プールに残った人の形・後編
小野の事故のあとも、閉館後90分は循環を続け、水面が完全に静まるまでは誰もプールへ入らないというやり方は続いていた。
その手順に変えてから、新しい事故は起きなかった。
ただ、以前から調べていた漏水の方は少しずつ悪化していった。
補給する水の量が増え、業者が地下の循環配管を追ったところ、建物から駐車場側へ延びている古い区間のどこかで漏れている可能性が高いと分かった。
建設当時の図面と、その後の改修で引き直された配管が一部食い違っていたため、一度の調査では場所を特定できず、営業を続けながら何度か舗装を開けて確認することになった。
調査を続けていたある日、駐車場の端にある《薬乃神神社》の植栽帯まで水が回っているのが見つかった。
まとまった雨はしばらく降っていない。それなのに祠の手前だけ砂利の色が濃く、その下まで湿っていた。配管そのものはもっと建物寄りにあり、そこから漏れた水が砕石の下を伝ってきたらしい。
村上には、それがプールの水だということが匂いで分かった。湿った土の中に、毎日嗅いでいる塩素の匂いが薄く混じっている。
「この神社って、昔からここにあるんですか」
作業を見ていた畠山に訊くと、祠をちらりと見た。
「ここへ来たのは4年くらい前だよ。もとは山の方にあった」
畠山はそのとき、施設側で移設の調整を担当したという。駐車場のどこを使うか、工事車両をどう入れるか、施設利用と作業が重ならないようにするか、その程度の実務だったらしい。
「向こうで神社を見てた人も、そのころにはほとんどいなくなってたそうだ。昔からいた家自体が減ってるし、そのあとできたこっちの住宅地だって、もう年寄りが多いだろ。山の方まで見に行ける人がいないってことで、市に話が来たんだよ」
「移すときは、畠山さんもいたんですか」
「いたよ。神主さんが来た日も立ち会った。こっちへ移してから、古い社は向こうで解体してたな」
何を祀っているのかまでは、畠山も知らなかった。昔の祭りについて訊いてみても、少なくとも自分がプールへ来てからは見たことがないという。
村上自身、この施設へ異動してから、祠へわざわざ参りに来る人を見た記憶はほとんどなかった。
駐車場の端に小さな神社があることは知っていても、何の神なのかを気にしたことはなかった。
業者が機材を取りに戻り、畠山も建物へ入ったあと、村上は祠の前に少し残った。
足元までプールの水を回してしまったことが、何となく申し訳なかった。
《薬乃神神社》という名前から、薬や健康に関係する神様なのだろうと勝手に思っていた村上は、深い意味もなく手を合わせた。
「薬の神様なら、このプールの方も少し診てくださいよ」
原因の見つからない漏水への、ただの軽口だった。
顔を上げると、小さな扉の片側が少し浮いている。閉め直そうと指を掛けた拍子に隙間が広がり、薄暗い祠の奥が見えた。
そこには、黒ずんだ木のようなものが置かれていた。
高さは30センチほどで、表面には細かなひびが走っている。中央辺りがぼってりと膨らみ、上の方で少し狭くなったあと、下へ向かってまた丸みを帯びていた。何かを彫ったものなのか、もともとそういう形をした木なのかも分からない。
4年前に移された祠より、そこに置かれているものの方がずっと古く見えた。
村上は扉を閉め、仕事へ戻った。
*
数日後、閉館後のプールに、それまでとは違うものが現れた。
3コースの中央に、人が立っていた。
胸から上だけを水面へ出し、村上のいる側へ身体を向けている。
利用者が残っているはずはなかった。更衣室もシャワー室も確認済みで、最後の利用者が退館した記録もある。離れたところから声をかけても返事はなく、水中で姿勢を保つための小さな動きさえ、ほとんど見えなかった。
隣のコースでは、閉館後に何度も見てきた波が動いていた。細い波が奥から手前へ走り、壁際で水を跳ね返している。昼間に泳いでいた誰かの動きを水だけがなぞる、これまでにも見てきた現象だった。
3コースに立っているものだけが、そのどれとも合わなかった。
呼ばれてきた畠山も、しばらく水面を見ていた。
「波なら昔からあるけど、これは知らないな」
二人とも近づかなかった。
人のようなものは長いあいだ同じ場所に立ち続け、閉館から90分ほど経って水面が静まるころには、いつの間にか消えていた。
翌朝、監視カメラにも姿は残っていた。誰かが入り込んだ様子はなく、途中から3コースに薄い人影のような形が現れ、そのまま水中に立っている。
映像の日付を見た村上は、神社の足元までプールの水が回っているのを見つけたのが、その数日前だったことに気づいた。
それだけなら偶然かもしれないし、閉館後の水面に妙な波が残ること自体は、もっと前からあった。
「夜の波って、あの神社がここへ来る前からあったんですよね」
「もちろん。俺が来たときにはもうあったよ。15年以上前だな」
そこから先を畠山に訊いても答えは出ない気がして、村上は映像を閉じた。
水中の人影も、その後は現れなかった。
*
それからもプールの営業は続いた。
漏水箇所には応急的な補修を施しながら設備を動かしていたが、別の古い配管にも劣化が見つかり、循環設備そのものについても、近いうちに大規模な更新が必要になるという見積もりが出た。
もともと市では、老朽化したこの施設を今後も維持していくかどうか、以前から検討が続いていた。
利用者は年々減り、設備の維持費は上がっている。今回の漏水と設備更新費は、それまで先送りされていた判断を進める大きな材料になった。
担当課では修繕費の見積もりや利用実績、次年度以降の維持費を何度も整理し直し、その間もプールは通常どおり営業した。
小野の事故から数か月が過ぎたころ、年度末での閉鎖が正式に決まった。
決定後も最終営業日までは利用者を受け入れた。
閉館後には相変わらず妙な波が残る日もあったが、水中に人の姿が現れることはなかった。
村上も日々の業務に追われるうち、漏水調査の日に見た祠の中の黒いものや、3コースに立っていた人影について考える時間は少なくなっていった。
*
最終営業日、最後の利用者が帰ったあとも、いつもの手順で循環を続け、90分が過ぎて水面が静まったことを確認してから設備を止めた。
畠山たちが帰ったあとも、村上は施設に残った。翌週から備品の搬出が始まるため、事務室や倉庫に残っている物を仕分け、廃棄する物と市へ戻す物を分けておきたかった。
一般利用者のいなくなった館内は、それまでとは音の聞こえ方まで違っていた。
受付の照明は落としてあり、プール室から人の声はしない。倉庫で段ボールを動かすたび、その音が廊下へ抜け、普段なら気にも留めない古い設備の軋みまで遠くから聞こえた。
棚の奥に残っていた箱を引き出していると、小さな木箱が一つ出てきた。
蓋には薄くなった文字で、《薬乃神神社 旧社殿》と書かれている。
4年前の移設時に一時的に置かれ、そのまま残った物だろうと思いながら蓋を開けると、中には古い金具や木片、布に包まれた小さな道具が入っていた。
その底には厚い木の板が一枚残っており、昔、神社の建物に掛けてあった看板のようなものらしかった。
表面の埃を払うと、三文字が彫られていた。
《厄之神》
村上はしばらく、その文字を見た。
現在の《薬乃神》と読み方は同じなのだろうが、刻まれている字は違う。なぜ変わったのかは分からなかった。
箱の底には折り畳まれた古い紙も何枚か残っていた。
端が崩れ、読めないところの方が多かったが、その中に
《厄を納む》
という文字があり、別の紙には
《厄を預く》
とあった。
厄を祓うという意味なのか、あるいは本当に何かをそこへ納め、預かるという意味なのか、残った記録だけでは判断できない。
村上が知っていたのは、この辺りが昔から人の住んできた土地だという程度のことだけだった。
駐車場の端に移されてきたあの神社については、何を祀っていたのかも、なぜ《薬》の字になったのかも、これまで一度も考えたことがなかった。
木の板を箱へ戻そうとしたとき、倉庫の外で水音がした。
循環設備はもう止めているので、村上が手を止めて耳を澄ますと、少し間を置いて、今度は誰かが水の中でゆっくり腕を動かしたような音が聞こえた。
箱をそのままにして倉庫を出ると、営業終了後のプール室には照明が半分ほどしか点いておらず、薄暗い水面に伸びた天井灯の光が、3コースの辺りだけ小さく揺れていた。
そこには、最初に見たときよりも輪郭のはっきりした、あの人の形がいた。
肩から上だけでなく両腕まで水面に出ており、顔にも目と鼻と口があることは分かるのに、少し視線を外すだけで、どんな顔だったのか細部が思い出せなくなる。
そいつは村上を見ず、水面から出した右手を自分の目の前に持ち上げ、一本ずつ指を曲げては掌を返し、手首を動かしていた。初めて触る道具の具合を確かめるように何度か繰り返しているうち、その口元がほんの少し緩んだ。
こちらを脅かそうとしている笑いではなかった。
自分の指が思った通りに曲がり、手首まで動くことそのものが面白くて仕方がないように見え、その表情が村上にはひどく気味悪かった。
やがてそいつは腕を伸ばして水を掻き、もう片方の腕と脚も使って浅い側へ泳ぎ始めた。
見覚えのある、ごく普通の泳ぎ方で、何人もの利用者がこのプールで毎日のように繰り返してきた動きだった。
浅い側の階段まで来ると手すりを掴み、水の中から身体をゆっくり持ち上げた。肩の下から胸、腹、腰、脚まで現れ、濡れた足がプールサイドへ着くたびに床へ水が落ちていく。
身体だけを見れば、普通の人間とほとんど変わらなかった。
村上が入口から後ろへ下がると、そいつが顔を上げた。
「そこにいてください。もう閉館していますから、こちらへ来ないでください」
恐怖で喉が固くなっているのに、口から出たのは仕事で何度も使ってきたような言葉だった。
そいつは一度足を止めたものの、村上の目ではなく口元を見ていた。
やがて自分の唇を開き、閉じ、形を変えるように何度か動かし、喉の奥から掠れた音を一度漏らしたあと、再びこちらへ歩き始めた。
村上は逃げたかったが、いきなり背中を向けた瞬間に追ってくるのではないか、走った途端に何かが変わるのではないかという考えが離れず、少しずつ後ろへ下がることしかできなかった。
頼むから近づいてこないでくれと考えている間にも、濡れた足音は一定の間隔で近づいてくる。
数メートルまで距離が縮まったところで、村上は目の前の身体に妙な引っかかりを覚えた。
違和感の正体は顔や手足ではなく、胸から腹にかけての身体の中央にあった。
上の方でわずかに狭くなり、その下でまた厚みを増す輪郭を見た瞬間、漏水調査の日に開けた祠の奥が頭に浮かんだ。
黒ずんだ木のようなものは、中央がぼってりと膨らみ、上で少し狭くなり、下へ向かってまた丸みを帯びていた。
あれが胴だった。
それに気づいた途端、祠の前で自分が手を合わせたときの声まで戻ってきた。
『薬の神様なら、このプールの方も少し診てくださいよ』
あのときは名前を見て、薬や健康に関係する神なのだろうと、それ以上考えもしなかった。
けれど、ついさっき倉庫で見つけた古い木の板には《厄之神》と刻まれ、残された紙には《厄を納む》《厄を預く》とあった。
漏水調査の日、祠の足元からはプールと同じ塩素の匂いがしていた。そのあとで、初めて水の中に人の姿が現れた。
『もし、あそこで二つが触れてしまったのだとしたら』
目の前のものがまた一歩近づき、村上の思考はそこで途切れた。
手を伸ばされれば届く距離に来ても、そいつが何をしようとしているのかは分からない。
逃げたいのに身体を大きく動かせず、腕から腹にかけて細かく震えているのを、自分でも止められなかった。
そいつは村上の顔を眺め、それから口元へ視線を落とした。
唇が動いた。
「へっ……た……」
掠れた音が喉の奥で引っかかり、そいつは一度口を閉じて、自分の出した音を確かめるようにわずかに首を傾けたあと、もう一度、今度は少しだけはっきり唇を動かした。
「……ひと、減った」
声は低く、ところどころ掠れていた。
村上が何も答えられずにいると、そいつは誰もいなくなったプール室をゆっくり見回し、水面から暗い観覧スペース、閉じた受付の方へ顔を向けた。
しばらく静かな館内を眺めたあと、また村上を見る。
「……民は、どこにおる」
村上は得体の知れないものに話しかけられ恐怖に支配されそうになる中、頭にはこの地方都市の市街地よりもっと人の多い町や、夜になっても人の流れが途切れない都会が浮かんだ。
『人が大勢いる場所なら、いくらでもある』
と思う一方で、それを目の前のものへ教えていいはずがないことも分かっていた。
けれど、濡れた指が少し動くだけで身体が強張り、次にこちらへ手を伸ばされるのではないかと思うたびに、考える余裕がなくなった。
『頼むから、俺のところから離れてくれ……』
『やめてください…』
『その目で見ないで……』
『ゆるしてください……』
「あちらの方角……南へ……行けば……いっぱい……います」
言ってしまった村上が口を閉じると、そいつはしばらくこちらを見ていた。
やがて、口の端がほんの少し持ち上がった。
笑ったというほど大きな変化ではなかった。
それなのに、指を一本ずつ動かしていたときよりも、今の方がはっきり嬉しそうに見えた。
目の前にはない何かを思い浮かべるように視線がわずかに遠くなり、濡れた顔に浮かんだその緩みは、しばらく消えなかった。
「……そうか」
低い声が落ちたあとも、そいつはすぐには動かず、村上のすぐ前でもう一度だけ顔を見た。
その距離で、自分が次に選ばれるのではないかという恐怖がまた膨らみ、村上は歯が鳴りそうになるのを噛み締めて耐えた。
やがてそいつの身体がゆっくり横へ動き、濡れた肩が触れそうな近さまで来たため、村上は息を止めた。
自分ではなかった。
足音が背後へ移ってから、村上はようやく息を吐き、強く握っていた手も勝手に緩んだ。
その瞬間だけは、ほかのことを何も考えられないほどほっとした。
振り返ると、そいつは廊下の方へ歩いている。
そいつが職員用出口の近くまで行ったため、村上は十分な距離を空けながら後を追った。
このまま出口の前で立ち止まり、再び自分の方へ戻ってこられることの方が怖かった。
扉まで来ると、村上は館内側のレバーを押した。夜の空気が流れ込み、村上が外へ出ると、そいつも開いた扉を通って駐車場へ出てきた。
建物の前で一度立ち止まったそいつは、遠くを走る車の音や、風に混じって住宅地のどこかから聞こえる人の声に反応するように顔を上げた。
村上が「南」と言った意味をどこまで理解したのかは分からなかったが、しばらく周囲を見たあと、身体の向きを変えて道路の方へ歩き始めた。
その足取りには、水から上がったばかりのころのぎこちなさがほとんど残っていなかった。
少しずつ遠ざかっていく濡れた背中を見ながら、村上は駐車場の端にある小さな祠のことを思った。
胴体だけを祀っていたあそこには、もう戻る必要はないのかもしれない。
村上はポケットの中のスマートフォンへ手をやった。
閉鎖した施設から不審者が出ていったとだけ警察へ伝えればよく、人ではないものを見たなどと説明する必要はない。
それでも電話はしなかった。
誰かがあれを止めようとした結果、向きを変えてこちらへ戻ってきたらどうなるのかと考えると、さっき自分の横を通り過ぎていった瞬間の安堵を手放すことができなかった。
遠ざかる人影は一度も振り返らず、やがて道路沿いの暗がりへ入り、見えなくなった。
村上は車に乗った。
南へ続く幹線道路には出ず、反対側の住宅地へ抜ける道を選んだ。




