↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きの返事は、翌日になります  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/20

あと五分だけ、一緒に

 水曜の帰り、テラスの裏口で直人さんと一緒になった。


 約束していたわけではない。私が残業を終えて階段を降りたら、工房の明かりがちょうど消えたところだった。引き戸から出てきた直人さんが私を見て「お疲れさまです」と言った。


 仕事場の前では、まだ「瀬尾さん」と言いかけてしまう。テラスの門を出てから、口の中で一度だけ練習して「直人さん」と呼んだ。直人さんは少しだけ間を置いて「はい」と返した。


 駅までは表通りを歩いた。


 雨は降っていなかった。空気が冷たくて、息が白い。街路樹に小さな電球が巻きつけてあって、灯り市の前に、街のほうが先に灯っている。


 話したのは灯り市のことだった。搬入の順番、雨の日の代替案の確認、菜月さんと私で作った案内板の最終版。直人さんは家具の運び込みに軽トラックを二往復させると言い、私は二往復目の時間を手帳に書いた。


 仕事の話なのに、楽しかった。


「おるすばんは元気ですか」

「棚の上にいます。相沢さんがたまに座面を指でなでています」

「相沢さん、気に入ってるじゃないですか」

「名前は気に入っていないそうです」

「いい名前なのに」


 直人さんは「僕もそう言いました」と言った。それで少しだけ気が済んだ。


 改札の前まで来た。


 屋根の下で立ち止まる。前に雨の日、ここで傘を閉じた。直人さんは反対側のホームで、私はこちら側だ。


「じゃあ」


 私が言いかけたときだった。


「ひよりさん」


 直人さんが私の名前を呼んだ。改札の電光掲示板を一度見上げて、それからこちらを向いた。


「あと五分、一緒にいてもいいですか」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 この人は、今言った。今日のうちに。翌朝ではなく、改札の前で。


「私も」


 声が少し上ずった。


「私も、もう少し話したいです」


 直人さんがほっとしたように息を吐いた。白い息が二人のあいだでほどけて消えた。


---


 改札の横に、小さなコーヒースタンドがあった。


 五分なら、何か温かいものがあったほうがいい。二人で同じことを考えたらしく、同時にスタンドのほうを見た。


 メニューの一番上に、冬の限定品が書いてあった。


『冬のごほうび とろける黒蜜ほうじ茶ラテ 〜灯りの夜に〜』


「長いですね」


 直人さんが真顔で言った。


「長いです。でも頼みます」

「頼むんですか」

「黒蜜とほうじ茶なので」


 私はそれを、直人さんはいつものブラックを頼んだ。紙のカップに、店の人が商品名の略を書いてくれる。私のカップには「冬ごほ」とあった。


「略すと、ちょっと寂しいですね」

「直人さんなら、何て名前をつけますか」


 直人さんは私のカップをじっと見た。黒蜜の香りがしている。


「甘い飲み物、二号」

「二号?」

「一号は前にカフェで頼んでいたホイップの多いほうです」


 吹き出した。改札の前で、カップを両手で持ったまま。七センチのホイップを、この人はまだ覚えている。


「灯りの夜はどこに行ったんですか」

「伝わるほうが大事なので」

「それ、私の言葉ですよね。ずっと使ってますよね」

「使いやすいので」


 直人さんはブラックを一口飲んだ。口元が笑っていた。


 私も甘い飲み物二号を飲んだ。黒蜜が思ったより濃くて、体の奥まで温かくなった。


---


 駅の時計を見たのはカップが半分くらいになったころだった。


 五分はとっくに過ぎていた。


 直人さんも同じ時計を見ていた。見て、それから私を見た。


「過ぎましたね」

「過ぎました」


 どちらも帰ろうとは言わなかった。


「あと少しだけ」


 二人の声が重なった。


 重なったのがおかしくて、また笑った。笑いが落ち着いたあとは少しだけ黙って、カップを持ったまま改札を行き交う人を見ていた。誰かを迎えに来た人。急いで走っていく人。マフラーを巻き直す人。


 話すことがなくても、帰りたいとは思わなかった。直人さんのカップから細く上がる湯気が冷たい空気にすぐ消えていく。黒蜜の匂いとブラックの匂いが改札の前で少しだけ混ざっていた。


 カップが空になったところで、直人さんが電光掲示板を見上げた。


「僕の電車、次が八時十二分です」

「私は八時十五分です」

「ちょうどいいですね」

「ちょうどいいです」


 空のカップを、スタンドの横のごみ箱に二つ並べて捨てた。


 改札の前に戻る。今度は、ちゃんと言葉を探してから口を開いた。


「直人さん、今日、話せて楽しかったです」

「僕もです」


 それから、直人さんが続けた。


「また話しましょう」

「はい。また話しましょう」


 直人さんが改札を抜けて、反対側のホームへの階段に向かう。階段の手前で一度振り返って、小さく手を上げた。


 私も手を上げた。


 その背中が見えなくなってから、自分のホームへ歩き出した。手のひらに、まだ紙のカップの温かさが残っている気がした。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。