完璧なデートはありません!
月曜の夜、私は工程表を作った。
仕事の癖だった。灯り市の準備で毎日作っているのと同じ表を、気づいたら家のパソコンで開いていた。列は時刻、場所、移動、所要時間、備考。行は五つ。
金曜の仕事帰り、十七時半にテラスを出る。駅の反対側の雑貨店で二十分。そこから歩いて八分の喫茶店で四十分。閉店は十九時で、ラストオーダーは十八時四十五分。最後に、駅ビルの上で二十時まで開いている小さな木工の展示を見る。移動にはそれぞれ予備を五分ずつ入れた。
喫茶店の欄の備考には「焼きプリン(数量限定)」と書いた。ずっと行きたかった店だ。プリンは固めで、カラメルが苦い。甘いものに苦いものがかかっているので、ブラック派の人とも分かり合える気がした。
雑貨店は醤油差しのお礼で、展示は瀬尾さんの好きそうなもの。行きたい場所と、行ってほしい場所を一つずつ。
完璧だった。
保存してから、これを本人に送るかどうかで十五分迷った。迷った末に、表は送らずに文章だけ送った。
『金曜の仕事帰り、少しお時間ありますか。行きたい喫茶店があります』
返事は一分で来た。
『あります。行きたいです』
それから、もう一通。
『高瀬さんが決めてくれるんですか』
『決めました。工程表もあります』
『見たいです』
結局送った。送ったら、五分後に返ってきた。
『移動の予備が五分ずつあるのがいいですね』
そこを褒められるとは思っていなかった。私は布団の上で、工程表を褒められたのは人生で初めてだと思った。
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金曜の十七時半、テラスの裏口で待ち合わせた。
瀬尾さんは作業着の上にいつものコートを着ていた。仕事帰りなので当然だ。私も通勤着で、紺のワンピースはまだ着ていない。今日は工程表のほうに全力を出した。
雑貨店には予定どおり十七時四十分に着いた。
店の奥に醤油差しの棚がある。ちょこんと君はまだいた。瀬尾さんが「まだいますね」と言い、私が「待ってましたね」と言った。おるすばんと同じだ。
予定では、ここで二十分。
問題はその棚のさらに奥だった。
古い道具の小さな一角があった。木の物差しや、真鍮の分度器や、使い方のわからない金具が浅い木箱に並んでいる。瀬尾さんの足がそこで止まった。
「これ、墨壺です」
瀬尾さんが手に取ったのは亀のような形の木の道具だった。糸を引き出すと、黒い線が引ける仕組みらしい。
「昔の大工はこれで木に線を引きました。糸に墨を含ませて、ぴんと張って弾くんです」
「弾く」
「こう」
瀬尾さんが空中で糸を弾くまねをした。真顔で。
私は笑いそうになって、こらえて、それから聞いていた。
墨壺の話は木の物差しの話になった。物差しの目盛りが今と違う話になって、それが昔の家の柱の間隔の話へつながっていく。私が「じゃあ、昔の家の椅子は」と聞いたら、話はもう一段深くなった。
聞いたのは私だ。止まらなくしたのも、半分は私だった。
この人は好きなものの話をするとき、手の中の道具を少しも雑に扱わない。置くときも、箱の角に当てないように指を添える。それを見ているのが楽しかった。楽しくて、腕時計を見るのを忘れていた。
思い出したのは店の人が「すみません、そろそろ閉店で」と言いに来たときだった。
時計を見た。十八時五十分。
喫茶店のラストオーダーは五分前に終わっていた。
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雑貨店を出て、一応、喫茶店の前まで歩いた。
窓の明かりはまだついていた。でも入口には「本日は終了しました」の札がかかっていて、ガラス越しに、店の人がテーブルを拭いているのが見えた。
「……すみません」
瀬尾さんが言った。
「僕が、長く」
「私が聞いたんです。昔の家の椅子は、って」
「聞かれたら、答えたくなって」
「答えてほしかったんです」
二人で、閉まった札を見ていた。
焼きプリン。数量限定。固めで、カラメルが苦い。
少しだけ、残念だった。少しだけ、と自分に言い聞かせた。
瀬尾さんは札をしばらく見ていた。札と、その下に小さく書かれた営業時間を。私が「行きましょうか」と言うまで、そこから目を離さなかった。
展示にはまだ間に合った。駅ビルの上の小さな部屋に、木の器や箸が並んでいる。瀬尾さんは今度は時計を気にしながら見ていた。気にしすぎて、二十分で「出ましょうか」と言う。閉まるまで、まだ三十分近くあったのに。
帰りに、駅前の屋台でたい焼きを二つ買った。焼きプリンの代わりにはならないけれど、温かかった。
「瀬尾さんは頭からですか」
「尻尾からです」
「尻尾から食べる人、初めて見ました」
「最後に頭の餡が多いところが来るので」
「計画的ですね」
「高瀬さんほどでは」
工程表のことを言われているとわかって、私はたい焼きで顔を隠した。
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改札の前まで来た。
楽しかった、と言いたかった。
喫茶店には行けなかったけれど、墨壺の話も、物差しの話も、尻尾からのたい焼きも、全部楽しかった。工程表どおりにはいかなかったのに、ちゃんと楽しかった。
言えばいい。今日のうちに。
「次は予備時間を十分にします」
口から出たのはそれだった。
瀬尾さんは少し笑って、「はい」と言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
瀬尾さんが改札を抜けて、反対側のホームへ歩いていく。私はその背中を見送ってから、自分の手のたい焼きの包み紙を見た。
予備時間の話をしてどうするのだろう。
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翌朝は土曜だった。
目が覚めて、一番に昨日のことを思い出した。墨壺を弾くまねをする真顔。閉まった札をじっと見ていた横顔。尻尾からのたい焼き。
スマートフォンを手に取って、少し迷って、打った。
『昨日も楽しかったです』
送ってから、気づいた。
昨日の楽しかったを、今日送っている。
返事はすぐに来た。
『今日は高瀬さんが翌日ですね』
私は布団の中で声を出して笑った。笑って、それから顔が熱くなった。
あの人はいつも、こういう気持ちで翌朝を待っていたのだろうか。言いそびれた一言を、一晩抱えて。
もう一通来た。
『僕も楽しかったです。墨壺の話を聞いてくれて、ありがとうございました』
パソコンを開いて、金曜の工程表を出す。焼きプリンの行は消さずに残しておいた。日付の欄だけを空けて。
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