【第五話】地方出張/宿までのタクシー
村瀬浩一が深瀬駅へ着いたのは、午後10時を少し回ったころだった。
本当なら、午後7時前には到着しているはずだった。朝から取引先との打ち合わせが長引き、その後も確認や電話が重なったため予定していた特急を一本遅らせ、乗換駅でも接続がうまくいかなかった。深瀬へ着いたころには、予定から3時間以上遅れていた。
村瀬は54歳になる。産業機械メーカーの営業職で、地方出張には慣れている。それでも、その日は朝から人と話し続けていたせいか、ホームへ降りたときには、もう誰とも余計な会話をしたくないほど疲れていた。
深瀬市は人口2万人ほどの地方都市だった。中心駅なので駅前にはビジネスホテルや居酒屋、コンビニもあるが、午後10時を過ぎると人通りは目に見えて少なくなり、ロータリーにも昼間の賑わいはほとんど残っていない。
村瀬が予約しているのは駅前のホテルではなく、市街地から山側へ30キロほど離れた温泉宿だった。
出張なら駅前に泊まる方が楽なのは分かっていたが、予約サイトで調べると、朝食付きのビジネスホテルと料金はそれほど変わらなかった。会社の宿泊費規定にも収まり、本来の予定なら午後7時前には深瀬へ着き、在来線を乗り継いでも余裕を持って宿へ入れるはずだった。
出張続きの中で、会社員として許される範囲の小さなご褒美。そのくらいのつもりで選んだ宿だった。
ところが改札近くの時刻表を確認すると、宿の方向へ向かう在来線はすでに終わっている。
スマートフォンで地図を見ると、宿までは車で35分から40分ほどだった。配車アプリを使えば呼べるのかもしれなかったが、この地域で使えるサービスを調べ、アプリを入れて登録することを考えるだけで億劫だった。
とにかく早く宿へ着いて、風呂に入りたい。
そう思って駅前のタクシー乗り場へ向かったが、ロータリーには一台もいなかった。仕方なくスマートフォンを取り出し、結局アプリを探すしかないかと思ったところで、向こうから一台の白いセダンが入ってきた。
屋根の行灯には《東央タクシー》とある。
新しい車ではなかったが、地方の駅前で見かけても不思議ではない程度の古さだった。
車はそのまま誰もいない乗り場の先頭へ入り、村瀬の前で止まった。
ちょうどよかった。
そのときは、それ以上何も思わなかった。
*
後部ドアが開いた。
運転手は60代後半くらいの男性だった。濃紺の制服を着て、白髪の混じった髪をきちんと撫でつけている。
「山静館までお願いします」
宿の名前を告げると、運転手はすぐにうなずいた。
「ああ、分かりますよ。この時間なら40分かからないでしょう」
住所を聞かれることも、ナビへ入力することもなかった。
村瀬は後部座席へ身体を沈め、ネクタイを緩めた。タクシーは静かにロータリーを離れ、駅前の商店街へ入っていった。
最初の10分ほどは、何もおかしなことはなかった。飲食店の灯りが途切れ、ドラッグストアやガソリンスタンドが窓の外を流れていく。翌日の予定をスマートフォンで確認し、朝9時半に先方へ入ればいいと分かると、ようやく肩の力が抜けた。
「この辺も変わりましたねえ」
運転手が前を向いたまま言った。
「そうなんですか」
「昔はこの時間でも、もう少し車がありましたよ。ほら、右に大きなスーパーがあるでしょう。あそこなんか遅くまで客がいましたから」
村瀬は言われた方へ顔を向けた。
確かにスーパーらしい大きな建物があったが、駐車場には一台も車がなく、壁から看板も外されている。かつて店名が付いていた場所だけ、周囲と色が違っていた。
「もう閉店してるみたいですね」
運転手はわずかに首を動かした。
「ああ……そうでしたかね」
年配の人なら、昔の店や建物を目印にして道を覚えていることもある。村瀬自身、地元で道を説明するとき、とっくになくなった本屋やコンビニの名前を使うことがあった。
その程度のことだと思った。
しばらくして、タクシーは大きな交差点を左へ曲がった。
「病院のところから入った方が早いんですよ」
窓の向こうに、4階建てほどの大きな建物が見えた。
病院だったらしいが、窓はすべて暗く、玄関へ続く敷地は鉄製のフェンスで塞がれている。駐車場には雑草が伸び、外来入口の上にあったらしい病院名も外されていた。
「ここも、もう使ってないんですね」
村瀬が言うと、運転手は建物へ一度だけ目をやった。
その横顔が少し気になった。
懐かしそうでも、寂しそうでもない。本当に、今初めて知ったような顔だった。
「そうですか」
運転手はそれだけ答え、前を向いた。
*
市街地を離れるにつれ、家の灯りは少なくなった。やがて住宅も途切れ、田畑の向こうから山の黒い輪郭が近づいてくる。街灯も減り、ヘッドライトが照らす範囲だけが道路として浮かび上がるようになった。
村瀬は地図アプリを開いた。
現在地を示す青い点は宿のある方向へ進んでいるが、推奨ルートより少し山側へ入り込んでいるように見える。
「この道で合ってます?」
「ええ。こっちの方が早いですから。地元の人しかあまり使わない道なんですよ」
そう言われれば、知らない土地の人間が口を出す理由もない。村瀬は地図を閉じた。
数分後、道路脇に木造の古いバス待合所が見えた。
中に何人か座っているように見えた。高齢の男女と、もう一人、小柄な人影。
こんな時間にバスを待っているのだろうかと思いながら目で追うと、全員がこちらを向いたような気がした。
タクシーはそのまま通り過ぎた。
振り返ったころには、暗い待合所が遠ざかっているだけだった。
人影が本当にあったのかどうか、村瀬にはもう分からなかった。朝から働き続けているのだから、見間違いくらいしてもおかしくない。
そう考えたが、いつの間にか眠気だけは消えていた。
*
さらに山道を進んだころ、どこか遠くから笛の音が聞こえてきた。
細く高い音に、少し遅れて太鼓が重なる。祭囃子のようだったので、村瀬は最初、車内のラジオかと思った。しかしオーディオは点いていない。
「ああ。今日はやってますね」
運転手が言った。
「何がです?」
「お祭りみたいなものですよ」
やがて道路の左側に、大きな石鳥居が現れた。
鳥居の向こうには杉林が続いている。かなり奥の方に橙色の灯りがいくつも浮かび、笛と太鼓の音もそちらから聞こえていた。
提灯なのだろうか。人の姿までは見えなかった。
「この辺のお祭りですか」
「昔からやってますよ」
運転手は速度を落とした。
鳥居の手前から、細い道が杉林の奥へ続いている。
「皆さん、もう集まってますね」
村瀬が時計を見ると、午後11時が近かった。
平日のこんな時間に山中で祭りが続いていることには多少違和感があったが、土地ごとの行事など分かるはずもない。村瀬はそのまま通り過ぎるものと思っていた。
「せっかくですから、少し見ていきませんか」
村瀬は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「いや、いいです。明日も仕事なんで、宿までお願いします」
「なかなか見られませんよ。ほんの少しだけでも」
声は穏やかだった。無理に勧めているようには聞こえないのに、先ほどまでの世間話とは何かが違っている。
タクシーは鳥居の前を、歩くより少し速い程度で進んでいた。
杉林の奥では祭囃子が鳴り続けている。
「皆さん集まってますから」
疲れていたこともあり、不気味さより先に苛立ちが勝った。
「本当にいいです。寄らなくていいんで、宿まで行ってください」
少し強い口調になった。
運転手がバックミラー越しに村瀬を見た。
乗車してから初めて、まともに目が合った。
「行かないんですか」
「行きません」
村瀬がはっきり答えると、運転手は前へ向き直り、ようやくアクセルを踏んだ。
「そうですか」
鳥居が後方へ流れていく。
少ししてから、運転手が独り言のように言った。
「ご自分から行く気にならないなら、こちらから連れていくわけにもいきませんからね」
村瀬は返事をしなかった。
意味を聞き返す気にもならず、ただ早く宿へ着いてほしかった。
祭囃子は少しずつ小さくなり、やがてほとんど聞こえなくなった。その直前、村瀬は一度だけ後ろを振り返った。
遠ざかる石鳥居の下に、何人か人が立っていた。
4人か5人ほどの人影が横に並んでいる。
顔までは見えなかったが、全員が杉林の奥ではなく道路の方を向いていた。
祭りを見ているというより、走り去るタクシーを見送っているように見えた。
*
鳥居を過ぎてから、運転手はほとんど話さなくなった。怒っている様子ではなく、ただ何か一つ予定がなくなった人のように、黙って前だけを見ていた。
村瀬も話しかけなかった。
道はさらに細くなり、杉林と古びたガードレールがヘッドライトの中を流れていく。
やがて前方に、鉄製の欄干が付いた幅の狭い橋が見えてきた。
「この橋を渡れば、もうすぐですよ」
運転手が久しぶりに口を開いた。
村瀬は地図アプリを開いた。現在地の表示が一度止まり、数秒してから山の中へ飛ぶように動く。
画面を拡大すると川は表示されているが、この位置に橋はない。少し北側に太い県道が通り、そこには別の新しい橋が描かれている。
「この道、今も通れるんですか」
「通れますよ。ずっとこの道ですから」
運転手は当たり前のことを聞かれたように答えた。
タクシーはそのまま橋へ入った。
タイヤの音が変わり、欄干の向こうは真っ暗になった。下を流れているはずの川も見えず、橋の中央には古い街灯が一本だけ立っていたが、灯りは点いていない。
村瀬はいつの間にか、窓から目を離していた。
橋を渡り切ると再び細い山道が続いたが、5分ほど走ったところで唐突に前方が明るくなった。
広い県道へ出た。
新しいガードレールがあり、反対車線を乗用車が走り抜けていく。道路脇にはコンビニの明かりも見えた。
それまで走っていた道だけが、今の道路から切り離されていたように感じられた。
県道へ出てからは何事もなく、数分後には《山静館》と書かれた看板が見えた。
宿の玄関前へタクシーが止まったとき、村瀬はようやく身体の力が抜けるのを感じた。
玄関には暖簾がかかり、ガラス越しに明るいロビーが見える。見慣れた宿泊施設の光景が、妙にありがたかった。
料金は1万3000円ほどだった。
村瀬は現金を渡し、会社へ提出するため領収書を頼んだ。運転手は機械から細長い紙を出して手渡した。
《東央タクシー》
社名を確認して財布へしまうと、運転手は乗車したときと変わらない穏やかな口調で「ありがとうございました」と頭を下げた。
村瀬が降りるとドアが閉まり、白いセダンはゆっくり来た道を戻っていった。
テールランプが暗闇へ消えるまで、村瀬は玄関前に立っていた。
*
チェックインを担当したのは、60歳前後に見える男性だった。
手続きを済ませながら、村瀬は何となく先ほどの道について話した。
「駅から来る道って、何本かあるんですね。かなり古い道を通ってきたんですけど」
男性は宿帳から顔を上げた。
「古い道?」
村瀬が閉鎖された病院や山の中で渡った橋の特徴を説明すると、男性は少し考え込んだ。
「鉄の欄干で、真ん中に街灯が一本なら、旧中瀬橋だと思います」
「たぶん、それです」
「でも、あそこは車では通れないですよ」
村瀬は相手の顔を見た。
「通れない?」
「新しい橋ができてから旧道自体ほとんど使われてません。橋の入口もずいぶん前に塞いでますから」
男性はそう言ってから、夜道で別の橋と見間違えたのではないかと付け加えた。
言われてみれば、自分は土地勘のない人間だ。そうなのかもしれないと思いたかったが、あの狭い橋と、地図に表示されていた新しい県道が同じものだったとはどうしても思えなかった。
「このタクシーだったんですけど」
村瀬は財布から領収書を取り出した。
男性は何気なく受け取り、印字された社名を見たところで動きを止めた。
「東央タクシー……」
もう一度紙へ目を落とし、住所と電話番号まで確認する。
「これ、さっきもらったんですか」
「はい。駅から乗ってきました」
男性はすぐには答えなかった。
冗談を疑っているというより、目の前の紙をどう受け取ればいいのか分からない様子だった。
「この会社、もうないですよ」
*
村瀬は聞き返さず、そのまま続きを待った。
「13年くらい前に廃業してます。昔、駅の東口に営業所があった会社で……住所も番号も、これで合ってます」
男性から返された領収書を受け取りながら、村瀬は玄関のガラス越しに外を見た。
白いセダンはもうどこにもいない。
少し迷った末、鳥居のことも話した。
「旧中瀬橋へ行く少し前に、石の鳥居があったんです。道路のすぐ横で、その奥で祭りみたいなのをやってました。笛と太鼓が聞こえて」
男性は眉を寄せた。
「鳥居ですか」
「杉林の中です。運転手に、見ていかないかって言われました」
男性はしばらく考えたあと、首を傾げた。
「その辺に、そんな神社あったかな……」
「地元の神社じゃないんですか」
「少なくとも、旧道沿いに大きな鳥居はなかったと思います。あの辺なら、だいたい場所は分かるんですけどね」
村瀬は、杉林の奥に浮かんでいた橙色の灯りと、鳥居の下に並んでいた人影を思い出した。
「人もいました。祭囃子も、かなりはっきり聞こえました」
「今の時期に、あの辺で祭りをやる話も聞かないですね」
男性は無理に答えを出そうとはしなかった。
村瀬も、それ以上確認するのをやめた。
「今日はもう休んだ方がいいですよ」
最後にそう言われ、村瀬も素直にうなずいた。
部屋へ入ってから、《東央タクシー》を検索した。
出てくるのは古い地域情報サイトや電話帳の記録ばかりだった。会社名も住所も領収書の電話番号も一致しており、廃業したのが13年前という点も、宿の男性が言った通りだった。
そこまで確認したところで、村瀬はスマートフォンを伏せた。
事故の記事や運転手の名前まで調べる気にはならなかったし、何か一つ事実を見つければ、今夜の出来事が全部説明できるとも思えなかった。
布団へ入ってからも、しばらく眠れなかった。
思い出すのは運転手の顔より、鳥居の前で聞いた声だった。
『皆さん、集まってますから』
『少し見ていきませんか』
そのときは、しつこい運転手だと思っただけだった。
だが、最後に言われた言葉だけは、宿へ着いてから聞こえ方がまるで変わっていた。
『ご自分から行く気にならないなら、こちらから連れていくわけにもいきませんからね』
もし疲れていなかったら、出張ではなく旅行で来ていたら、土地の祭りに少し興味を持って「せっかくだから」と答えていたかもしれない。
その先を想像するのが嫌で、村瀬は翌日の打ち合わせや帰りの特急、会社へ戻ってから処理しなければならないメールのことを考えた。
普段ならうんざりするような現実的なことが、その夜は妙にありがたかった。
翌日、午前8時半過ぎ、村瀬は宿から呼んでもらったタクシーに乗り、深瀬駅近くの取引先へ向かった。
今度の車は新しく、運転手も40代くらいだった。車内には電子決済の端末があり、ダッシュボードのナビには現在地と目的地までの道が普通に表示されている。
そんな当たり前のものが目に入るだけで、村瀬は少し安心した。
帰りは昨夜とは違う、広い県道を走った。
しばらくして新しい中瀬橋へ差しかかると、村瀬は窓から川の下流へ目を向けた。
木々の間に、古い橋の一部が見える。
鉄製の欄干と、中央に一本だけ立った街灯。
昨夜通った橋とよく似ていた。
橋へ続く旧道の入口には、大きなコンクリートブロックが置かれている。周囲には雑草も伸び、車が通った痕跡など見当たらなかった。
村瀬は運転手に何も尋ねなかった。
昨夜そこを渡ったという記憶が、自分の中には残っている。誰かに否定されても、それが消えるわけではない。
タクシーはそのまま山道を下っていった。
しばらくして、道路脇の斜面に古い車が見えた。
草の中に白いセダンが一台、少し傾くように置かれている。止めてあるというより、長いこと放置されているようだった。タイヤは土と雑草に埋もれ、車体には黒い雨垂れが何本も走っている。フロントガラスも白く濁り、最近まで使われていた車には到底見えなかった。
その横を通り過ぎる直前、後部ドアに残った文字が読めた。
《東央タクシー》
村瀬は反射的に顔を背けた。
昨夜乗った車と同じものだったのか、確かめるつもりはなかった。振り返ればもう一度見られたはずだが、そのために首を動かすことすら嫌だった。
反対側の窓へ視線を移した。
杉の木が密集する山の斜面、その中腹に灰色のものが覗いていた。
石鳥居だった。
木々に半分隠れながら、山の途中に立っている。その形は、昨夜見たものとよく似ていた。
昼間に見ると、鳥居は道路からかなり遠い。
急な斜面の途中にあり、そこまで車が上がっていける道など、どこにも見当たらなかった。
それなのに昨夜は、タクシーがその鳥居のすぐ前まで近づいていた。
運転手はそこで車を止めかけていた。
『皆さん、集まってますから』
『少し見ていきませんか』
続いて、断ったあとの声まで蘇った。
『ご自分から行く気にならないなら、こちらから連れていくわけにもいきませんからね』
村瀬はようやく窓から顔を離した。
もう確かめる必要はないと思った。
目を閉じたまま座席へ身体を預け、山を下りきるまで、外を見ないことにした。




