帰ってきた姉
「優太、今日の夕方、由香帰ってくるって。港まで迎えに行ける?」
部活から戻ってシャワーを浴びたところへ、台所にいた母が声をかけてきた。ついさっき本土の高校から戻る船を降りたばかりだったが、姉が島へ帰ってくるのは久しぶりだった。
「何時?」
「いつもの夕方の便。LINE来てるでしょ」
スマートフォンを見ると、家族のグループに姉から何件か届いていた。《今日帰る》《夕方の便にする》と昼過ぎに連絡があり、最後は《これから港行く》で終わっている。
《迎え行く》
そう返しておいたが、既読はつかなかった。もう港へ向かっているのだろうと思い、それ以上は気にしなかった。
夕方、港へ出ると、対岸から来た船が防波堤の内側へ入ってくるところだった。
仕事帰りらしい人や、大きな買い物袋を提げた島の人たちが先に降り、その後ろから姉が姿を見せた。僕に気づくと、荷物を持っていない方の手を軽く上げる。
「わざわざ来たんだ」
「母さんに頼まれた」
「はいはい」
姉はそれだけ言って僕の横を通り、家の方へ歩き始めた。
港を出たあたりで、姉がバッグからスマートフォンを取り出した。画面は消えたままで、電源ボタンを押しても反応しない。
「これ、たぶん完全に駄目だ」
「壊したの?」
「向こうの港で海に落とした。すぐ拾えたんだけど」
透明なケースの内側には、まだ少し水が残っていた。姉はもう一度だけ電源を入れようとして諦め、
「戻ったら買い替えるよ。前から調子悪かったし」
とバッグへ戻した。
僕も、運が悪かったなと思っただけだった。
家へ着くと、母が玄関まで出てきた。壊れたスマートフォンの話を聞いて、「また物落として」と呆れながらも、そのまま夕食の支度へ戻っていった。
父もその日は少し早く帰ってきた。
久しぶりに4人で食卓を囲んだからといって、特別なことをしたわけではない。
母が最近の仕事について聞けば、姉が食べながら適当に答え、父は島の誰それが入院したという話をする。僕の皿に残っていた唐揚げへ姉が箸を伸ばしてきたので追い払うと、それを見た母が笑いながら台所からもう一皿持ってきた。
食事が終わったあとも姉は居間に残り、母とテレビを見ていた。僕は先に2階へ上がり、翌日の部活の準備をしてから寝た。
*
夜中に目が覚めたのは、喉が渇いたからだった。
枕元のスマートフォンを見ると、午前2時を少し過ぎている。水を飲もうと廊下へ出て、階段を下りかけたところで、玄関に人がいるのが見えた。
姉だった。
外から戻ってきたばかりらしく、玄関に腰を下ろして片足を拭いている。そばには脱いだサンダルが転がっていた。
「どこ行ってたの?」
声をかけると、姉は少し驚いたように顔を上げた。
「浜。暑くて寝られなかったから、ちょっと歩いてた」
裸足の指の間や踵には濡れた砂がつき、玄関のたたきにも水が落ちていた。服まで濡れているわけではないので、波打ち際を歩いて足を濡らしただけなのだろうと思った。
けれど、立ち上がった姉が僕の横を通ったとき、強い潮の匂いがした。
島で暮らしていれば珍しくもないはずなのに、浜から歩いて帰ってきたにしては濃く、濡れた砂や海藻の匂いが姉のあとに残った。
「足、洗わないの?」
「あとで洗う」
姉はそう答えたものの、洗面所へは向かわず、そのまま自分の部屋へ入った。
僕は階下で水を飲んでから戻ったが、廊下には姉の部屋まで濡れた足跡が続いていた。
翌朝、その跡は母が拭いていた。
「夜中に浜へ行くのは勝手だけど、砂くらい落として上がってよ」
「ああ、ごめん。そんなについてた?」
姉は眠そうな顔でパンを食べながら謝った。深夜に浜へ出たことを隠している様子もなく、自分が何か妙なことをしたという意識もないらしい。
日中も母と買い物へ出かけ、昼過ぎには居間でテレビを見ていた。
僕が買っておいたアイスを勝手に食べていたので文句を言うと、「名前書いとけばよかったじゃん」と平然と返された。
そんな姉を見ていると、昨夜のことを気にしている自分の方がおかしいような気さえしてきた。
それでも、その夜、また姉が家を出ていくのを見たときには、さすがに放っておけなかった。
僕はまだ起きていて、何気なく窓の外を見たとき、家の前の道を歩いていく姉に気づいた。
向かっているのは昨夜と同じ浜の方で、時計を見ると、やはり午前2時を少し過ぎていた。
姉はもう大人だし、島の浜もよく知っている。ただ、2晩続けてこんな時間に海へ行き、前の夜には足を濡らして帰ってきている。
もし暗い岩場で足を滑らせたり、ふらっと海へ入ったりしたら、誰にも気づかれないままになるかもしれない。
僕は上着を羽織って外へ出た。
かなり先を歩いていた姉は、僕が後ろにいることには気づいていないようだった。
家並みを抜けて浜へ下りる道へ入ると外灯が少なくなり、ときどき姿を見失いそうになったが、姉は急ぎもせず、同じ速さで海へ向かっていた。
呼べば届くところまで近づいたものの、まだ声はかけなかった。浜を少し歩くだけなら、そのまま帰るところまで見ていればいいと思っていた。
やがて波の音が近づき、道の先が開けた。
夜の浜には誰もいなかった。沖にも船の灯りはなく、雲に隠れかけた月が海面の一部だけを鈍く照らしている。
姉は砂浜を横切り、そのまま水際へ向かった。
そこで止まると思った。
けれど、靴を履いたまま海へ入った。
「姉ちゃん」
呼んでも振り返らない。
波が足首を越え、膝まで上がっても姉は歩き続けたので、僕は今度は声を張った。
「姉ちゃん、何してんだよ!」
返事はなかった。
水が腰のあたりまで来ても止まろうとしないのを見て、散歩なんかではないと分かり、僕は砂浜を駆け下りた。
「姉ちゃん!」
そのまま海へ踏み込もうとして、足が止まった。
姉の少し先に、人がいた。
胸の辺りまで水に浸かり、こちらを向いている。夜釣りの人かと思ったが、竿も道具も見当たらず、長い髪が肩に張りついた輪郭だけが妙に姉に似ていた。
月が雲から出た。
顔が見えた。
姉だった。
僕が追ってきた姉は、その少し手前にいる。
なのに、その先にも姉がいた。
暗さのせいで同じ人間を二重に見ているのかと思い、何度か瞬きをした。見直しても、二人は別の場所に立っている。
そのとき、右の方にも人影があることに気づいた。首まで水に浸かった顔がこちらを向いていて、それも姉だった。
左にもいた。
さらに沖にもいる。
目が暗さに慣れていくにつれ、それまで黒い海にしか見えなかった場所から、人の頭や肩が浮かび上がってきた。
波は動いている。水面も絶えず揺れているのに、海の中に立つ姉たちは、ほとんど身体を揺らさなかった。
一人が僕を見た。
少し離れたもう一人も、ゆっくり顔をこちらへ向け、その奥でも同じ動きが続いた。
最後に、僕が追ってきた姉が振り返った。
全部、同じ顔だった。
僕は逃げた。
姉を助けなければという考えは、その瞬間にはもうなかった。どれが姉なのかを確かめる以前に、あそこにいるものの近くへ行ってはいけないと身体の方が理解していた。
浜を出て家まで走り、一度も後ろを見なかった。
玄関へ飛び込み、戸を閉めて鍵をかけた。息を整えようと壁に手をついたところで、暗い居間から声がした。
「優太、どこ行ってたの?」
身体が動かなくなった。
居間には小さな照明だけがついていて、その下に姉が座っていた。髪も服も乾いていて、海へ入っていったときと同じ服のまま、テーブルの水を飲んでいる。
「どうしたの?」
姉が立ち上がろうとした。
「……来ないで」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
その声で両親も起きてきた。
僕は息が整わないまま、姉が浜へ向かうのを追ったこと、服を着たまま海へ入っていったこと、その先に同じ顔の人間が何人もいたことを話した。
自分で説明していても、まともな話には聞こえなかった。
父は僕の足やズボンの裾に砂がついているのを見て、少なくとも浜へ行ったこと自体は疑わなかったが、母は目の前にいる姉を見ながら、どう受け止めればいいのか分からない顔をしていた。
「由香、あんた浜に行ったの?」
「行ってないよ。さっきからここにいたけど」
姉は本当に困っているように見えた。
「でも、僕は見たんだよ。海の中まで入っていった」
「私が?」
「そうだよ」
母は僕と姉を交互に見た。僕が嘘をついていないことと、目の前に姉がいることは、両親にとって同時には成立しないらしかった。
僕はほとんど眠れなかった。姉も同じ家の中にいたが、それだけで、一人で廊下や台所へ行く気にはなれなかった。
*
翌日になっても、姉は何事もなかったように過ごしていた。
母は僕の様子を気にしていたものの、昨夜までと変わらない姉を見ているうちに、夜の海で別のものを人に見間違えたのではないかという考えに傾いているようだった。
父も、暗いところでは距離や人数を見誤ることがあると言った。
僕自身、それを完全には否定できなかった。確かに見たという記憶しかないのに、その姉が目の前で普通に生活している。
午後、自分の部屋にいるとスマートフォンにLINEが届いた。
送信者は由香だった。
《やっと新しいスマホ買えた》
しばらく、何のことか分からなかった。
階下からは母と姉が話している声が聞こえている。
続けてメッセージが届いた。
《この前ごめん。港でスマホ海に落として》
《結局帰れなかった》
《新しいのにして、やっとLINE戻った》
僕は画面を見たまま動けなかった。
《今どこ》
そう送ると、すぐに返事が来た。
《部屋》
少しして、もう一通届いた。
《まだ島には帰ってないよ》
僕はそのまま通話ボタンを押した。
「もしもし。どうしたの?」
聞こえてきた声は、階下にいる姉と何も違わなかった。
「姉ちゃん、あの日、船に乗ってないの?」
「乗ってないよ。スマホ落として探してるうちに時間なくなったし、その日はもう帰るのやめた」
「スマホは?」
「見つからなかった。なんで?」
僕は部屋を出て、階段の途中から居間を見た。
姉は母のそばに座っている。
初日に持ってきた壊れたスマートフォンも、棚の上に置かれたままだった。
「落としたやつ、本当に拾えてない?」
「拾えてないって。海に落ちたまま。どうしたの、さっきから」
僕は母を2階へ呼んだ。
何も説明せずに通話中のスマートフォンを渡すと、母は最初こそ怪訝そうな顔をしたが、姉と言葉を交わすうちに表情が変わっていった。
「由香……本当に今、そっちにいるの?」
「いるよ。何なの?」
母は階段の方を見た。
下の居間には、もう一人の姉がいる。
「こっちにも、いるの」
電話の向こうが静かになった。
「……何が?」
「あなたが」
長い沈黙のあと、姉の声が聞こえた。
「私、帰ってないよ」
母が父へ連絡すると、父はすぐに帰ってきた。事情は電話ではほとんど説明せず、とにかく2階へ来てほしいとだけ伝えていた。
ほどなく玄関が開く音がして、しばらくすると父が階段を上がってきた。
何があったのかと訊く父に、母は答える代わりに、通話のつながったままの僕のスマートフォンを差し出した。
「お父さん?」
姉の声がした。
「私、いま本土にいるの。あの日も島には帰ってない」
父はしばらくスマートフォンを見ていたが、やがて階段の方を振り返った。
「え……でも、下に由香はいたぞ……」
母も僕も何も言えなかった。
それから3人とも2階の部屋に残り、スマートフォンをスピーカーにして姉の話を聞いた。
「でも、帰らないって家には伝わってると思ってたんだけど」
「誰かに頼んだの?」
母が訊いた。
「美咲。港にいたから。美咲もあの便で島に帰るって言ってたし、家にも寄るって言ってたから、スマホ落として今日は帰れなくなったって伝えてって頼んだの」
「美咲ちゃんに?」
「うん。分かったって言ってたよ」
母には、そんな伝言は届いていなかった。
美咲は何度もうちに来ていて、母も連絡先を知っていた。母は自分のスマートフォンを取り出し、僕のスマートフォンで姉との通話を続けたまま、美咲へ電話をかけた。
一昨日、本土側の港へ行ったかと母が尋ねると、返事を聞いたところで表情が変わった。
それから島へ帰ったか、姉と会わなかったかと続けて確認し、短く礼を言って電話を切った。
「美咲ちゃん、その日は港に行ってないって。島にも帰ってないし、由香とも会ってないって」
僕のスマートフォンから、しばらく何も聞こえなかった。
「でも、美咲だったよ」
やがて聞こえた姉の声は、それまでとは明らかに違っていた。
「顔も声も、普通に美咲だった。私、ちゃんと話したんだよ」
誰も答えられなかった。
そのとき、開けたままの部屋の戸口から、階段の下を横切る姉の姿が見えた。
僕たちは同時に部屋の外を見た。父が先に廊下へ出て、僕と母もその後ろから階段のところまで行った。
下では、居間から出てきた姉がゆっくりこちらへ歩いていた。
さっきまで母と居間にいたときには何ともなかったはずなのに、髪も服も濡れていた。歩いたあとには水が残り、潮と泥が混じったような臭いが階段の上まで届いてきた。
姉は階段の下で止まり、そのまま僕たちを見上げた。
父が一段だけ前へ出たが、それ以上は下りなかった。母は僕の腕を掴み、僕も手すりから手を離すことができなかった。
《こっちへ来ないでくれ》
姉は階段を上がってこず、ただこちらを見ていた。
その姿から目を離せずにいるうち、廊下の奥にも、階段下の姉とは別の人影が立っていることに気づいた。
さらに1階の窓の向こうにも人影が見えた。庭の暗がりに立ち、こちらを向いている。
顔まではよく見えなかったが、濡れた髪や身体の輪郭で分かった。
姉だった。
そのさらに奥にも、もう一つ人影があるように見えた。
海で見たときと同じだった。
《今、増えたんじゃない》
そう考えた途端、この2日間、家にいた姉が本当に一人だけだったのか分からなくなった。
母の指が僕の腕に食い込み、父も僕たちを庇うように立ったまま動かない。
スマートフォンの向こうで、姉が何度も呼びかけていた。
「ねえ、何? 何がいるの?」
僕は答えられなかった。
目の前に、姉の顔をしたものがいる。
それも一人ではない。
やがて、階段の下にいたものがゆっくり顔を横へ向けた。
母の手にさらに力が入った。こちらへ来るのだと思ったが、それは階段を上がらず、濡れた足跡を残しながら玄関の方へ歩いていった。
それを合図にしたように廊下の奥に立っていた影も動き、庭にいたものも暗い方へ歩き始めた。
玄関のすりガラスの向こうを一人の影が横切ったあとにも、庭の別の場所からまた同じ姿が現れ、家の脇へ消えていった。
見えていたものだけではなかったらしい。
台所の方からも濡れた足で床を踏む気配がして、そのあとを追うように、家の中や庭に散らばっていた姉の姿が次々と外へ出ていった。
僕たちは2階から動かなかった。
しばらくして家の中が静かになったあとも、階段の下の床には濡れた足跡がいくつも重なっていた。
*
父はそのあと警察へ連絡した。
姉は本土にいるのに、同じ顔をした人間が家にいた。それも一人ではなかった。
さらに、家に残されていた壊れたスマートフォンは、姉が本土側の港で海へ落とし、回収できなかったものだった。
一応、話は聞いてもらったが、何を事件として届ければいいのかはこちらにも最後まで分からなかったし、その後も納得できる説明は何一つ出なかった。
*
数日後、姉が島へ帰ってきた。
母に頼まれて、僕はまた港まで迎えに行った。いつもの船が着き、降りてくる人たちの中に姉の姿が見えた。姉はそのまま僕のところまで歩いてきた。
「ただいま」
いつもなら、考えるまでもなく返していた言葉だった。
僕は返事をしようとした。
けれど、目の前にいる姉の顔を見たまま、どうしても声にできなかった。
「おかえり」とは、言えなかった。




