この人だって、不器用なんです
月曜の昼休み、一階のカフェで瀬尾さんの向かいに座った。
次の日曜にまた出かけることは土曜のうちにメッセージで決まっていた。決まっていないのは行き先だけだ。今日はそれを二人で決める。
瀬尾さんはブラックを脇に置いて、スマートフォンをテーブルに出した。
「候補を、いくつか調べてきました」
画面を見せてもらった。メモ帳に店や場所の名前が四つ並んでいる。そこまではいい。問題はその一つひとつの下に書いてあることだった。
開店時刻。閉店時刻。ラストオーダー。定休日。年末の臨時休業の有無。最寄り駅からの徒歩分数。
四つとも、全部。
「……ラストオーダーまで」
「はい」
「臨時休業まで」
「年末なので」
瀬尾さんは真顔だった。真顔のまま、二つ目の候補の閉店時刻を指で確かめている。そこにはもう書いてあるのに。
私はその指を見ていた。
金曜の夜、閉まった札の前で、この人は営業時間の小さな文字から目を離さなかった。展示の部屋では時計を何度も見て、二十分で出ようと言った。
それで、この画面だ。
「瀬尾さん。もしかして、金曜のこと気にしてます?」
瀬尾さんの指が止まった。
少しのあいだ、何も言わなかった。それから、スマートフォンをテーブルに伏せた。
「気にしています。高瀬さんが行きたいと言っていた店に、僕が道具の前から動かなかったせいで行けなかったので」
「私も聞いてましたよ。昔の家の椅子は、って」
「聞かれて、嬉しくて、止まりませんでした。すみませんでした」
まっすぐ頭を下げられた。昼休みのカフェで。テーブルの上のブラックが湯気だけを立てている。
私は慌てて手を振りかけて、止めた。
ここで「全然大丈夫です」と言うのは簡単だ。笑って、なかったことにすればいい。でもそれは残業代の冗談と同じ形をしている気がした。
「瀬尾さん、顔を上げてください」
瀬尾さんが顔を上げた。
「カフェは少し残念でした。焼きプリン、ずっと食べたかったので」
「はい」
「でも、道具の話も楽しかったんです。墨壺のまねも。あれは本当に面白かったです」
瀬尾さんの口元がほんの少しゆるんだ。
それに、と私は続けた。言いながら自分でも気づいた。
「私も、時計を見るのを忘れてたんです。話が楽しくて。だから半分は私です」
「半分」
「次はちゃんと時計を見て、行きたいときに言います。プリンが、って」
「プリンが、で伝わりますか」
「伝わるようにしておきます」
瀬尾さんが小さく笑った。伏せていたスマートフォンを、もう一度表に返した。
---
「瀬尾さんはどうして気持ちが翌日になるんですか」
聞くつもりはなかった。でも今なら聞ける気がした。
瀬尾さんはブラックを一口飲んで、カップを置いた。
「その場で言うと、言葉が足りない気がして」
それだけだった。
足りない、と思うくらいなら、きっとこの人は一晩かけて言葉を探している。私の髪のことも、雨の帰り道のことも。そう思ったら、翌朝の一言が少し違って見えた。
「足りなくてもいいですよ」
「はい」
「足りなかったら、翌日に足してくれるので」
瀬尾さんは何か言いかけて、やめて、うなずいた。
---
それで、行き先の話に戻った。
「じゃあ、この四つから」
私は瀬尾さんの画面を覗き込んで、自分のスマートフォンも出した。
「この喫茶店、二つ目の候補から近いんです。午前中に雑貨店に寄って、お昼をここにして、午後に美術館って手も」
言いながら、指が勝手に地図を広げていた。候補が五つになり、六つになる。
「高瀬さん」
「はい」
「工程表の顔をしています」
私は手を止めた。
瀬尾さんは真顔で、私のスマートフォンの画面を指さした。
「移動の予備は何分ですか」
「……十分です」
「増えましたね」
吹き出した。隣の席の人がこちらを見たので、カップで顔を隠す。この一か月で何度目だろう。
「瀬尾さんだって、臨時休業まで調べてたじゃないですか」
「調べました」
瀬尾さんはそう言ってから、メモ帳の一番下を指でスクロールした。四つの候補の下に、もう一行あった。閉店時刻も、ラストオーダーも書いていない一行。
「本当は、ここに行きたいと思っていました」
植物園だった。
「冬でも温室が開いていて、静かです。ベンチが多くて、座っていても誰にも急かされません」
「瀬尾さんが行きたいところですか」
「はい。僕が行きたいところです」
上の四つはどれも私が喜びそうな場所だった。この人はそれを全部調べてから、一番下に自分の本命を置いていたらしい。
「行きたいです。そこにしましょう」
「ほかの候補は」
「今回はそこだけにします。一か所だけ」
「予備時間は」
「いりません」
瀬尾さんはメモ帳の上の四つを、そっと消した。それから、植物園の下に一行だけ足した。
『喫茶店は別の日に』
「プリンが、のときに」
瀬尾さんが言った。私は笑ってうなずいた。
瀬尾さんはスマートフォンをしまって、残りのブラックを飲みほした。私もラテの最後の一口を飲む。
昼休みがあと五分で終わる。今度は、ちゃんと時計を見ていた。
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