだ。
菜月さんが二階に上がってきて、私の肩を叩いた。
「ひより、今日の受付、完璧だった」
「菜月さんの一階のほうが大変でしたよ」
「それはそう。でも、二階で誰も詰まらなかったでしょ。あれ、ひよりのおかげ」
相沢さんが最後のベンチを台車に載せながら、「瀬尾、お前、子どもの隣に座ってたな」と言った。
「座りました」
「あれ、よかったぞ」
瀬尾さんは何も言わずに台車を押していった。耳が少し赤かった。
七時過ぎに、全部が終わった。
菜月さんと相沢さんが「お疲れさま」と言って先に帰っていくと、テラスの中が急に静かになった。
さっきまで、あんなに音があったのに。焼き菓子の匂いも、木のおもちゃの音も、子どもの笑い声も、もうない。二階の電気を消すと、窓の外の街灯だけが床に落ちていた。
階段を降りると、工房の前で直人さんが待っていた。
「帰りましょうか」
「はい」
---
外に出ると、雨はやんでいた。
濡れた石畳に、街灯の光がにじんでいる。息が白い。表通りは土曜の夜にしては人が少なくて、遠くで車が水を跳ねる音だけがした。
並んで歩いた。
手はつながなかった。つなごうと思えばつなげたけれど、今はそれより先に、言いたいことがあった。
「今日、いい日でしたね」
直人さんが言った。
「はい。ベンチ、ずっと誰かが座ってました」
「見ていました」
「直人さん、男の子の隣に座ったでしょう。私、後ろで見てて、泣きそうでした」
「ひよりさんが練習してくれたので」
「私は質問しただけです」
「大事な質問でした」
角を一つ曲がった。駅までは、あと少しある。
私は足を止めた。
直人さんも止まった。振り返って、私を見る。
冗談は、今日は言わない。
「直人さん」
「はい」
息を吸った。白い息が街灯の下でほどけた。
「今日は、私から先に話していいですか」
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




