無音参り・前編
2012年10月。
真鍋修司は、単発アルバイトの募集サイトで妙な求人を見つけた。
《山間部における環境音の録音作業》
《未経験者可》
《所要時間約3時間》
《交通費込み、日給3万円》
仕事の内容は、指定された山中の祠まで歩き、支給されたボイスレコーダーで周囲の音を録音すること。それだけだった。
交通費込みとはいえ、3時間で3万円は明らかに高い。募集会社の名前を検索しても、所在地や詳しい事業内容は出てこず、連絡先もメールアドレスしか記載されていなかった。
怪しいとは思ったが、それでも真鍋は応募した。当時は倉庫や引っ越しのアルバイトを転々としており、生活に困窮していたわけではないものの、まとまった金が簡単に入るならありがたかった。それに、真鍋にはハイキングの趣味があり、休日になると電車やバスを乗り継いで知らない山を歩いていた。
観光地として整備された山より、地図の端に名前だけが載っているような場所を好んだ。今回の目的地である《旧黒伏村》も、これまで聞いたことのない土地だった。
応募した翌日、採用を知らせるメールが届いた。
面接も電話もなかった。指定された日時に地方駅のコインロッカーから道具を受け取り、同封された地図に従って作業を行うこと。報酬は作業完了の確認後、指定口座へ振り込むと書かれていた。
多少の不安は残ったが、誰かと話す必要もなく、山を歩いて音を録って帰るだけなら気楽な仕事にも思えた。
*
当日、真鍋は午前中の電車を乗り継ぎ、昼過ぎに指定された駅へ到着した。
駅舎は小さく、改札を出ても人の姿はなかった。駅前には閉店した商店と色あせた観光案内板があるだけで、指定された番号のコインロッカーには鍵が差したままになっていた。
中には、手のひらほどの黒いボイスレコーダーと折り畳まれた地図、それから作業手順を印刷した紙が入っていた。
《作業手順》
1.地図に従い、旧黒伏村を通って山中の祠へ向かってください。
2.鳥居の前で録音を開始してください。
3.氏名、日付、時刻を述べた後、「これより参ります」と録音してください。
4.鳥居をくぐった後は、祠に到着するまで声を出さないでください。
5.祠の中にボイスレコーダーを置き、そのまま下山してください。
最後に、小さな文字で1行だけ追記されていた。
【無音参りのため、鳥居より祠に到着するまでは必ずお静かに願います】
無音参り――初めて聞く言葉だった。
真鍋は携帯電話で検索してみたが、それらしい祭りや風習は見つからなかった。もっとも、環境音を録音する仕事なら、人間の声を入れないようにするためだろうと考えることはできる。
最初に氏名や日時まで録音する理由は少し気になったものの、作業者を確認するためだろうと納得し、指示書を折り畳んでポケットへ入れた。
*
駅から旧黒伏村までは徒歩で1時間ほどだった。
舗装された県道を外れて草に覆われた細い道へ入ると、両側には長く放置された田畑が広がった。やがて傾いた家々が見え始め、窓ガラスの割れた民家や錆びた軽トラック、半分ほど土へ埋もれた郵便受けが道路沿いに現れた。
人が住まなくなってから、かなりの年月が経っているらしい。
廃墟そのものは見慣れていたが、人だけが消えた集落を歩いていると、何度か家の中から見られているような気がした。窓の奥へ目を凝らしても何も見えず、振り返っても当然、人の姿はない。
廃村を抜けた先で、道は山へ続く細い石段に変わった。
その入口に、黒ずんだ木の鳥居が立っていた。注連縄は腐りかけ、垂れ下がった紙垂が風に揺れている。
真鍋は鳥居の前でリュックを下ろし、時刻を確認した。
午後4時12分。山の向こうへ太陽が傾き始めていた。
ボイスレコーダーの録音ボタンを押すと、赤いランプが点灯した。真鍋は指示書を見ながら、ゆっくりと名乗る。
「真鍋修司。2012年10月27日、午後4時12分」
一度、息を吸った。
「これより参ります」
自分の声が、やけに近く聞こえた。
山へ声を投げたときの反響とは違う。発した声が、口の中にそのまま残ったような感覚だった。
真鍋は気のせいだと思い、録音を続けたまま鳥居をくぐった。
*
鳥居を越えて数歩進んだところで、真鍋は足を止めた。
目の前には、それまでと変わらない山道が続いている。細い石段の両側には杉が立ち並び、その奥には日の光が届かない藪が広がっていた。風も吹いており、梢が揺れ、枯れ葉も地面を転がっている。
それなのに、音がしない。
鳥居の外では聞こえていた風の音も、遠くの鳥の声も、草むらにいた虫の鳴き声も、すべてが途絶えていた。
真鍋はボイスレコーダーへ目を落とした。赤い録音ランプは点灯している。
試しに右手で左腕の袖を擦ってみた。
「サッ」
衣服の擦れる音だけが、耳元で異様なほど大きく響いた。
真鍋は思わず手を離した。
周囲から音そのものが消えているわけではない。
自分が立てた音は聞こえる。
そのことに気づいた瞬間、指示書の一文が頭に浮かんだ。
《鳥居をくぐった後は、祠に到着するまで声を出さないでください》
駅では環境音に人間の声を入れないための注意だと思っていたが、今はそれだけの理由とは思えなかった。
ここでは声を出さない方がいい。理屈ではなく、身体の奥がそう訴えていた。
真鍋は口を閉じたまま石段を上り始めた。靴底が砂を擦り、湿った落ち葉を踏む。そのたびに自分が立てる音ばかりが間近に感じられ、いつの間にか、なるべく音を立てないよう歩幅まで小さくなっていた。
そのとき、頭上から細い音が聞こえた。
「しの……」
真鍋は顔を上げた。
杉の枝が、風に押されてゆっくりと揺れている。
「しの……しの……」
最初は枝葉が擦れているのだと思った。だが、風そのものの音は聞こえない。それなのに、なぜこの音だけが届くのか。
聞いているうちに、誰かが歯の隙間から細く息を吐き、声にはならない何かをこちらへ伝えようとしているように思えてきた。
真鍋は視線を戻し、先を急いだ。
石段は途中から崩れ、土の山道へ変わっていた。日が傾いたことで木々の影が長く伸び、道と藪の境目も見分けにくくなっている。
しばらく進むと、今度は右手の林から別の音がした。
「く、く、く……」
真鍋は立ち止まった。
声を押し殺して笑う子どものようでもあり、喉を傷めた老人が息だけで笑っているようでもある。
林の中へ目を凝らしたが、見えるのは杉の幹と黒い藪だけだった。
「く、く、く……」
先ほどより近い。
真鍋は「誰かいるのか」と呼びかけそうになり、寸前で口を閉じた。ここで声を出せば作業をやり直すことになるかもしれないし、報酬を受け取れなくなる可能性もある。
そう自分へ言い聞かせたが、本当はもう仕事のことなどほとんど考えていなかった。
《あの笑い声に返事をしてはいけない》
そう感じたのだ。
真鍋は足を速めた。落ち葉を踏む音が続き、その少し後ろで、同じように葉を踏む音がした。
真鍋が立ち止まると、背後の音も止まった。
振り返っても誰もいない。
再び歩き出す。
「ザッ」
真鍋が一歩踏み出した。
わずかに遅れて、
「ザッ」
同じ音が背後から返ってきた。
もう一歩進むと、やはり同じ間隔で音がついてくる。歩幅まで真鍋と同じだった。
反響だと考えようとしたが、この山では風の音さえ聞こえない。それに反響なら、真鍋の動きとここまで正確に揃うだろうか。
後ろにいる何かが、自分の歩き方を真似している。
そう考えた途端、足が止まりそうになった。
真鍋はボイスレコーダーを持ち上げ、画面の音量メーターを確認した。一歩踏み出したときの「ザッ」という音には小さく反応するのに、少し遅れて背後から返ってくる「ザッ」には何の反応もない。
右手の林から、また笑い声が聞こえた。
「く、く、く……」
やはり、メーターは動かなかった。
確かに聞こえている。
それなのに、機械は何も拾っていない。
真鍋はそれ以上確かめるのをやめた。早く祠へ着き、レコーダーを置いて帰る。それだけを考えて、山道を上り続けた。
*
やがて、木々の隙間に灰色の屋根が見えた。
石造りの台座に載った、小さな木造の祠だった。屋根には枯れ葉が積もり、正面の扉は片側だけ外れかけている。
真鍋はようやく安堵し、祠の前まで進んで傾いた扉を静かに開いた。中には古びた布や札の切れ端が残され、その奥に2台の録音機が置かれていた。
どちらもカセットテープ式だった。
黒い機体には厚く埃が積もり、金属部分には赤茶色の錆が浮いている。片方の蓋にはひびが入り、もう片方には中のカセットテープが見えていた。
以前にも同じ仕事が行われたのだろうか。それにしては機械が古すぎる。
疑問は残ったが、今は理由を考えるより、指示された作業を終えて山を下りたかった。真鍋は持参したボイスレコーダーを2台の間へ置き、祠の扉を閉じた。
来た道へ向き直ろうとした、その背後で小さな音がした。
「カチッ」
真鍋は振り返った。
閉じた扉の向こうは見えない。しばらく待ってみたが、それ以上の音はしなかった。
古い録音機のどこかが動いただけかもしれない。
そう考えることにして、真鍋は下山を始めた。
祠からしばらく離れたところで、真鍋は指示書の文面を思い出した。
声を出してはいけないのは、鳥居をくぐってから祠へ到着するまでだった。祠にはもう着き、ボイスレコーダーも置いたのだから、ここから先は声を出しても指示に背くことにはならない。
それでも、真鍋は口を開く気になれなかった。
山の静けさへ自分の声を混ぜれば、どこかで息を潜めているものに、まだここにいると知らせてしまう。そんな根拠のない感覚が、喉を固く閉ざしていた。
日没が近づき、山道は急速に暗くなっていた。上ってきたときには見えていた木の根や石も、黒い地面の中へ沈み始めている。
行きに聞こえた笑い声も、少し遅れてついてきた足音も消えていた。
何も聞こえない。
だが、その静けさを安心とは思えなかった。何もいなくなったのではなく、今度は向こうが音を立てずにこちらを窺っているような気がした。
その考えが浮かんだ直後、背後で何かが地面へ触れた。
「ぬしり…」
真鍋の肩が強張った。
少し間を置いて、もう一度。
「…ぬしり」
人間の足音ではなかった。水を吸った重い布か、形の定まらない柔らかな塊を、地面へ押しつけながら引きずっているような音だった。
真鍋が歩けば、それも動き、立ち止まれば同じように止まる。近づいてはこないが、離れてもいかない。
振り返れば何がいるのか分かるかもしれない。だが真鍋には、見えないままの方がまだ耐えられるように思えた。
声を出さなければ大丈夫だ。指示されたことは終えた。あとは鳥居を越えるだけだ。
そう言い聞かせながら歩くうち、別のことが頭から離れなくなった。
今回の仕事は、環境音の録音だったはずだ。
山の音を調査するのなら、録音したデータは依頼主が回収しなければ意味がない。それなのに、指示ではボイスレコーダーを祠へ置いたまま帰ることになっている。
鳥居の前で氏名、日付、時刻を録音させられたことも妙だった。作業日時なら機器側にも残る。それなのに、誰も回収しないレコーダーへ、自分の名前と「これより参ります」という言葉まで吹き込ませた。
祠の中にあった古い2台の録音機が脳裏に浮かんだ。
あれも、回収を忘れられたものではないのではないか。
以前ここへ来た誰かが、自分と同じ指示に従い、名前と日時を録音して祠へ置いていった。そう考えれば、古い機械が残されている理由にも説明がつく。
録音させられたのは、山の音ではなかった。
誰が、いつ、この山へ入ったのか。それを本人の声で残し、その声ごと祠へ置く。
《供え物》
その言葉が浮かんだ瞬間、背後からついてきていた「ぬしり」という音が消えた。
真鍋も足を止めた。
山全体が、何かを待つように静まり返っている。
やがて、遠く離れた祠の方角から声が聞こえた。
「真鍋修司」
真鍋の身体が固まった。
鳥居の前で録音した、自分の声だった。
「2012年10月27日、午後4時12分。これより参ります」
小さなボイスレコーダーから山道を伝ってきたとは思えないほど鮮明で、木々の間を通って届いているというより、山そのものが真鍋の声を覚えて吐き出しているように聞こえた。
真鍋は山道を急いで下り始めた。
すると今度は、右側の林から自分の名前が聞こえた。
「真鍋修司」
日付は左手の藪から、時刻は前方の木々の間から聞こえてくる。
そして最後の、
「これより参ります」
という言葉だけが、すぐ背後から聞こえた。
真鍋は走り出した。
録音された声は次第に文章の形を失い、「真鍋」「修司」「4時12分」「参ります」と、ばらばらになって山道を下ってくる。
真鍋が話したときの緊張も戸惑いも、その声には残っていなかった。声の形だけを覚えた何かが、発音を確かめている。
そうとしか思えなかった。
真鍋は両手で耳を塞いだが、自分の名前は消えなかった。耳の外から聞こえているのではなく、歯の根元や顎の骨、頭蓋の内側から響いてくる。
耐えきれず、真鍋は叫んだ。
「やめろ!」
声が静まり返った山中へ広がり、木々の奥へ吸い込まれていった。
叫んだ直後、真鍋は声を出してしまったことに気づいた。しかし、すぐに別のことにも気づく。
自分はもう祠へ着いている。指示書が禁じていたのは、祠へ到着するまでの発声だった。
今の叫びは、規則違反ではない。
それなのに。
「もらいうけた」
祠の方角から、湿った声が返ってきた。
低く、粘ついた声だった。拾ったものを口へ含み、その感触を確かめているような響きがあった。
「もらいうけた」
真鍋はもう一度叫ぼうとした。口を開き、喉へ力を込める。
空気だけが漏れた。
声が出ない。
喉に痛みはなく、舌も動き、呼吸もできる。それなのに、声だけが身体からきれいに抜け落ちていた。
助けを呼ぼうとして何度口を動かしても、山へ出ていく音はない。
声を取られた。
そう理解した途端、それまで静まり返っていた林のあちこちから、別の声が滲み出した。
「午後5時」
「田中です」
「水をください」
「駅に着きました」
「これより参ります」
若い男もいれば、老人や女、子どもの声もあった。声質はそれぞれ違うのに、どれにも感情がなく、誰かへ伝えようとする意志も感じられない。
人間がかつて口にした言葉の一部だけが切り取られ、意味を知らないものによって繰り返されているようだった。
その中へ、真鍋が日常では耳にしない言葉が混じり始めた。
「日が暮れ申した」
「庄屋さまへ申し上げる」
「馬が戻らぬ」
「戸を閉めよ」
さらに奥からは、祈りや子守唄のような節まで聞こえてきた。その向こうには、言葉として聞き取ることすらできない声が幾重にも重なっている。
真鍋は理由を考える余裕もなく、耳を塞いで山道を駆け下りた。
とにかく鳥居まで戻り、山の外へ出る。声を失ったとしても、生きてさえ帰れば病院にも警察にも行ける。求人サイトもメールも残っている。
駅までの道や帰りの電車、3万円の報酬、翌日に入っている倉庫の仕事。真鍋は山とは関係のないことを必死に考え続けた。
ところが耳を塞いだことで、今度は自分の身体の内側がかえってはっきり感じられるようになった。
走るたび、荒い呼吸が頭蓋の奥へ響く。肺へ入る空気と、喉を抜けていく息。その下では、恐怖と疲労で速くなった心臓が胸を打っていた。
「…ドク、ドク」
真鍋は意識を逸らそうとした。
これは山から聞こえている音ではない。自分の身体が動いているだけだ。
帰りの電車を思い浮かべ、駅までの道順を思い出し、翌日の仕事のことを考えた。それでも、気にしないようにするほど胸の奥の音だけが鮮明になっていく。
「ドクン、ドクン、ドクン……」
そして、ふと思った。
《心臓の音が、うるさい》
その瞬間、真鍋は自分が何をしたのか理解した。
それを、自分の音だと認識してしまった。
すぐ背後から、湿った声が耳元へ触れた。
「もらいうけた」
次の鼓動は鳴らなかった。
胸の奥には、本来なら次の音が来るはずだった間だけが残った。身体から力が抜け、真鍋はそのまま山道へ倒れ込んだ。
声は出ない。助けも呼べない。
そして、胸も鳴っていない。
視界が急速に暗くなり、このまま意識が消えるのだと思った。
そのとき。
「……ドク」
真鍋は目を見開いた。
「ドク、ドク……ドクン、ドクン」
失われたはずの鼓動が聞こえる。
だが、自分の胸からではない。
顔のすぐそばだった。
何かが真鍋のそばへ身を寄せ、奪った音を抱えたまま、わざわざ聞かせているような近さで鳴っている。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
鼓動が、ゆっくり耳元へ近づいてきた。
冷たく湿った何かが、真鍋の頬へ触れた。
姿は見えなかった。
ただ、自分のものだった音だけが、自分ではない場所で鳴っていた。
真鍋は目を見開いたまま、その鼓動を最後まで聞かされた。




