子どもがいない集落・後編
家へ飛び込んできた拓海を見て、祖父はすぐに立ち上がった。泥だらけの服より、息もまともにできないほど怯えた顔を見て、ただ事ではないと分かったらしい。
水を飲ませて落ち着くのを待ち、どこまで行ったのかを聞いた。拓海は山の上に草原があったこと、そこに大勢の子どもがいたこと、陽介が4年前と変わらない姿でいたことを、途切れ途切れに話した。
黒い岩のことも、誰も休もうとしなかったことも話した。最後に、陽介から鬼ごっこをしようと言われ、自分が逃げる側で、ほかのみんなが追うのだと言われたことを話すと、祖父の表情が変わった。
「お前、何て言った」
「やらないって。逃げてきた」
「追ってきたか」
「分かんない。声はした」
祖父はしばらく黙ったまま窓の外を見た。西日が山の端へ近づき、庭にも長い影が伸び始めている。
それまで何も言わなかった祖母へ、拓海の荷物をまとめるよう頼んだ。自分も車の鍵と財布を確認し、必要なものを玄関へ集め始める。
「明るくなったら出る」
その言葉に、拓海は驚いた。
「今すぐ行こうよ。まだ明るいじゃん」
祖父は鍵を握ったまま、すぐには答えなかった。窓の向こうにある山を見ている。
「今日は出ない」
「なんで?」
なお聞こうとする拓海へ、祖父はようやく顔を向けた。
「夜に出るな」
声が強かった。
理由を尋ねても、それ以上は答えなかった。祖母には荷造りを急ぐよう言い、自分は雨戸や戸締まりを確認し始める。その様子を見ているうちに、祖父が朝を待ちたいのではなく、朝まで待たなければならないと思っていることだけは拓海にも分かった。
*
日が沈む前から、山の方で子どもの声がした。
最初に気づいたのは拓海だった。縁側の向こう、田んぼと杉林のさらに奥から、誰かが自分の名前を呼んでいる。
「拓海ー」
声はまだ遠かった。
祖父は何も言わず、縁側の雨戸を閉めた。しばらくすると別の方角からも「どこー?」「遊ぼうよ」と声が重なり始め、日が傾くにつれて、その場所は少しずつ近くなっているように思えた。
山から降りてきているのか、それとも最初から集落のあちこちにいたのかは分からない。空が暗くなるころには、空き家の並ぶ道の方からも子どもたちの笑い声が聞こえていた。
祖父はしばらく黙って耳を澄ませていたが、外が完全に暗くなる前に拓海を呼んだ。水筒と薄い毛布だけを持たせ、家の裏へ連れていく。
納屋の脇を抜け、杉の木の間へ入ったところに、拓海が今まで気にも留めなかった古い石畳があった。四角い石は木の根に持ち上げられ、ところどころ苔に覆われている。その中央には井戸のような丸い石組みが残っていたが、穴は厚い石板で塞がれ、周囲の地面だけが一段低くなっていた。
祖父はその窪みへ拓海を座らせた。
「今夜はここにいろ」
「じいちゃんは?」
「家に戻る」
嫌だと言って袖を掴んでも、祖父は怒らなかった。拓海の前にしゃがみ込み、朝になるまでここから動かないよう、ゆっくりと言い聞かせる。
「誰か来ても返事をするな。呼ばれても出るな」
「じいちゃんが来たら?」
そこで祖父は少しだけ迷った。
「俺の声でも駄目だ。朝になるまで、誰の声も信じるな」
その言葉だけは、昔話でも冗談でもないことが分かった。
祖父は毛布を拓海の肩へ掛け直し、自分がここに残れば場所を知られるかもしれないとだけ言った。怖くても声を出すなともう一度念を押して立ち上がり、そのまま杉の暗がりへ戻っていった。
*
完全に暗くなると、家の裏とは思えないほど静かになった。
遠くで虫が鳴き、ときどき風が杉の枝を揺らす。そのほかには何も聞こえない時間が続き、拓海は膝を抱えたまま、早く朝になればいいと何度も思った。
やがて、道の方から声がした。
「拓海ー」
昼間、草原で聞いた声だった。
少し離れたところで別の子が笑い、「いないね」「こっちじゃない?」と声を掛け合っている。何人いるのかは分からず、その声は家の前から畑の方へ移り、しばらくすると別の方向から戻ってきた。
「拓海。もう怒ってないよ」
陽介の声も聞こえた。
「遊ぼう」
拓海は返事をしなかった。
草を踏む音が少しずつ近づき、やがて石畳からそれほど離れていないところまで来た。毛布を強く握り、息の音まで聞かれるような気がして、できるだけ静かに呼吸した。
「いないねえ」
すぐ近くで女の子が言い、それを聞いた別の子が小さく笑った。足音はしばらく石畳の周囲を行き来していたが、やがて少しずつ遠ざかっていった。
どのくらい時間が経ったのか分からない。腕時計を見るとまだ深夜で、喉もひどく乾いていた。それでも水筒の蓋を開ける音が怖く、子どもたちの声が完全に消えてから、ようやく少しだけ水を飲んだ。
そのとき、杉林の向こうで自分の名前を呼ぶ声がした。
「拓海君」
昼間、集落で会った老人の声だった。
あの人の良さそうな声が、すぐ近くから聞こえてくる。
「もう大丈夫だよ。じいちゃんに頼まれて来たんだ」
拓海は思わず顔を上げた。子どもたちの声ではない。昼間に聞いたのと同じ、年寄りらしい穏やかな話し方だった。
老人は、寒かっただろう、もう家へ戻っていいと、子どもを安心させるように何度も話しかけてきた。一瞬、本当に祖父が迎えを頼んだのではないかと思ったが、立ち上がりかけたところで、祖父に言われたことを思い出した。
朝になるまで、誰の声も信じるな。
祖父自身の声でも出るなと言われている。
拓海は毛布の中で膝を抱え、返事をしなかった。
老人は何度か名前を呼んだ。最初は優しかった声から、返事を待つ時間が少しずつ長くなっていく。
「聞こえてるんだろ。もう大丈夫だから」
それにも答えなかった。
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、同じ声がした。
「……出ろよ」
さっきまであった優しさが、きれいになくなっていた。
石畳を踏む音がゆっくり近づいてくる。人が歩いているはずなのに、靴なのか裸足なのかも分からず、湿った何かを石へ置いていくような音だけがした。
拓海は両手で口を塞いだ。
足音が、すぐ近くで止まった。
「いるんだろ」
もう昼間の老人の声には聞こえなかった。低く平らで、怒っているというより、もう優しくする必要がなくなったものの声に聞こえた。
拓海は膝へ顔を埋め、そのまま動かなかった。どれだけ待っても祖父は来ず、声も足音も、いつの間にか消えていた。
*
鳥の声で顔を上げると、杉の枝の隙間が薄く青くなり、石畳の形も少しずつ見えるようになっていた。それでも拓海は動かなかった。朝まで出るなと言われたが、どこからが朝なのかまでは聞いていない。
空が白み、周囲の木々の幹まで見えるようになったころ、砂利を踏む足音が近づいた。
「拓海」
祖父の声だったが、返事はしなかった。
「もう朝だ。出ていい」
それでも動かずにいると、祖父は石組みの前まで来たらしく、しばらく黙ったあとで言った。
「よく返事しなかったな」
その言葉を聞いて、ようやく拓海は顔を上げた。祖父が立っていたが、たった一晩でずっと老けたように見えた。
石組みから出たとき、足元の異変に気づいた。昨夜まで乾いていた石畳の一部がところどころ黒く濡れ、小さな跡が離れながら、拓海の隠れていた場所を半分ほど囲んでいる。
足跡と呼べる形ではなかった。それでも昨夜、石畳の上を歩いていた音と同じ場所に残っているように見え、祖父も一度だけそこへ目を落とした。
何も言わなかった。
*
荷物はすでに車へ積まれていた。祖母も着替えを済ませて待っていて、3人は朝食も取らずに榧ノ沢を出た。
空き家の並ぶ道を抜け、集落の最後の家が後ろへ流れていく。拓海は後部座席から窓の外を見ていたが、山道の入口を通り過ぎる直前、そこに人が立っていることに気づいた。
陽介だった。
草原で会ったときと同じ服を着て、道の脇から車を見ている。追ってはこないし、手を振ることもなく、ただ拓海の方へ顔を向けていた。
車がカーブへ入る直前、陽介の口がわずかに動いた。
何と言ったのかは聞こえなかった。
県道へ下り、榧ノ沢からかなり離れたところで、祖父は道路沿いの小さな駐車スペースへ車を入れた。祖母が水を飲みたいと言ったので、拓海も一度外へ出た。
後部ドアの窓に、小さな手の跡がついていた。
最初は自分が触ったのだと思ったが、その隣にもあり、さらに後ろの窓やフェンダーの上にも続いている。大きさが少しずつ違う子どもの手の跡が、泥なのか朝露なのかも分からない薄さで残されていた。
後ろから前へ向かって、何人もの子どもが走りながら車へ触れていったような並び方だった。
祖父も気づいたらしい。
車に積んであった古い布を取り出し、何も言わず、手の跡を1つずつ拭き取っていった。
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それから、私は一度も榧ノ沢へ行っていない。
今は20歳になった。あの夏のことを誰かに詳しく話したことはないし、自分から榧ノ沢について調べようと思ったこともない。地名を検索したことさえなかった。
だから、あの記事を見つけたのも偶然だった。
スマートフォンで地方ニュースを眺めていたとき、見覚えのある地名が目に入った。
《山里の暮らしを次世代へ 榧ノ沢で古民家民泊が好評》
過疎化が進む榧ノ沢で、空き家を改修した民泊が始まったという記事だった。畑仕事や川遊び、虫捕りなどを通して昔ながらの山村の暮らしを体験してもらう取り組みで、夏休みを中心に家族連れから好評を得ているらしい。
記事には運営者の写真も載っていた。
顔を見た瞬間、あの夏に集落の道で会った老人だと分かった。
当時70歳くらいだったはずだから、今は80歳前後だろう。写真の中では少し痩せていたが、人の良さそうな笑い方は記憶にあるものと変わらなかった。
小学6年生だった私に「大きくなったな」と声をかけてきた人。そして、その日の深夜、石組みの外から「じいちゃんに頼まれて来た」と呼びかけてきた声と同じ声を持つ人だった。
記事によれば、民泊は評判もよく、高齢化の進む集落を少しでも元気にしたいという老人の思いに賛同する人も多いという。空き家の片づけや畑仕事を手伝う人まで現れ、少しずつ地域外との交流も増えているらしい。
中でも、老人は子どものいる家族を積極的に受け入れていた。
子どもには自然の中で思い切り遊んでほしいという理由から、家族連れについては利益がほとんど出ないような料金でも泊めているという。夏休みには、川遊びや虫捕り、昔ながらの外遊びを楽しみに、何組もの家族が訪れていた。
掲載されている写真の1枚には、改修された古い家の前で、老人と宿泊客の家族が並んでいた。若い夫婦の間には、小学生くらいの子どもが2人いて、老人を含め、みんな楽しそうに笑っていた。
私はしばらくその写真を見たあと、記事の続きを読んだ。
最後には、老人の言葉が紹介されていた。
「子どもの声がすると、村も生き返りますから」




