堤防の下から呼ぶもの
これは俺が20代のころに体験した話です。
当時は仕事が終わってから、家の近くにある川沿いをよく走っていました。
家から少し行くと堤防があり、その上に舗装された道が延びていました。車はほとんど通らず、夕方になると犬の散歩をしている人や、俺みたいに走っている人が何人かいる程度です。
川と堤防の間には広い河川敷があり、夏の終わりになると背の高い草がかなり伸びていました。
あれがあったのは9月の初めだったと思います。
仕事から帰って着替え、いつものように走り始めたのが6時前くらいでした。まだ真っ暗ではありませんでしたが、日が落ちるのが早くなっていて、川の方はもう薄暗く見えていました。
いつものコースを半分ほど走ったところで、河川敷の方から声がしました。
「浩平」
俺の名前でした。
最初は誰か知り合いでもいるのかと思って、走りながら河川敷を見ました。
少し離れた草むらの中に、人が立っているように見えました。辺りはもう薄暗く、背の高い草にも隠れていたので、姿はぼんやりとしか分かりませんでした。
「浩平」
もう1度呼ばれました。
その声を聞いて、森田だと思いました。
高校のころから付き合いのある友達で、今でもたまに飯を食いに行ったりするやつです。声がかなり似ているというより、俺には森田の声そのものに聞こえました。
「森田?」
俺が大きめの声で呼ぶと、
「こっち来いよ」
と返ってきました。
「何してんの?」
「いいから」
変なところにいるなとは思いましたが、そのときは怖いとは感じていませんでした。
森田なら何か用があって近くまで来ていたのかもしれないし、川へ下りた理由も、行けば分かるくらいに考えていました。
ただ、その辺りから河川敷へ直接下りることはできません。少し先に下へ続く道があるので、そこから回ろうとしました。
そのとき、後ろから声をかけられました。
「兄ちゃん、下にいるの知り合いかい?」
振り返ると、60代くらいの男の人が犬を連れて立っていました。
この人のことは何となく知っていて、俺と同じ時間帯によく堤防を歩いており、柴犬みたいな茶色い犬を連れているのを何度も見たことがありました。
話をしたことはありませんでしたが、お互い顔くらいは覚えていたと思います。
「友達です。高校のときからの」
「あれが?」
「はい。森田っていうんですけど」
男の人も河川敷へ目を向けました。
その足元では、犬が草むらの方を見たまま低く唸っていて、リードを引かれてもついてこようとしません。
「なんか様子おかしくないかい。犬もさっきから、あっちばっかり気にしてるんだよな」
「でも、たぶん森田ですよ。声もそうなんで」
そのとき、また、
「浩平」
と呼ばれました。
男の人も聞こえたらしく、河川敷と俺の顔を交互に見ました。
「今の、兄ちゃんの名前かい?」
「そうです」
俺はやっぱり森田だと思い、下り口の方へ歩こうとしました。すると男の人が、「まあ、ちょっと待ちな。暗くなってるし、もう少しここから見ててもいいだろ」と声をかけてきました。
俺が足を止めたところで、もう1度、
「浩平」
と声がしました。
今度は、さっきより近く聞こえました。
河川敷を見ると、森田はいつの間にか堤防の近くまで来ていました。歩いているところは見ていません。それまで立っていた辺りの草だけが揺れていて、本人は10mくらいこちら側まで近づいていましたが、相変わらず顔は見えませんでした。
隣の男の人も同じところを見ていました。
「あれ、さっきもっと向こうにいなかったか。こっちに来るところは見てないぞ」
「俺も見てないです」
その直後、犬が大きく唸りながら後ろへ下がりました。
男の人は河川敷をしばらく見たあと、「兄ちゃん、これはやめとこう。なんだか分からないけど、一回ここから離れた方がいい」と言いました。
俺ももう、森田のところへ下りていく気にはなれませんでした。
2人で河川敷から離れ、そのまま堤防の上を歩き始めました。
少し進んだところで、後ろから草の擦れる音が聞こえてきました。
風で揺れているような音ではなく、背の高い草を何かが押し分けながら進んでいるような、ザザッ、ザザッという音でした。
俺が足を止めると、隣の男の人も気づいたらしく、2人で河川敷の方を振り返りました。
森田の姿は見えませんでした。
代わりに、草だけがこちらへ向かって大きく揺れていました。
「なんだ、あれ……」
男の人がそう言った直後、足元にいた犬が急に吠え始めました。
さっきまでの唸り声とは違い、飼い主がリードを押さえなければ後ろへ逃げてしまいそうなくらい暴れていました。
草の揺れはそのまま堤防の斜面まで近づいてきました。
俺たちは動けずに見ていたんですが、しばらくすると、草の中から森田だと思っていたものが出てきました。
そこで初めて、そいつが立っていないことに気づきました。
両手と両足を地面につけていたんです。ただ、人が普通に四つん這いになった姿とは違っていて、腰だけが妙に高く持ち上がり、腕も長く見え、地面についた手の指も、暗い中でも分かるくらい細く長かったです。
それ以上に変だったのが首で、顔はこちらを向いているのに、首だけが横へ大きく傾いていました。
暗くて表情までは分かりませんでした。
「浩平」
森田の声でした。
隣にいた男の人が俺の方を見ました。
次の瞬間、そいつが斜面を上り始めました。
両手と両足をものすごい勢いで動かし、首を横に傾けたまま、ほとんど地面を滑るようにこちらへ近づいてきました。人間が四つん這いで出せる速さには見えませんでした。
「車、すぐそこだから走ろう!」
男の人に言われ、俺たちは堤防の上を走り出しました。
少し先に小さな駐車スペースがあり、そこにその人の軽自動車が停まっていました。
犬も一緒に走っていましたが、何度も後ろを振り返りながら吠えていて、俺にはもう後ろを見る余裕はありませんでした。
それでも、背後から草を掻き分けるような音が途切れずについてきているのだけは分かりました。
駐車スペースまで着くと、男の人が後部座席に犬を押し込むように乗せ、俺も助手席へ飛び込みました。車が動き出してからもしばらく後ろを見ることができず、堤防を離れて普通の道路へ出たところで、ようやく息をつけました。
「あれ、何なんですか」
俺が聞くと、男の人は前を見たまま、「分からんよ。あんなの初めて見た」と言いました。
その人には家の近くまで送ってもらいました。
家に帰ってから、森田に電話しました。
「今日の夕方6時くらい、川の方にいた?」
「川? いや、いないけど。なんで?」
「堤防の下にお前がいると思ったんだよ。声もお前だったし、俺の名前呼んでた」
森田は最初、何を言っているのか分からないようでした。
「いや、今日ずっと家にいたぞ」
「本当に?」
「本当だよ。というか、何それ。気持ち悪いな」
俺は河川敷で見たものについて少しだけ話し、その日は電話を切りました。
俺の体験談はこれで終わりです。
具体的な場所は伏せますが、東北の日本海側にある県を流れる一級河川で、河川敷が広く、堤防の上は近所の人が散歩やジョギングに使っているようなところです。
それ以来、暗くなってからあの堤防を走ることはなくなりました。
知っている人の声で呼ばれたとか、似たような経験をした方っていますか。




