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三、日々の元気を

 * * *



 桜並木をじっくりと時間をかけて歩いた後は、私の心の中にあった不安や迷いは多少減っている。確かに自分の行動の遅さにもどかしい気分にもなってしまうが、それでも「着実に進むことが重要だ」と後に修二郎おじいさんに言ってもらったことが、すごく励みになっていた。

 そんな中、数か月経った初夏、ある花束を注文するために、いつもの調子で私は花屋へと向かっていた、何も知らずに。

 梅雨も明け、まだ夏も本格的に始まったばかりであるのに、すでに暑く照りつけるような日差しが続いている。幸い今日の空は雲で覆われているため、直射日光で苦しめられるようなことはないが、蒸し暑いのは相変わらずだ。天気予報では夕立があるだろうと言われていた。それによって少しはこの暑さも和らぐかもしれない。

 自転車を走らせて、花屋まで向かう。だが途中で信号が赤であったため、ブレーキをかけた。大通りのため、信号が変わるのに少し時間がかかりそうだ。早く変わらないかと待っていると、前方にいた日傘を差している二人のおばさんの会話が聞こえてきた。

「ねえ、知っている? この先にある道、二車線になるんですって」

「あら、両側の道から車が通れるって言うこと? それは便利になりそうね」

 一方通行から二車線になれば、迂回する手間も省けて便利になる。思わぬところでいい情報を得ることができた。これでよりおおさき花屋に人が入るだろう。

 信号機を見れば、そろそろ赤から青に変わりそうだ。ペダルを踏んで、走り始める準備をした。まだおばさんたちの会話は続いている。

「けどね、道を広げるというのは、敷地が必要。だから、この道沿いにある家やお店は移転してもらって解体するそうよ」

「あらまあ。そんな目に合わなくて良かった。いくらお金を出してくれると言っても、住み慣れた家を離れるのは嫌だわ」

 さらりと出された驚きの内容に、動かそうとした足が止まった。二人のおばさんは信号が変わると、何事もなかったかのように横断歩道を歩き始めた。その背中をただ呆然と眺める。

「立ち退き……、花屋も?」

 そう呟くと、血相を変えて一目散にペダルを漕ぎ始めた。勢いよくおばさんの横を通り過ぎると、怪訝な顔をされていた。そんなことも構わず、必死に漕ぎ続ける。ものの数分で到着するが、今は一刻も早く修次郎おじいさんに会いたかった。

 そして見えてきた花屋の入り口を見て、目を丸くした。少しずつ速度を落とし、入り口の前に止まると目に入ってきたのは、閉まったシャッターの上に貼られている張り紙であった。

『申し訳ありませんが、しばらくの間、臨時休業とさせていただきます。』

 達筆に書かれた文字は修次郎おじいさんの字だ。だが突然の休業に驚きを隠せない。ここ数週間は顔を出していなかったが、その間に――。

「咲季ちゃん?」

 突然名前を呼ばれて、すぐに振り返る。そこには買い物袋を手にした、雅幸さんがきょとんとした顔で立っていた。

「どうしたの、そんなに怖い顔して」

 驚きの出来事が続いたため、眉間にしわが寄っているのだろう。慌てて笑顔を無理矢理振りまく。

「いえ、ちょっと暑い中、自転車を走らせていたら、疲れてしまって。あの、この張り紙の意味は……」

 ちらっと視線を送ると、雅幸さんは閉まっているシャッターの前へと近づいた。

「そのままだよ。おじいちゃんが熱中症で倒れて、しばらくの間入院することになったんだ」

「入院!」

「そこまで酷くないから。ただ歳が歳だから、様子を見て入院しているだけ。心配しなくても大丈夫。今日だって、花瓶に花がないのは寂しいのだとか、色々とぼやいていたし」

 そう言いながら、鍵を取りだし、シャッターに付いている鍵穴に差して回した。そして持ち上げると、シャッターの下からガラスドアが露わになる。そしてその奥には残された花たちが賢明に生き続けていた。

「どうにか維持し続けられている状態か。鮮度は落ちてしまっているけど、まだいい方だろう」

 店の中に踏み入れると、ガラスケースを開け、そこから花を何本か選び抜き、簡易包装をして再び出てきた。向日葵も入っている明るく夏らしい花束だ。

「ちょっと持っていてくれる?」

「は、はい」

 雅幸さんから花束を受け取ると、彼は慣れた手つきでシャッターを閉め始め、あっと言う間にさっきの状態に戻した。本当に花だけを取りに来たらしい。

 おじいさんの具合が悪いというのはどれくらいだろうか。思案を巡らすが、想像が上手くできない。そんな挙動不審の私を見た雅幸さんは優しい声を掛けてくれた。

「そうだ。今からこれを持って見舞いに行くんだけど、一緒に行く? おじいちゃんに会いたがっているみたいだし」

「よろしいんですか? それならば是非ともご一緒させてください!」

 元気よく、はっきりと答えると、雅幸さんは嬉しそうに頷いた。

 裏に止めてある車に、花束と共に助手席へ乗り込んだ。雅幸さんも運転席に乗り込みエンジンを入れると、ゆっくり動かし始めた。

「車で十分くらいの場所だから、すぐに着くよ」

 そう言いながら音楽を流し始めた。私でも知っている有名な歌手の歌だ。

 音楽を聞きながら、移りゆく車窓を何となく眺めた。

 神社へと続く道には変わらず木が並んで立っている。しかしその後ろの方に見える高層ビルは幼い頃にはなかったものだ。そこは開発地として更地であった場所だが、今ではもうその面影はどこにもない。

 いつしか人々は流入し始め、必要がなくなり取り壊された建物の跡に、マンションやビルが新たに建築されていく。それが何か所もあり、気が付けば駅まで続く道にはたくさんのマンションが建っていた。

 変わらないものなど何もないのだなと、少し寂しく思ったときでもある。

 なら〝おおさき花屋〟もいつかは変わってしまうのだろうか。さっきのおばさんたちの会話が頭の中で反芻する。果たしてあの話が本当なのだろうか、躊躇いつつも尋ねようとした。

「雅幸さん、あの――」

「ほら、ここの病院。道が空いていたおかげで、早く着けた」

 雅幸さんの声に遮られて、言うタイミングを失ってしまった。車内からは少し古びた三階建ての病院が見える。そこは町の中にある病院として、今日も多くの人々が出入りしており、何度も自動ドアが開け閉めされていた。

 駐車場に止めて、外に出ると、空はどんよりとした雲で覆われている。湿気がひどく、さらに蒸し暑く感じ、それから逃れるように急いで病院の中へと入った。思った通り人々で中は溢れており、診察を待つ人で座席はいっぱいだ。

 それを横目で見つつ、入院患者がいる三階へと進んでいく。慣れない空間に少し落ち着かなかった。

 やがてある大部屋の前で止まると、雅幸さんは奥の方に視線を向ける。それを追うと、修次郎おじいさんが起き上がって、外の様子を見ていた。

「おじいちゃん、起きていて大丈夫なの?」

 他にも入院患者はいるが、声を掛けながら遠慮なく中に踏み込んでいく。雅幸さんを見つめる周りの目は、誰もが穏やかな目をしていた。

「今、昼ご飯が終わったばかりだ。おや、後ろにいるのは咲季ちゃんかい?」

 丸くされた目が向けられる。おどおどしながらも、軽く頷いた。

「お久しぶりです。たまたま雅幸さんと会った際に修次郎おじいさんの入院のことを聞き、様子が知りたくて着いてきました。突然の訪問、すみません」

「いや、むしろこんなところまで足を運んでくれて、ありがとう。そして老いぼれ爺のことも心配してくれて」

 視線が顔から手元へと移動される。その理由に気づき、大切に抱えていた花束を手渡した。

「雅幸さんが持ってきたお花です。花瓶に活けますか?」

「いや、それは雅幸にやらせよう。良かったら、話でもしていってくれないか? やはり若いお嬢さんと話す方が楽しいからね」

「おい、おじいちゃん……」

 雅幸さんが呆れたような声を出している。だが修次郎おじいさんは何も言わずに、花束を突き出した。それを渋々と受け取ると、机の上にあった花瓶を手に、病室から出ていった。

「これで少しは静かになったかな」

 にこにこしながら入り口の方を眺める修次郎おじいさんに、そっと言い返す。

「せっかく来て下さっているのに、その言い方はないと思いますが」

「夏休みだからか、毎日来ているのだ。たまには違う人とも話がしたい」

「入院して、長いんですか?」

 車に乗っている時間が短かったため、雅幸さんからあまり奥まった話は聞いていない。

「そろそろ一週間というところだ。まだ検査もあるから、退院はもう少し先だが。まったく年寄り扱いをしおって」

 その言葉に苦笑いをしながら聞き流す。もう八十近いご高齢。この暑さのせいでまた同じようなことが起こったら非常に困るだろう。なるべくなら、家族としては病院にいてほしいはずだが、それは本人にとっては不満のようだ。

「雅幸とは連絡でも取り合っているのかい?」

「いえ、今日はたまたま店の前で会いまして」

「ほう、店で。何か花束でも包んで欲しかったのか?」

「そうですね。けど別のものを買って、贈ろうかと思っています」

 修次郎おじいさんたちと顔馴染みになってから、他の花屋には出入りしていないため、他で買う気にはなれなかった。プレゼントをしやすいものとして、花束を第一候補にしていたが、他にも探せば色々とある。

「時間もあるし、とりあえず話でも聞こうか」

 だが私の考えとは裏腹に興味津々で聞き返してきた。仕事のことになり、気が引き締まったのだろうか。さっきよりも少し目に力が入っている。それにつられて思わず口を開いた。

「二週間後に父と母の結婚記念日があるのです。ちょうど三十周年でおめでたいことだから、子供たちから何か盛大にプレゼントでもしたいなと思い。姉や兄は仕事で忙しいから、私が手配することになったのです」

 花でなくてもいくらでも候補があるのは本音だ。夫婦茶碗や湯呑み、食事に連れて行くなど、姉兄に相談すればもっと案はあるだろう。

 だから修次郎おじいさんには、この話など忘れて、ゆっくりと休養を取って欲しい。あまり気を使わしても困るので、話をどうにか逸らそうと試みる。

「でも別に花束に固執しているわけではありませんので、お気になさらないでください」

「うむ、わかった。話変わるが、咲季ちゃんの誕生日はいつだ?」

「誕生日ですか? 三月ですが」

 修次郎おじいさんから突然話題を変えられるとは思ってもいなかった。特に躊躇いもなく答えると、嬉しそうな顔をされた。

「ありがとう。……なんだ、雅幸のやつ、もう戻ってきたのか。早いぞ」

「部屋を出て、すぐそこのところに水道があるのに、何を言っているんだ」

 半ば呆れたような顔をしながら、私の横を通り過ぎ、窓側にある小さな机に花瓶を置いた。

 そこに活けられた花は、さっきまでぐったりとしていた様子とはまるで別の花であるかのように、生気が戻り始めている。水が上がれば、さらに生き生きとしてくるだろう。

 その後、雅幸さんを含めて三人で話を、いや修次郎おじいさんの昔話に適度に相槌を打つような形が続いた。

 戦中のことや戦後のことはもちろんのこと、その後も続く、激動の高度経済成長時代、そして会社を定年してから始めた花屋のことまで、過去を懐かしむような表情をしながら、喋り続ける。

「ばあさんは花が好きで、ガーデニングもよくやっていた。定年後、たまたま知り合いに花屋の業者がいて、それを機に始めてみた。まあいい気分転換になったものだ」

 けれども、その言葉を出した直後の表情はどこか浮かないものだった。雅幸さんの方を見ると、静かに微笑んでいたが、どこか寂しそうな表情でもある。

 気が付けば激しい雨が窓を打ちつけ始めていた。夕立だ。予報が当たったと思いながら、視線を窓から戻すと、苦虫を潰したような顔でおじいさんも眺めていた。

「雨か……。未だに好きにはなれんな」

「私も好きじゃないですよ。動きにくいし、湿気は嫌ですし」

「そういうのも一理あるな」

 目をすっと細め、空のどこかに向かって見つめている。おじいさんにとっては他にも何か理由があるのだろう。だが雨が降るたびに憂鬱になってしまうのは、どこか損な気がする。

「けれど、雨が降ることによって気温は下がります。そして水がなければ動物や植物は生きていけません。全面から見ればいいことばかりなのに、たった一つの側面や思い込みだけで、嫌ってしまったらいいことはないですよね」

 ふと思いついたことを飾り気のない内容で言ってみる。すると修二郎おじいさんは何かに思い当たったように、口を半分開けて固まっていた。

「修二郎おじいさん、どうかされましたか?」

「いや、大丈夫だ。確かにその通りだなと思っただけだ。――思い出は、思い込みと記憶で作られるものだ。だから、変に記憶に思い込みを刷り込んではいけないな。記憶に悪気はないはずだから」

 焦点はどこか収まらず、何かを考えているようにも見える。その様子に雅幸さんと共に軽く首を傾げていた。

 やがて夕立も止み、時計を見ると、思った以上に時間は過ぎていた。さすがに帰宅することにし、修次郎おじいさんに軽く挨拶をして、雅幸さんに送ってもらうことになった。行きと同様に助手席に乗り込む。

「店に自転車を置いてあるよね。そこまででいい?」

「充分です。ありがとうございます」

 そして車を走らせ始めた。その間はあまり話もせず、音楽が流れる中、ただ何となく時間が過ぎていく。

 途中、赤信号のため一時停止した。窓の外を見ると、夕陽が建物を照らしている。その様子は温かな気分になれると同時に、どこかもの寂しいものでもあった。

「雅幸さん」

「なんだい?」

 声を投げかけると、優しい声で返してくれる。修次郎おじいさんとの話の中で、どこか引っかかっているものがあった。おそらく話題に出てきていい人が、ほとんど触れられていなかったからだ。

「修次郎おじいさんの奥さん、つまり雅幸さんのおばあさんは、いつお亡くなりになられたんですか?」

 顔色を伺うかのように覗き込むと、顔を俯かせて口を一文字にしていた。そして雅幸さんは目を細めながら口を開く。

「五年前の秋かな、高校三年の時だったから。春に癌が発見されて、延命も試みたけど、結局秋に亡くなった。おじいちゃん、まだ仕事も毎日している時だったから、なかなか見舞いにいけなかったのを、少し後悔しているようにも見えた」

「それはつまり、花屋のシャッターを下ろさなかったのですか?」

「そう。前日まで、仕入れた花を病室に持ってきていた。花を持っていくと、嬉しそうな顔をしていたから、やめられなくなったのかもしれない」

「きっとそれがおばあさんにとっては励みになっていたのでしょうね。おじいさんの手で選び、作った花束を見るのが」

 花を愛し続けた老夫婦として、とても素敵な話だと思う。だけどその一方で浮かない顔が気になる。

 信号は青になり、雅幸さんは車を走らせ始めた。そこで話は一端途切れてしまう。それ以上話をしようと思ったが、すぐに花屋の前に着いてしまった。

 お礼を言って、車から降りる。手を振りながら、走り始める雅幸さんの車を見送った。

 蝉がうるさいくらいに鳴き続けている。夕暮れは近いが、まだ汗ばむ陽気続いていた。




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