今日くらい、甘やかしてください
その週は電話の音ばかり聞いていた。
灯り市まであと二週間を切って、出店者からの問い合わせが一日に十本を超えた。搬入の時間、電源の数、雨の日の場所。案内板の色校正は二回やり直しになって、二回目が戻ってきたのは土曜の夜十時だった。
日曜の朝、目覚ましを三回止めた。
四回目で起きて、鏡を見た。目の下が少し暗い。化粧で隠せる程度で、隠せる程度ならまだ大丈夫だと思った。
延期しようか、とは一度も考えなかった。考えなかったことに、歯を磨きながら気づいた。
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植物園の門の前で、瀬尾さんは今日も先に来ていた。
灰色のコートに紺のマフラー。前と同じ格好なのに、二回目だと見とれる時間が少しだけ短くなる。少しだけ。
「おはようございます」
「おはようございます。晴れてよかったですね」
私は張り切った声を出した。出してから、張り切りすぎたかもしれないと思った。
「温室は十時から開いてるそうです。熱帯の部屋と、サボテンの部屋と、それから蘭の展示もあって。全部回っても二時間くらいなので、お昼までに」
言いながら、マフラーの中であくびを一つかみ殺した。かみ殺したつもりだった。
瀬尾さんは何も言わずに、私の顔を見ていた。
「高瀬さん」
「はい」
「温室は逃げません」
「え」
「先に、少し座りませんか。日が当たっているベンチがあります」
園内の地図を指さす代わりに、瀬尾さんは門の内側の、芝生の向こうを見た。冬の日差しの中に、木のベンチが一つ置いてある。
大丈夫です、と言いかけた。
言いかけて、やめた。前に昼休みのカフェで、同じ形の言葉を飲みこんだのを思い出した。
「……本当は、少し疲れてます」
口に出すと、肩から何かが一つ下りた気がした。
「今週、電話が多くて。昨日も夜まで色校正で」
「知っています。二階の電話、ずっと鳴っていたので」
「工房まで聞こえてました?」
「階段の下まで」
瀬尾さんはそれだけ言って、ベンチのほうへ歩き出した。私はその後ろについていった。
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ベンチは古い木で、座面が日に温められていた。
座ると、背もたれの角度がちょうどよかった。瀬尾さんが一瞬だけ背もたれに手を当てて、うなずいたのが見えた。職業病だと思う。
目の前に、葉の一枚もない木が立っていた。細い枝が空に向かって広がっていて、幹に小さな名札がかかっている。
ネムノキ。
瀬尾さんもその名札を見ている。見て、少し考えるような顔をした。それから、まじめな声で言った。
「高瀬さん。あれは、今日の高瀬さんの木です」
私は名札と瀬尾さんを交互に見た。私が何か言う前に、瀬尾さんが付け足した。
「眠そうなので」
「……説明しちゃうんですか」
「わかりにくいかと思って」
吹き出した。
冗談を言って、すぐに自分で種明かしをする人を初めて見た。しかも真顔で。名札の前で。
笑いが止まらなくなって、私はベンチの上で体を折った。瀬尾さんは困ったような、少し嬉しそうな顔で、私が笑い終わるのを待っていた。
「準備していたんですか、今の」
「門の前で、地図を見ていたときに」
「ネムノキがあるって、知ってたんですか」
「ありました。地図に」
この人は私が眠そうなのを見てから、私を笑わせる方法を地図の上で探していたらしい。
いつもなら、私のほうが場を明るくしようとする。疲れていても、相手が楽しめるように話題を探す。今日はそれをしなくてよかった。隣の人が私を笑わせる一言を用意してくれていたので。
笑い終わったら、体の力が抜けていた。
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それから、しばらく何も話さなかった。
日差しが膝の上に落ちている。遠くで子どもの声がして、鳥が一羽、ネムノキの枝にとまってまた飛んでいった。
話さなくても、気まずくなかった。何か言わなきゃ、と思わずに済む沈黙は久しぶりだった。
瀬尾さんが腕時計を見た。
「十一時です。温室、行きますか」
私は少し迷った。温室には行きたい。蘭の展示も見たい。でも。
「瀬尾さん」
「はい」
「もう少し、一緒に座っていたいです」
言えた。冗談にしないで。
「今日くらい、甘やかしてください」
最後の一言は少しだけ冗談の形になった。でも、引っこめるための冗談ではなかった。
瀬尾さんは腕時計から目を上げて、私を見た。
「僕も、もう少しここにいたいです」
それから、少しだけ言葉を足した。
「高瀬さんに合わせているわけではなくて、僕がそうしたいので」
私はうなずいた。うなずくことしかできなかった。
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「名札があるのはいいですね」
しばらくして、瀬尾さんが言った。ネムノキを見ている。
「名前がわかると、呼べるので」
「呼ぶんですか、木を」
「心の中で」
この人は木に心の中で呼びかけているのか。それも少し可笑しかった。
「菜月さんは高瀬さんを名前で呼びますね」
「ひより、って。昔からそうなんです」
「相沢さんは僕を苗字で呼びます」
「瀬尾、って」
「はい」
瀬尾さんはネムノキから目を離して、私のほうを向いた。
「僕も、名前で呼んでもいいですか。仕事じゃないときに」
胸の奥まで、日なたの温かさが届いた気がした。
「……一回、呼ばれたことはあります」
「え」
「説明の練習のとき。ひよりちゃん、って」
瀬尾さんが固まった。それから、耳のあたりが少し赤くなった。
「あれは、小学二年生の」
「小学二年生のひよりちゃんです」
「ちゃんは、つけません」
「つけないんですね」
「つけません」
二人とも笑った。笑いが落ち着くのを待ってから、瀬尾さんはもう一度、私を見た。
「ひよりさん」
呼ばれた。
自分の名前なのに、初めて聞く音みたいだった。
「はい」
返事をしてから、今度は私の番だと気づいた。
「私も、呼んでいいですか」
「はい」
「直人さん」
声に出すと、思っていたよりずっと恥ずかしかった。瀬尾さん、ではない名前が口の中でまだ落ち着かない。
「はい」
直人さんが返事をした。いつもの「はい」なのに、少しだけ声が小さかった。
ベンチの日差しがさっきより少し傾いていた。温室にはもう少ししてから行くことにした。
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