子どもがいない集落・前編
夏休みに入って3日目、拓海の両親が交通事故に遭った。
交差点で横から来た車に衝突されたらしい。幸い2人とも命に別状はなかったが、父は腕から肩にかけてひどく傷め、手術が必要になった。母も両足を骨折しており、医師からは、経過がよければ1~2週間ほどで退院できる見込みだと説明された。
困ったのは、その間の拓海だった。小学6年生とはいえ、夏休みだからと1人で何日も生活させるわけにはいかない。ただ、両親が退院するまでのすべてを誰かに頼む必要はなかった。
普段から家族ぐるみで付き合っている近所の佐々木夫妻が海外旅行中だったが、6日後には帰国する予定で、その後なら何日か拓海を預かってもいいと言ってくれていた。そのころには父の手術後の経過も、母の退院時期も、もう少しはっきりしているはずだった。
どうしても埋めなければならないのは、最初の1週間ほどだった。
父は病室から何人かの親戚へ連絡したものの、伯母の家には受験生がいて、父方の祖父母は介護施設に入っている。数日ならという知人もいたが、ちょうど仕事が忙しい時期で難しかった。
「じゃあ、お義父さんのところなら、1週間くらい何とかならないかな。そのあとなら佐々木さんたちも帰ってくるだろ」
候補が尽きたところで父がそう言うと、母だけがすぐには頷かなかった。
母方の祖父母が暮らす榧ノ沢かやのさわには、拓海も何度か泊まりに行ったことがある。山の中にある小さな集落で、最後に訪れたのは4年ほど前だった。たった1週間なら何とかなるだろう、と父は考えているようだったが、母はスマートフォンを手にしたまま、しばらく画面を見ていた。
「……6日。長くても1週間だからね」
「分かってるよ。その先までお願いするつもりはないって」
それでも母の表情は晴れなかった。
「そういうことじゃないんだけどね」
父が聞き返すより先に、母は祖父へ電話をかけた。
事故のこと、けがのこと、6日後には別の預け先へ移せることまで説明し、拓海をそれまで置いてもらえないかと頼む。電話の向こうで祖父が何か言い始めると、母は長い間、黙って聞いていた。
「うん。だから1週間だけ。それ以上には絶対しない。……分かってる」
そこまで約束して、ようやく祖父は了承した。
電話を切った母は、拓海にも同じことを言った。
「途中でおじいちゃんが帰るって言ったら、まだいたくても帰ること。勝手に延ばしたりしないでね」
「分かったって」
拓海は面倒そうに答えたが、母は笑わなかった。
*
榧ノ沢は、市街地から車で1時間以上山へ入ったところにあった。
駅まで迎えに来た祖父の車に乗り、国道から細い県道へ入ると、店は少しずつ減っていった。最後のコンビニを過ぎてからは、窓の外を流れるのは杉林と畑ばかりで、ときどき道路脇に古い民家が見える程度だった。
「前に来たときより遠く感じる」
「お前が小さかったからだ」
祖父はそれだけ答え、前を向いたまま運転を続けた。
集落へ入ると、記憶にあるより家が少なくなったように見えた。実際になくなったわけではなく、窓に板を打ちつけた家や、庭が腰の高さまで草に埋もれた家が増えているのだ。人が住んでいる家にも年寄りの姿ばかりで、道を歩く子どもは1人も見なかった。
祖父母の家へ着くと、祖母が玄関まで出てきて「大きくなったねえ」と拓海の肩を何度も叩いた。荷物を下ろしていた祖父は、久しぶりに会った孫へ学校のことを尋ねるでもなく、母から言われた滞在日数を覚えているかと確認した。
「1週間でしょ」
「ああ。それ以上はなしだ」
妙だとは思ったものの、祖母が麦茶を出してくれ、祖父もそれ以上は何も言わなかったので、そのときは深く考えなかった。
夕食まで時間があり、拓海は近所を歩いてみた。以前は犬を飼っていた家まで雨戸を閉めたままで、道端の畑にも耕していない場所が増えている。記憶にある榧ノ沢より、ずっと静かだった。
集落の入口近くまで来たところで、畑から上がってきた老人とすれ違った。麦わら帽子の下から拓海の顔をじっと見たあと、老人は懐かしそうに目を細めた。
「お前、あそこの家の孫だな。前にも夏に来てたろ」
拓海にも、どこかで見た覚えがあった。名前までは思い出せないが、以前来たときにも祖父の家で茶を飲んでいたような気がする。
「大きくなったなあ。夏休みなら、ゆっくりしていけ」
老人は畑で採ったらしいキュウリの入った籠を抱え直し、人の良さそうな顔で笑った。そのまま世間話をするでもなく、じゃあな、と片手を上げて畑の方へ戻っていった。
家へ戻ってから祖父へ尋ねると、今住んでいるのは15世帯ほどで、空き家は10軒くらいあるという。小学生も中学生もいないと聞かされ、そこで拓海は4年前に一緒に遊んだ少年のことを思い出した。
「陽介は?」
台所でトマトを切っていた祖母の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ああ……陽介君ね」
「今、中学生だよね。どこにいるの?」
祖母はまな板へ視線を落としたまま、「もう、いないよ」と答えた。
「引っ越したの?」
「まあ……そんなところ」
どこへ行ったのか重ねて聞いても、祖母は答えず、切ったトマトを皿へ移した。テレビを見ていた祖父にも聞いたが、「今はいないんだ」と言うだけで、なお尋ねようとすると、「その話はもういい」と少し強い声で打ち切られた。
もし陽介が亡くなったのなら、言いづらいのも分かる。しかし2人とも、死んだとも引っ越したともはっきり言わない。その曖昧さが気になり、その夜、布団に入ってからも陽介のことを考えていた。
思い出せるのは、4年前の顔や声ばかりだった。
*
翌日は朝から暑かった。祖父は畑へ出て、祖母も洗濯や掃除で忙しくしている。ゲーム機にも動画にも午前中で飽きてしまい、昼食のあと、拓海は1人で集落を歩いた。
昔遊んだ川へ下りると、水の冷たさだけは記憶と変わっていなかった。川沿いを歩くうちに、以前、陽介と何度も登った山道のことを思い出した。虫を捕ったり、木の枝を拾って剣にしたりした、子ども2人でも歩ける細い道だった。
入口はすぐに見つかったが、その先は昔とはまるで違っていた。土の道があった場所を笹と低木が覆い、蔓が横から伸びている。少し奥には倒木まであり、足元に残る浅い窪みを見なければ、そこに道があったことさえ分からないほどだった。
祖父から山へ行くなとは言われていたものの、拓海は熊や蛇を心配しているだけだと思っていた。4年前には陽介と普通に歩いた道なのだから、入口から少しくらいなら大丈夫だろうと、笹を押し分けながら数メートル入った。
思ったより道は残っていた。草に隠れながらも、踏み固められた地面は山の上へ続いている。10分ほど進んだところで、さすがに戻ろうと思った。
そのとき、上の方から子どもの声がした。
「おーい」
足を止めて耳を澄ませた。鳥や獣の声ではない。誰かが、山の上からこちらを呼んでいる。
「誰?」
返事はなく、風で笹が擦れる音だけが続いた。気のせいかと思い、来た道へ体を向けたときだった。
「拓海」
今度は名前を呼ばれた。
4年前、毎日のように聞いていた声に似ている。
「陽介?」
木々の間を見上げても、誰もいなかった。もう一度呼んでみたが返事はなく、さっきまで聞こえていた蝉の声まで遠のいたような気がして、その日はそれ以上奥へ進まなかった。
家へ戻ってからも、祖父母には何も話さなかった。
*
翌日の昼過ぎ、拓海は再び山道の入口に立っていた。
祖父母が陽介について何か隠しているのなら、自分で確かめたかった。昨日聞いた声が本当に陽介だったのか、それとも似ていただけなのかも気になる。
前日より奥へ進むと、昔の道はところどころ完全に藪へ飲み込まれていた。笹を両腕で掻き分け、蔓を踏み越え、倒木を避けながら登っていく。途中で小さな沢へ出ると、4年前に陽介と石を積んで水をせき止めた場所だったことを思い出した。
沢を越えたところで、また声がした。
「こっち」
「陽介?」
「もう少し」
声はすぐ近くから聞こえた。
さらに登ると、突然、目の前の藪が途切れた。強い日差しが差し込み、その先に、山の中腹とは思えないほど広く平らな草原が広がっていた。
周囲は森に囲まれている。その草原いっぱいに、大勢の子どもたちがいた。
20人どころではないかもしれない。走り回っている子もいれば、縄跳びをしている子、毬のようなものをついている子、木の輪を棒で転がしている子もいる。拓海には遊び方の分からないものまで混じっていたが、笑い声が絶えず響いていて、遠目にはどの子も楽しそうだった。
榧ノ沢には未成年が1人もいないと聞いたばかりだったので、しばらくその場に立ち尽くした。やがて子どもたちの中から、1人の少年がこちらへ走ってきた。
「拓海!」
陽介だった。
「やっぱり陽介じゃん」
思わず拓海も笑った。
祖父母がいないと言っていたことを話すと、陽介は「うん」とだけ答えた。どこへ行っていたのか尋ねても、「ここ」と言うばかりで、さらに聞こうとすると、それを遮るように遊ぼうと誘った。
近くまで来て初めて、陽介の背丈に違和感を覚えた。4年前にはほとんど同じくらいだったはずなのに、今では陽介の方が明らかに小さい。
「お前、背伸びてなくない?」
「拓海が大きくなったんだよ」
笑ってそう言われると、そういうものかという気もした。
草原へ入ると、最初のうちは本当に楽しかった。知らない子どもたちもすぐに名前を聞いてきて、町から来たと知ると、何人かが「いいなあ」と羨ましそうに言った。何が羨ましいのか尋ねても、誰もまともには答えなかった。
鬼ごっこをして、そのあと縄跳びにも混じった。しばらく走り回るうちに汗だくになり、拓海が草の上へ腰を下ろそうとすると、陽介はすぐ別の遊びへ誘ってきた。
「ちょっと休むよ。暑いって」
「まだいいじゃん。次、あっちやろう」
笑ってはいるものの、声には妙な焦りが混じっていた。そのころから、周囲の小さな違和感が次々と目につき始めた。
普通のTシャツと短パンを着た子がいる一方で、見たことのない形の半ズボンを履いた少年や、色褪せたブラウスに古いスカートを合わせた少女もいる。裸足の子がいれば、ひどく古びた革靴を履いた子もいた。何かの催しで昔の服を着ているのかと思ったが、陽介に聞いても「普通だよ」と笑うだけだった。
もっと気になったのは、誰も休もうとしないことだった。
縄跳びをしている女の子は何度も縄へ引っかかり、顔を真っ赤にして肩で息をしていた。拓海がもう休めばいいと言うと、その子は動きを止めたが、近くにいた子どもたちまで一斉に彼女を見た。
「大丈夫。楽しいから」
女の子は慌てるように笑い、また縄を回し始めた。
少し離れたところでは少年が転び、膝を擦りむいていた。血が滲んでいるのに、すぐ立ち上がって走り出す。痛くないのか尋ねると「平気」と笑ったが、目には涙が浮かんでいた。
拓海が鬼ごっこへ加わっている間にも、妙なことがあった。さっきまで走り続けていた小さな男の子が草の上へ座り込み、しばらく両手で顔を覆っている。縄跳びをしていた少女も、拓海の近くで別の子が遊び始めたところで、初めて縄を置いてしゃがみ込んだ。
新しく遊ぶ子が増えると、誰かが休めるように見えた。逆に拓海が足を止めると、休んでいた子どもたちは周囲の様子を窺いながら立ち上がり、走り出したり、慌てて縄を拾ったりする。
みんな笑っている。それなのに、もう誰も楽しそうには見えなかった。
草原の端には、大人の背丈より少し高い黒い岩があった。自然にそこへある石のようだが、正面の一部だけ古い木板で覆われ、太い縄が掛けられている。何かを祀っているようにも見えたし、逆に岩そのものを隠そうとしているようにも見えた。
何より奇妙なのは、誰もそちらを見ないことだった。
拓海が岩を見つめていると、陽介の声が飛んだ。
「見ないで」
それまでとは声の調子が違った。
振り向いた瞬間、草原から音が消えた。縄を回していた手も、走っていた足も、毬をついていた手も止まり、子どもたち全員が拓海を見ている。ほんのわずかな間だったが、誰の顔にも笑みはなかった。
次の瞬間には、さっきまでより大きな笑い声が上がり、全員が一斉に遊びを再開した。
拓海はもう帰ろうと思った。そう告げると、陽介だけでなく、周囲にいた子どもたちまで少しずつ集まってくる。誰も道を塞いではいないし、無理に引き倒したりもしない。それでも、「もう少しだけ」「次も一緒にやろう」と笑いながら重ねられる声が、さっきまでとは違って聞こえた。
「やらない。俺、帰るから」
掴まれていた腕を外すと、陽介の笑顔が消えた。しばらく拓海を見ていたが、やがて何か思いついたように、もう一度だけ口元を持ち上げた。
「じゃあ、鬼ごっこしよう。拓海が逃げる方でいいから」
その言葉を聞いた途端、周囲の子どもたちが静かになった。少し離れたところで遊んでいた者まで、いつの間にかこちらを見ている。
拓海は一歩下がった。
「やらないよ」
「大丈夫だよ。みんなで追うだけだから」
陽介は笑ったまま、静かにそう言った。
次の瞬間には、拓海は藪へ飛び込んでいた。
顔へ枝が当たり、笹で腕を擦っても構わず、登ってきた道を駆け下りた。後ろから陽介に名前を呼ばれ、続いて何人もの声が待ってと叫んだが、振り返らなかった。
沢を飛び越え、倒木の横を抜ける。息が苦しくなり、何度も足を取られそうになったが、それでも立ち止まらなかった。
かなり下ったところで、背後から子どもの声がした。
「逃げた」
それを聞いた誰かが笑った。さらに別の子が笑い、その声が次々と重なって、山の上から追いかけてくるように広がった。




