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好きの返事は、翌日になります  作者: 白川 透


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16/20

手をつなぐまでの五歩

 誘ったのは私だった。


『土曜の夕方、少し歩きませんか。灯り市の前に、一度ゆっくりしたくて』


 送ってから、工程表を作らなかったことに気づいた。行き先も、時間も、予備の五分も決めていない。決めたのは「歩く」だけだ。


 返事は二分で来た。


『歩きたいです。どこでも』


 どこでも、と書く人だったのかと思った。少し前までは、ラストオーダーまで調べていた人が。


---


 土曜の四時半、川沿いの遊歩道の入口で待ち合わせた。


 冬の日は短い。着いたときにはもう空が橙色になりかけていて、川の水面にそれが細長く映っていた。遊歩道の柵には灯り市の告知のポスターが等間隔で貼ってある。案内板の色校正を二回やり直したとき、ポスターも同じ色にそろえてもらった。


「ありました」


 直人さんがポスターの前で足を止めた。


「ひよりさんの案内板と、同じ色ですね」

「同じ色にしたんです。迷ったときに、同じ色を探せばテラスに着くように」

「歩いていると、ちゃんと目に入ります」


 それだけで、二回のやり直しが報われた気がした。


 並んで歩き出した。


 話したのはどうでもいいことばかりだった。おるすばんの隣に置く棚を直人さんが作り直したこと。私の家の近くのパン屋が冬だけ黒蜜のパンを出すこと。甘い飲み物二号はあれから二回飲んだこと。


「三号は出ましたか」

「まだです。直人さんが名前をつけてくれないと」

「考えておきます」

「考えなくていいです」


 笑うと、白い息が二人分、川のほうへ流れていった。


 川沿いにベンチがあるたび、直人さんは一度だけそちらに目をやる。脚の付け根と、背もたれの角度。本人は気づいていないと思う。私はそれを見つけるたびに、こっそり数えていた。今日は四台目だ。


---


 歩いているうちに、手のことが気になりはじめた。


 直人さんの右手と、私の左手。並んで歩くと、そのあいだは二十センチくらいしかない。私は手袋をしていなかった。家を出るときに、なんとなく置いてきた。なんとなく、と自分に言い聞かせたけれど、たぶんなんとなくではない。


 つなぎたい。


 そう思ったのはたぶん今日が初めてではない。雨の日も、植物園のベンチでも、改札の前でも。思っていたけれど、思うだけにしていた。


 でも今は、思うだけにしたくなかった。


 聞けばいい。勝手につかむのではなくて、聞けばいい。「手を、つないでもいいですか」と。仕事でなら、もっと難しいことを毎日人に頼んでいる。


 前を見た。遊歩道の先に、街灯が一本立っている。


 あの街灯まで。いや、それだと遠い。


 あと五歩。


 五歩歩いたら、聞く。


 一歩。


 足元の石畳が少しだけ濡れていた。


 二歩。


 直人さんの歩幅がいつの間にか私に合っている。


 三歩。


 心臓の音が自分の足音より大きい。


 四——


「ひよりさん」


 直人さんの声で、数えるのが止まった。


 直人さんも足を止めていた。街灯はまだ少し先で、その手前の、何もないところだった。


「手を、つないでもいいですか」


 私は直人さんの顔を見た。


 まじめな顔だった。少しだけ、耳が赤い。寒さのせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


「……今、私も聞こうとしてました」

「え」

「あと一歩で、聞くつもりでした。五歩で聞こうって決めて、数えてて」

「数えていたんですか」

「四まで」


 直人さんは一瞬目を丸くして、それから困ったように笑った。


「僕が一歩早かったんですね」

「一歩だけです」


 言いながら、私は自分の左手を見た。冷えている。指先が赤くなっていた。


 聞かれたのだから、答えればいい。はい、と言えばいい。


 でも、言葉より先に手が動いた。


 私は自分から、直人さんの右手を取った。


 大きな手だった。指が長くて、手のひらの真ん中に固いところがある。毎日木を削っている人の手だ。そして、思っていたよりずっと温かかった。


 直人さんの指が少し遅れて私の指を包んだ。そっと、確かめるみたいに。


「冷たいですね」

「手袋、置いてきたので」

「明日からは持ってきてください」

「明日も歩くんですか」

「そういう意味ではなくて」


 言い直そうとして、直人さんは言葉を探すのをやめたようだった。


「……今日は、なくていいです」


 私は笑った。笑いながら、つないだ手に少しだけ力を入れる。直人さんも同じくらいの力で返してきた。


---


 手をつないだまま、また歩き出した。


 五歩目は二人で一緒に踏んだ。


 初めてこの人と並んで駅まで歩いた雨の日、傘と傘のあいだには骨がぶつからないくらいの距離があった。今は、その距離がない。


 街灯の下を過ぎると、川の向こうのビルに明かりがつきはじめていた。灯り市まで、あと一週間だ。


 並んで歩きながら、私は考えていた。


 直人さんが私をどう思っているのかは、たぶん、ほとんどわかっている。それでも二人ともまだ言葉にしたことはない。このまま言わなくても、きっと一緒にいられる。


 でも私は、ちゃんと言いたかった。恋人として、この人の隣にいたい。


 灯り市が終わったら、言おう。


 私から。冗談にしないで。


 決めたら、つないだ手の温かさが少しだけ違って感じられた。


「ひよりさん」

「はい」

「寒くないですか」

「寒くないです」


 本当だった。左手だけ、ちっとも寒くなかった。

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