続き
蒼井しおりがその古い文芸誌を見つけたのは、6月の終わり、朝から降り続いていた雨が夕方になって少し強くなった日のことだった。
しおりは隣市の県立高校に通っており、自宅まではバスを乗り継ぎ1時間ほどかかる。乗り継ぎ地点の近くにある町立図書館は、しおりが学校帰りによく立ち寄る場所で、新刊を借りることもあったが、それ以上に気に入っていたのは、奥の棚に並ぶ古い本や雑誌だった。
町の文化団体が昔出していた冊子、誰が読むのか分からない郷土誌、とうに休刊した文芸誌。知らない誰かが何十年も前に書いた文章を、今になって自分だけが見つけたように読めるのが好きだった。
その日、棚の下段から抜き出したのは『北窓』という薄い文芸誌だった。表紙の下には「昭和62年1月号」と小さく印刷されている。
しおりはそれを窓際の席へ持っていき、最初から順にページをめくった。俳句や随筆に混じって数篇の小説が載っており、その最後に、題名も作者名もない短い作品があった。
内容は、雨の日に学校帰りの女子学生が図書館へ入り、本を読むというものだった。
特別に面白い話ではなかったが、数行読んだところで、しおりは窓の外へ目を向けた。
――窓の外では、先ほどより雨が強くなっていた。
ちょうどそのころから、雨粒が窓ガラスを叩く音が大きくなっている。朝からずっと降っているのだから珍しいことではないと思い、そのまま先へ読み進めた。
――女子学生は窓際で読書を続け、やがて壁の時計を見ると、針は5時37分を指している。
しおりはページから顔を上げた。
閲覧室の壁に掛かった時計も、5時37分を指していた。
しばらく針を眺めてから、もう1度誌面へ視線を戻す。文章を追っているうちに数字が先に目へ入り、それにつられて時計を確認したのかもしれない。そう考えれば、妙ではあっても説明できないことではなかった。
次の行には、
――女子学生は、次の頁をめくるのをやめた。
とあった。
ページの端に掛けていたしおりの指が止まり、そのまま数秒動かなかった。この先まで読めば、次に書かれていることを意識せずにはいられない。
しおりはそれ以上先を読まず、文芸誌を閉じようとした。
ところが、手を動かす直前、その少し下にあった1文まで目に入ってしまった。
――それでも、背後の書架から、本を1冊抜き取る音がした。
しおりは手を止めたまま耳を澄ませた。
後ろには郷土資料と古い雑誌の棚が並んでいる。
人が歩いているような気配はなく、しばらく待っても何も聞こえなかったので、やはり考えすぎだったのだろうと思いかけた。
スッ……
と背後で音がした。
本の背と棚板が擦れるような、ごく短い音だった。
しおりは振り返らなかった。
誌面にも、
――彼女は振り返らなかった。
と印刷されている。
それ以上視線を下げないようにして文芸誌を閉じたものの、その寸前にもう1文だけ見えていた。
――閉館を知らせる声がするまで、彼女はその席を動かなかった。
そんなわけがない。立てばいいだけなのだから、と考えながら鞄へ手を伸ばしたとき、受付の方から女性の声が聞こえた。
「そろそろ閉館になります」
館内放送ではなく、司書が利用者の席を回りながら1人ずつ声をかけていた。
「あと10分ほどですので」
「あ、はい」
しおりは文芸誌を抱えて席を立った。
背後の棚を確認してみたが、そこには誰もおらず、床に本が落ちている様子もない。どの棚から1冊抜かれたのかも分からなかった。
しおりは『北窓』を元の場所へ戻し、その日はそのまま帰った。
*
翌日の放課後、しおりはまた町立図書館へ寄った。
昨日の出来事を確かめたいというより、あの文章の続きを知らないままになっていることの方が気になっていた。
女子学生はあのあとどうなったのか。
閉館後まで話が続いていたのか、それともあれで終わっていたのか。
昨日の棚へ行くと、『北窓』は年代順に並んでいた。昭和61年12月号の次には昭和62年2月号があり、棚の端まで確認してみても、昨日読んだ1月号だけが見当たらない。
誰かが館内で読んでいるのか、返却台か別の棚へ移されたのかもしれない。
周囲も探してみたが見つからず、しおりは受付で尋ねることもしないまま、その日は図書館を出た。
その翌朝、教室で現代文のノートを鞄から出したとき、ページの間から1枚の紙が滑り落ちた。
拾い上げてみると、端の黄ばんだ古い紙に、一昨日『北窓』で見たものとよく似た活字が並んでいる。
最初の1行には、
――女子学生は教室で、読まなかった続きを見つけた。
とあった。
しおりはその下へ視線を移さないように紙を裏返し、細かく折って筆箱の下へ押し込んだ。
午後の5時間目は現代文で、教師から前回の続きのページを開くよう言われたしおりも、いつものように教科書を机の上へ広げた。
ところが、前の授業から読んでいた小説の途中に、周囲とは字体も黒の濃さも違う古びた活字が1行だけ混じっている。
――女子学生は、教室で続きを声に出して読む。
その文から目を離して顔を上げたとき、ちょうど教師が出席簿からこちらへ視線を向けた。
「じゃあ、蒼井さん。前回の続きからお願いします」
教室で自分だけが黙っているわけにもいかず、しおりはもう1度ページを見た。例の1行はまだそこにあり、しばらく迷った末、そのまま声に出して読む。
「女子学生は、教室で続きを声に出して読む」
教師は一瞬だけ怪訝そうな顔をして、しおりの教科書へ目を落とした。
「蒼井さん、そこじゃないよ」
言われてページを見直すと、先ほどまであった古い活字はなくなっており、そこには前の授業から読んでいた小説の本文が、何事もなかったように続いていた。
*
放課後、しおりは町立図書館へ向かった。
もう続きを読みたいとは思わなかったが、昨日なくなっていた『北窓』の昭和62年1月号がどうなったのかだけは確かめておきたかった。
奥の棚まで行くと、昨日は何度探しても見つからなかった1月号が、昭和61年12月号と昭和62年2月号の間へ何事もなかったように収まっている。
それでも、目次だけならと思い、しおりは1月号を棚から抜いて最初の数ページを開いた。
俳句、短歌、随筆、小説と見覚えのある題名が並ぶ中、その一番下に、以前はなかった作品名が増えていた。
『続き』
その横の作者欄には、「蒼井しおり」と印刷されている。
しおりは表紙を見直した。
発行年月は、昭和62年1月号のままだった。




