↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きの返事は、翌日になります  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/20

今日くらい、甘やかしてください

 その週は電話の音ばかり聞いていた。


 灯り市まであと二週間を切って、出店者からの問い合わせが一日に十本を超えた。搬入の時間、電源の数、雨の日の場所。案内板の色校正は二回やり直しになって、二回目が戻ってきたのは土曜の夜十時だった。


 日曜の朝、目覚ましを三回止めた。


 四回目で起きて、鏡を見た。目の下が少し暗い。化粧で隠せる程度で、隠せる程度ならまだ大丈夫だと思った。


 延期しようか、とは一度も考えなかった。考えなかったことに、歯を磨きながら気づいた。


---


 植物園の門の前で、瀬尾さんは今日も先に来ていた。


 灰色のコートに紺のマフラー。前と同じ格好なのに、二回目だと見とれる時間が少しだけ短くなる。少しだけ。


「おはようございます」

「おはようございます。晴れてよかったですね」


 私は張り切った声を出した。出してから、張り切りすぎたかもしれないと思った。


「温室は十時から開いてるそうです。熱帯の部屋と、サボテンの部屋と、それから蘭の展示もあって。全部回っても二時間くらいなので、お昼までに」


 言いながら、マフラーの中であくびを一つかみ殺した。かみ殺したつもりだった。


 瀬尾さんは何も言わずに、私の顔を見ていた。


「高瀬さん」

「はい」

「温室は逃げません」

「え」

「先に、少し座りませんか。日が当たっているベンチがあります」


 園内の地図を指さす代わりに、瀬尾さんは門の内側の、芝生の向こうを見た。冬の日差しの中に、木のベンチが一つ置いてある。


 大丈夫です、と言いかけた。


 言いかけて、やめた。前に昼休みのカフェで、同じ形の言葉を飲みこんだのを思い出した。


「……本当は、少し疲れてます」


 口に出すと、肩から何かが一つ下りた気がした。


「今週、電話が多くて。昨日も夜まで色校正で」

「知っています。二階の電話、ずっと鳴っていたので」

「工房まで聞こえてました?」

「階段の下まで」


 瀬尾さんはそれだけ言って、ベンチのほうへ歩き出した。私はその後ろについていった。


---


 ベンチは古い木で、座面が日に温められていた。


 座ると、背もたれの角度がちょうどよかった。瀬尾さんが一瞬だけ背もたれに手を当てて、うなずいたのが見えた。職業病だと思う。


 目の前に、葉の一枚もない木が立っていた。細い枝が空に向かって広がっていて、幹に小さな名札がかかっている。


 ネムノキ。


 瀬尾さんもその名札を見ている。見て、少し考えるような顔をした。それから、まじめな声で言った。


「高瀬さん。あれは、今日の高瀬さんの木です」


 私は名札と瀬尾さんを交互に見た。私が何か言う前に、瀬尾さんが付け足した。


「眠そうなので」

「……説明しちゃうんですか」

「わかりにくいかと思って」


 吹き出した。


 冗談を言って、すぐに自分で種明かしをする人を初めて見た。しかも真顔で。名札の前で。


 笑いが止まらなくなって、私はベンチの上で体を折った。瀬尾さんは困ったような、少し嬉しそうな顔で、私が笑い終わるのを待っていた。


「準備していたんですか、今の」

「門の前で、地図を見ていたときに」

「ネムノキがあるって、知ってたんですか」

「ありました。地図に」


 この人は私が眠そうなのを見てから、私を笑わせる方法を地図の上で探していたらしい。


 いつもなら、私のほうが場を明るくしようとする。疲れていても、相手が楽しめるように話題を探す。今日はそれをしなくてよかった。隣の人が私を笑わせる一言を用意してくれていたので。


 笑い終わったら、体の力が抜けていた。


---


 それから、しばらく何も話さなかった。


 日差しが膝の上に落ちている。遠くで子どもの声がして、鳥が一羽、ネムノキの枝にとまってまた飛んでいった。


 話さなくても、気まずくなかった。何か言わなきゃ、と思わずに済む沈黙は久しぶりだった。


 瀬尾さんが腕時計を見た。


「十一時です。温室、行きますか」


 私は少し迷った。温室には行きたい。蘭の展示も見たい。でも。


「瀬尾さん」

「はい」

「もう少し、一緒に座っていたいです」


 言えた。冗談にしないで。


「今日くらい、甘やかしてください」


 最後の一言は少しだけ冗談の形になった。でも、引っこめるための冗談ではなかった。


 瀬尾さんは腕時計から目を上げて、私を見た。


「僕も、もう少しここにいたいです」


 それから、少しだけ言葉を足した。


「高瀬さんに合わせているわけではなくて、僕がそうしたいので」


 私はうなずいた。うなずくことしかできなかった。


---


「名札があるのはいいですね」


 しばらくして、瀬尾さんが言った。ネムノキを見ている。


「名前がわかると、呼べるので」

「呼ぶんですか、木を」

「心の中で」


 この人は木に心の中で呼びかけているのか。それも少し可笑しかった。


「菜月さんは高瀬さんを名前で呼びますね」

「ひより、って。昔からそうなんです」

「相沢さんは僕を苗字で呼びます」

「瀬尾、って」

「はい」


 瀬尾さんはネムノキから目を離して、私のほうを向いた。


「僕も、名前で呼んでもいいですか。仕事じゃないときに」


 胸の奥まで、日なたの温かさが届いた気がした。


「……一回、呼ばれたことはあります」

「え」

「説明の練習のとき。ひよりちゃん、って」


 瀬尾さんが固まった。それから、耳のあたりが少し赤くなった。


「あれは、小学二年生の」

「小学二年生のひよりちゃんです」

「ちゃんは、つけません」

「つけないんですね」

「つけません」


 二人とも笑った。笑いが落ち着くのを待ってから、瀬尾さんはもう一度、私を見た。


「ひよりさん」


 呼ばれた。


 自分の名前なのに、初めて聞く音みたいだった。


「はい」


 返事をしてから、今度は私の番だと気づいた。


「私も、呼んでいいですか」

「はい」

「直人さん」


 声に出すと、思っていたよりずっと恥ずかしかった。瀬尾さん、ではない名前が口の中でまだ落ち着かない。


「はい」


 直人さんが返事をした。いつもの「はい」なのに、少しだけ声が小さかった。


 ベンチの日差しがさっきより少し傾いていた。温室にはもう少ししてから行くことにした。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。