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【地方怪談集】~短編・中編の怖い話~  作者: シシモヨウ
【第六話】プールに残った人の形
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【第六話】プールに残った人の形・前編

 岩手県中部の月旦沢(つきたんざわ)市の市職員・村上浩之(ひろゆき)は、市民プールへ異動してから、水面を見るのが嫌いになった。


 市民プールは、昭和の終わりごろに造られた屋内温水プールだった。


 25メートル、6コース。建物の中には更衣室とシャワー室、受付、事務室、監視員の待機場所、倉庫、機械室があり、それ以外に目立った設備はない。


 駐車場の端には《薬乃神(やくのかみ)神社》という小さな祠があったが、利用者のほとんどは気に留めず、村上にとっても、異動したころには施設の風景の一部になっていた。


 周辺は、かつて山や畑だったところを昭和に造成した住宅地である。入居した当時は子育て世帯が多かったらしいが、今は高齢者が目立ち、空き家も少しずつ増えている。


 プールの利用者も同じだった。


 平日の午前中は高齢者が多く、夕方になると学校帰りの子どもや仕事を終えた会社員が来る。

 水泳教室のない日はそれほど混まず、特に冬場は、6コースある水面の半分近くが空いている時間も珍しくなかった。


 村上の仕事は、受付や利用者対応だけではない。水温や残留塩素の記録、委託業者との連絡、設備不具合への対応、消耗品の発注、日報の作成など、むしろ泳いでいる人間を見ていない時間の方が長かった。


 異動して間もないころ、閉館作業について畠山から教わったことがある。


 畠山は50代の市職員で、このプールに長く勤めていた。


「最後の客が出ても、すぐ循環止めないからな」


「何時までですか」


「90分。最後の人が水から上がってから90分は回す。その間は、水位もなるべくいじらない」


「何か設備上の理由があるんですか」


「俺も最初はそう聞いたけどな。昔からそういう引き継ぎなんだよ」


 古い設備には、理由の分からなくなった手順がいくつも残っている。


 弁を開ける順番、冬場だけ確認する排水口、交換時期を過ぎても念のため保管してある部品。

 そういうものの一つだと思い、村上も特に気にしなかった。


 最初に妙な水面を見たのは、異動して2か月ほど経ったころだった。


 その夜は利用者が少なく、午後9時の閉館後、村上と畠山で更衣室とシャワー室を確認した。館内に誰も残っていないことを確かめてから照明を半分落とし、村上は事務室で日報を入力していた。


 しばらくして、プール室から水の跳ねる音がした。大きな音ではなく、誰かがゆっくり泳いでいるときに立つような、規則的な音だった。


 忘れ物を取りに戻った利用者でもいるのかと思ってプール室へ出たが、中には誰もいなかった。


 水面の大部分は静かなままで、4コースだけに細い波が残り、奥から手前へ向かって進んでは、壁際で小さく盛り上がって折り返すように崩れていた。


 村上はしばらく見たあと機械室の方へ目をやった。循環設備は動いているので、吹出口から出る水の流れが、たまたまそう見えているだけなのだろうと思った。


「畠山さん、4コースだけ変に波立ってませんか」


 事務室から出てきた畠山は水面を見て、「ああ」とだけ言った。


「たまにあるよ」


「循環ですか」


「どうなんだろうな。止まるから、そのままでいい」


 畠山はそれ以上気にする様子もなく、事務室へ戻った。


 実際、その波は20分ほどすると弱くなり、90分が経つころには他のコースと見分けがつかなくなっていたので、村上もその日は設備の癖だと思って帰った。


 ところが、それから何度か同じものを見るうちに、水面の動きには妙な違いがあることに気づいた。


 ある日の夕方、3コースで小学生くらいの男の子が泳いでいた。クロールで半分ほど進んだところで止まり、ゴーグルを外して何度も直している。

 後ろから来た父親に促されるまで、同じ場所でしばらく立っていた。


 その夜、閉館後の3コースを細かな波が手前から奥へ進み、男の子が立ち止まっていた辺りまで来ると一度崩れて、その場所だけをしばらく揺らしたあと、また何事もなかったように先へ進んでいった。


 別の日には、5コースを泳いでいた男性が壁際で強くターンし、大きく水を跳ね上げた。その夜には同じ壁際で突然水が盛り上がり、タイルへぶつかる音がした。


 最初のころは、昼間の光景を覚えていたから似て見えるだけだと思っていた。


 しかし、平泳ぎを続ける高齢の女性がいた日の夜には、その女性が使っていたコースを左右へ広がる低い波がゆっくり進んだ。

 クロールの日とは動き方が違い、壁際で強く折り返した人がいればその場所だけ水が大きく跳ね、途中で止まった人がいれば波もそこで一度止まる。


 誰もいないはずの水面に、その日そこで泳いでいた人間の動きだけが残っているように見えた。


 何度目かにそれを見た夜、村上は畠山に訊いた。


「これ、前からなんですか」


「何が」


「閉館後の波です。泳いだ人と同じところで動いてません?」


 畠山は水面を見たあと、少し考えた。


「俺がここへ来たころには、もうあったよ」


「そのころから?」


「たぶんな。俺も最初は気になったけど、別に昼間に何か起きるわけじゃないし、90分回してれば、そのうち静かになる」


「それで90分なんですか」


「さあ。そこまで昔のことは知らない。ただ、早く止めた日に、なかなか水面が落ち着かなかったって話は聞いたことがある。だから俺は触らない」


 畠山自身も理由を知っているわけではなかった。


 それでも、長く施設に勤めるうちに、説明のつかないことと設備上の手順を切り離さなくなったのだろう。村上も、わざわざ確かめるために運転を止めてみようとは思わなかった。


 閉館後90分は循環を続け、その間は水位を大きく変えない。時間が来れば水面は静かになるので、仕事として必要なのは、その手順を守ることだけだった。


           *


 その年、プールの補給水量が少しずつ増え始め、毎日記録している数字だったため、最初に気づいたのは村上だった。


 利用者数や気温によって多少は上下するが、それでは説明できない量の水が減っている。

 目に見える漏水はなく、機械室にも異常はなかったため、市が設備業者へ調査を依頼した。


 築年数を考えれば地下配管のどこかから漏れていても不思議ではなく、古い図面を確認すると、建設当初の配管と後年の改修部分が複雑に入り組んでいた。

 業者は系統ごとに流量を変えながら、どの区間で数値が変わるかを順番に調べていった。


 ある日の調査は閉館後に行われた。利用者がいる間は触れない系統を確認するためで、設備を止めるわけではなく、循環させたまま弁を切り替えて流れを見ることになっていた。


 午後9時を過ぎ、最後の利用者が退館したあと、村上と畠山、設備業者、それに非常勤監視員の小野が残った。


 小野は20代前半で、学生時代まで競泳をしていた。監視員の中では最も泳ぎが達者で、救助訓練でも中心になることが多かった。


 業者が図面を見ながら、浅い側の壁にある循環の吹出口を指した。


「すみません。ここの系統だけ、図面どおりにつながってるか確認したいんです。今から弁を切り替えるので、どの口から水が出てるか見てもらえますか」


 吸い込み口ではなく、ろ過した水をプールへ戻す側だった。流量も通常より落としてあり、業者もプールサイドで確認する。


「俺、入りますよ」


 小野が言った。


 浅い側なら立っていられる深さで、本人も泳ぎには慣れている。村上も危険な作業だとは思わなかった。


 小野は水着に着替えて壁際まで入り、業者が弁を操作するたびに手を水中へ入れて、


「ここ出てます」

「こっちは弱いです」


と答えていた。

 

 最初の数分は何もなく、村上もプールサイドで業者が読み上げる数値を記録していた。


 小野が次の吹出口へ移ろうとしたとき、水面が大きく揺れた。4コースを奥から走ってきた波が浅い側へ向かって伸びており、閉館後によく見るものだった。


 小野も気づいたらしく、足元を見た。


「今日、結構残ってますね」


 そう言って一歩横へ動いた直後、別の方向から水がぶつかり、小野の上半身が横へ崩れた。

 すぐに立ち直ろうとしたが、その足元を今度は低い波が横切って膝が折れ、浅い場所なので手をつけば起き上がれるはずだったところへ、壁際で大きく跳ね返った水が重なった。


 昼間、5コースで何度も強いターンを繰り返していた男性がいたことを、村上は思い出した。


 小野の肩が壁へ押され、身体が沈んだ。


「小野!」


 畠山が救助用のポールを取った。


 小野は一度水面へ出たが、今度は両腕の脇から水が大きく広がり、身体を押し戻すように揺れた。


 立とうとするたびに違う方向から水が重なり、普段なら腰ほどの深さしかない場所で姿勢を取り戻せない。


 村上はポールの反対側を持ち、畠山と一緒に小野の前へ伸ばし、小野がそれを掴むと、二人で引き寄せ、業者も加わってプールサイドへ引き上げた。


 水から上がった小野は激しく咳き込み、その場でしばらく動けなかった。

 意識ははっきりしていたが、水をかなり飲んでいたため、念のため救急車を呼んだ。


 搬送されたあと、村上たちは調査を中止した。


 機械室を確認しても、急激な流量変化や圧力異常は記録されていなかった。業者が操作したのは循環系統の弁だけで、小野を押し倒すような水流が出る状態ではないという。


 村上は事務室へ戻り、監視カメラの映像を確認した。


 映像では、小野が浅い側へ入り、最初の数分は穏やかな水面の中を普通に歩いている。

 その後、4コースを一本の波が走ると身体が横へ傾き、別の波が壁際で大きく跳ね、さらに左右へ広がる低い揺れが足元を通っていた。


 村上は何度か映像を戻しながら、その日に長い距離をクロールで泳いでいた男性、壁際で何度も強くターンしていた人、ゆっくり平泳ぎを続けていた高齢の女性を思い出した。


 水の動きは、それまで閉館後に見てきたものと同じだった。


 ただ、その途中に小野がいた。


 病院から連絡が来たのはその日のうちで、大事には至らず、しばらく経過を見れば帰宅できるという。


 畠山は電話を切ったあと、しばらく黙って監視映像を見ていた。


「90分っていうのは、回しとけばいいってだけじゃなかったのかもな」


 村上も同じことを考えていた。


 翌日から閉館後の手順を変え、最後の利用者が水から上がったあとも循環は90分続ける一方、その間は水位を大きく変えず、調査や忘れ物の回収であっても誰もプールへ入らないことにした。

 

 作業が必要なら、水面が完全に静まってから行う。

 理由を説明できる者はいなかった。


 それでも、そのやり方に変えてから、同じ事故は起きなかった。


 それだけ守っていれば、問題は起きない

 







 ……はずだった。

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