手をつなぐまでの五歩
誘ったのは私だった。
『土曜の夕方、少し歩きませんか。灯り市の前に、一度ゆっくりしたくて』
送ってから、工程表を作らなかったことに気づいた。行き先も、時間も、予備の五分も決めていない。決めたのは「歩く」だけだ。
返事は二分で来た。
『歩きたいです。どこでも』
どこでも、と書く人だったのかと思った。少し前までは、ラストオーダーまで調べていた人が。
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土曜の四時半、川沿いの遊歩道の入口で待ち合わせた。
冬の日は短い。着いたときにはもう空が橙色になりかけていて、川の水面にそれが細長く映っていた。遊歩道の柵には灯り市の告知のポスターが等間隔で貼ってある。案内板の色校正を二回やり直したとき、ポスターも同じ色にそろえてもらった。
「ありました」
直人さんがポスターの前で足を止めた。
「ひよりさんの案内板と、同じ色ですね」
「同じ色にしたんです。迷ったときに、同じ色を探せばテラスに着くように」
「歩いていると、ちゃんと目に入ります」
それだけで、二回のやり直しが報われた気がした。
並んで歩き出した。
話したのはどうでもいいことばかりだった。おるすばんの隣に置く棚を直人さんが作り直したこと。私の家の近くのパン屋が冬だけ黒蜜のパンを出すこと。甘い飲み物二号はあれから二回飲んだこと。
「三号は出ましたか」
「まだです。直人さんが名前をつけてくれないと」
「考えておきます」
「考えなくていいです」
笑うと、白い息が二人分、川のほうへ流れていった。
川沿いにベンチがあるたび、直人さんは一度だけそちらに目をやる。脚の付け根と、背もたれの角度。本人は気づいていないと思う。私はそれを見つけるたびに、こっそり数えていた。今日は四台目だ。
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歩いているうちに、手のことが気になりはじめた。
直人さんの右手と、私の左手。並んで歩くと、そのあいだは二十センチくらいしかない。私は手袋をしていなかった。家を出るときに、なんとなく置いてきた。なんとなく、と自分に言い聞かせたけれど、たぶんなんとなくではない。
つなぎたい。
そう思ったのはたぶん今日が初めてではない。雨の日も、植物園のベンチでも、改札の前でも。思っていたけれど、思うだけにしていた。
でも今は、思うだけにしたくなかった。
聞けばいい。勝手につかむのではなくて、聞けばいい。「手を、つないでもいいですか」と。仕事でなら、もっと難しいことを毎日人に頼んでいる。
前を見た。遊歩道の先に、街灯が一本立っている。
あの街灯まで。いや、それだと遠い。
あと五歩。
五歩歩いたら、聞く。
一歩。
足元の石畳が少しだけ濡れていた。
二歩。
直人さんの歩幅がいつの間にか私に合っている。
三歩。
心臓の音が自分の足音より大きい。
四——
「ひよりさん」
直人さんの声で、数えるのが止まった。
直人さんも足を止めていた。街灯はまだ少し先で、その手前の、何もないところだった。
「手を、つないでもいいですか」
私は直人さんの顔を見た。
まじめな顔だった。少しだけ、耳が赤い。寒さのせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「……今、私も聞こうとしてました」
「え」
「あと一歩で、聞くつもりでした。五歩で聞こうって決めて、数えてて」
「数えていたんですか」
「四まで」
直人さんは一瞬目を丸くして、それから困ったように笑った。
「僕が一歩早かったんですね」
「一歩だけです」
言いながら、私は自分の左手を見た。冷えている。指先が赤くなっていた。
聞かれたのだから、答えればいい。はい、と言えばいい。
でも、言葉より先に手が動いた。
私は自分から、直人さんの右手を取った。
大きな手だった。指が長くて、手のひらの真ん中に固いところがある。毎日木を削っている人の手だ。そして、思っていたよりずっと温かかった。
直人さんの指が少し遅れて私の指を包んだ。そっと、確かめるみたいに。
「冷たいですね」
「手袋、置いてきたので」
「明日からは持ってきてください」
「明日も歩くんですか」
「そういう意味ではなくて」
言い直そうとして、直人さんは言葉を探すのをやめたようだった。
「……今日は、なくていいです」
私は笑った。笑いながら、つないだ手に少しだけ力を入れる。直人さんも同じくらいの力で返してきた。
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手をつないだまま、また歩き出した。
五歩目は二人で一緒に踏んだ。
初めてこの人と並んで駅まで歩いた雨の日、傘と傘のあいだには骨がぶつからないくらいの距離があった。今は、その距離がない。
街灯の下を過ぎると、川の向こうのビルに明かりがつきはじめていた。灯り市まで、あと一週間だ。
並んで歩きながら、私は考えていた。
直人さんが私をどう思っているのかは、たぶん、ほとんどわかっている。それでも二人ともまだ言葉にしたことはない。このまま言わなくても、きっと一緒にいられる。
でも私は、ちゃんと言いたかった。恋人として、この人の隣にいたい。
灯り市が終わったら、言おう。
私から。冗談にしないで。
決めたら、つないだ手の温かさが少しだけ違って感じられた。
「ひよりさん」
「はい」
「寒くないですか」
「寒くないです」
本当だった。左手だけ、ちっとも寒くなかった。
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