熊出没注意
宮下沙紀が石井真由とその渓谷を訪れたのは、9月の終わりだった。
二人は大学時代からの友人で、本格的な登山を趣味にしているわけではないが、春や秋には景色のいい場所を探して一緒に出かけることがある。
この日も山頂を目指すつもりはなく、渓谷の奥にある滝まで歩いて戻ってくる程度の予定だった。観光案内では往復2時間ほど、家族連れでも歩けるコースとして紹介されている。
最寄り駅からバスで40分ほど揺られ、停留所へ着くと、前には小さな駐車場と遊歩道の案内板があった。
休日だけあって同じバスから何組かが降り、駐車場からも年配の夫婦や子供を連れた家族が入口へ向かっている。
「ちゃんと人いるね」
真由がリュックの肩紐を直しながら言った。
「何だと思ってたの」
「もうちょっと山の中かと」
「私、そんなとこ選ばないよ」
案内板の脇には《熊出没注意》と書かれた黄色い看板が立っている。
「やっぱり熊いるんだ」
真由がリュックにつけた小さな熊鈴を指で弾くと、澄んだ音が一度鳴った。
「それ、本当に持ってきたんだ」
「一応ね。沙紀は?」
「何もない」
「じゃあ私から離れないで」
「その鈴1個で守れるならね」
二人で笑いながら遊歩道へ入った。
天気はよく、渓流沿いの道には何組かのハイキング客が歩いている。真由は水面に光が差す場所を見つけるたびスマートフォンを取り出し、ときどき沙紀を立たせて写真を撮った。
「また逆光じゃない?」
「後ろが綺麗だからいいの」
「私が真っ黒なんだけど」
「景色が主役だから」
「ひどい」
写真を見ながら歩いているうちに、話は帰りに何を食べるかへ変わった。
駅前の蕎麦屋がいいとか、甘いものが食べたいとか、まだ滝にも着いていないのに帰りの話をするなとか、そんなことを言い合っているうちに、入口で見た熊の看板について話すこともなくなった。
しばらく渓流に沿って進んだところで、少し前を歩いていた真由が足を止めた。
「これ、どっち?」
道はそこで右側と正面方向に二つに分かれていた。
右側は斜面へ細く上り、もう一方はほとんど高さを変えず、杉林の奥へ続いている。幅だけを見れば、正面の方が歩きやすそうに見えた。
分岐の脇には古い木製の道標が傾いており、表面の文字はかなり消えていたものの、《渓谷》という二文字だけはまだ読める。
「こっちじゃない?」
真由が正面の幅の広い方を指した。
「川も向こうっぽいよね」
沙紀はスマートフォンで現在地を確認したが、遊歩道を示す線は細く、この分岐でどちらへ曲がるのかまでは判然としない。
「違ったら戻ればいいか」
「そうしよ」
二人は広い方へ入った。
道には人が歩いた跡が残っており、草に覆われているわけでもない。
すぐに疑うような場所ではなかったが、しばらく進むうちに杉が増え、さっきまで近かった川の音が次第に遠くなっていった。
「やっぱり違うかな」
真由が地図を見直す。
「でも道は続いてるよ」
その少し先に黄色い看板が立っていた。
《熊出没注意》
「あ、ほら」
「何がほらなの」
「少なくとも誰か管理してる道ではあるでしょ」
「熊がいる道でもあるけどね」
真由が鈴を軽く鳴らし、その横を通り過ぎた。
次に見つけた《熊注意》は、自治体が設置したものには見えなかった。板へ直接赤い文字を書き、杉の幹へ針金で括りつけただけの古いもので、文字は雨に滲み、下端には苔まで付いている。
「ずいぶん古いね」
「昔から出るんじゃない?」
その程度の会話で済ませ、二人は歩き続けた。
比較的新しい《熊出没注意》の看板の後ろには、透明な袋へ入れられた《熊注意》の紙が貼られていた。
少し離れた斜面にはベニヤ板へ黒い字で《熊出没》と書かれ、木と木の間には黄色と黒の警告テープまで張られている。
「またある」
真由が歩みを緩める。
「……多いね」
そのまま数歩進んだところで、沙紀も立ち止まって振り返った。
歩いている間は一つずつ目に入っていたため分からなかったが、こうして止まって見ると、来た道の木々の間にも黄色や白の札が残っている。
正面だけでなく斜面側にも《熊》の文字があり、比較的新しい印刷看板のすぐ近くに、何年、何十年も前からそこにあるような古い手書きの板が混じっていた。
「これ、全部いる?」
「私も今それ思った」
真由も辺りを見回す。
「なんか、だんだんと増やしてるみたいだね」
「誰が?なんのために?」
「そんなの、知らないよ」
前方の《熊出没注意》の下に何かが吊られているのを見つけたのは、真由だった。
「沙紀、あれ何?」
茶色い小さなものが、細い紐でぶら下がっている。
少し近づくと熊のぬいぐるみだった。
子供が持つような大きさで、首のあたりに紐を回され、片方の目はなく、何度も雨を吸っては乾いたのか毛が固まっている。
「落とし物じゃないよね」
「普通こんな吊り方しないでしょ」
真由が周囲へ目を移し、すぐ別の木を指した。
「あっちにもある」
警告テープに、小さな黒い熊のマスコットが結ばれていた。
そこだけではない。
少し離れた枝からは赤い服を着た熊のキーホルダーが下がり、さらに奥には、長いあいだ外へ放置されたらしい色褪せたぬいぐるみが括りつけられている。
新しいものもあれば、何年そこにあるのか分からないほど傷んだものもあり、誰か一人がまとめて置いたようには見えない。
「何これ……」
「戻ろう」
沙紀が言うと、真由もすぐ頷いた。
来た道へ向きを変えると、行きには気づかなかった札まで目に入った。
木の陰に隠れていた手書きの《熊注意》や、斜面の低いところへ立てられた古い板が反対側からは見え、来るときより看板の数が増えたように感じる。
真由は熊鈴を手に取り、歩くたびに鳴るよう位置を直した。
その音が杉林の中で何度か続いたところで、右上の斜面から太い枝の折れる音がした。
二人が同時にそちらへ顔を向けると、少し間を置いて今度は下草が擦れ、何かが斜面を横切っているように、離れた場所でも葉が揺れた。
「熊かな」
沙紀が声を落とした。
「かもしれない。止まらないで行こう」
真由は鈴を鳴らしたまま歩き始めた。
それからは二人とも、道より斜面の方を気にする時間が増えた。大きな木の根元が見えると熊かと思い、そちらに目が向き、葉が揺れれば足が遅くなる。そして、斜面を見れば見るほど、いたるところに設置された《熊出没注意》や《熊注意》の文字が視界に入ってくる。
先を歩いていた真由が、突然沙紀の前へ腕を出した。
「待って」
杉の幹が何本も並ぶ斜面の奥に、黒いものが見えた。
距離があり、木に遮られているため全体の輪郭までは取れない。高い位置に丸みのある黒い部分があり、その下にも暗い幅が続いている。
「熊じゃない?」
真由が小さく言った。
その言葉を聞いてから見直すと、沙紀にもそう見えた。
「戻ろ」
真由が静かに後ろへ下がり、沙紀もそれに合わせた。二人と斜面の間へ杉の幹が重なっていくにつれ、熊らしき姿は少しずつ見えなくなる。
十分に距離を取ってから歩く向きを変えると、沙紀の足は自然と速くなった。
「本当にいるんだ」
「看板あるくらいだからね」
真由の返事を聞き、沙紀は頷いた。
*
二度目に熊らしき黒い姿が現れたのは、それほど間を置かないうちだった。
左側の林で何かが動き、沙紀は反射的に真由の腕を掴んだ。
先ほどより近い場所で、杉の陰へ入り、その向こうへ移っていく。
ところが視線でその動きを追った沙紀には、最初に見えていた位置にもまだ黒が残っているように見えた。
「……真由。あれ、長すぎない?」
言われて、真由も林の奥を見直した。
前へ移った黒い部分はもう次の杉へ差しかかっている。
「たぶん熊だよ、逃げよ」
「でも、なんか……」
「こっちに来たら大変だよ。早く行くよ」
真由はそれ以上見ようとせず、沙紀の腕を引いた。
「もう帰ろう。ほんとに」
「帰ってるから」
「早く」
「走らないで」
沙紀はそれから何度も振り返りながら、真由の後を追った。
分岐まで戻ってから、二人はようやく道を間違えていたことを知った。
斜面側の細い道へ少し入ったところに小さな現在地図があり、赤い遊歩道の線はそちらへ延びている。二人が入った幅の広い道には、何の線も引かれていなかった。
「こっちだったんだね」
「滝はもういいよね。帰ろっか」
「そうだね」
正規の遊歩道へ入ると、ほどなく川の音が戻り、向こうから親子連れが歩いてきた。子供が拾った木の実を母親へ見せながら笑っている。
沙紀は、その家族が見えなくなるまで何度か振り返った。
*
登山口へ戻ったあと、二人はバスを待つ間、停留所のそばにある小さな売店へ入った。
沙紀と真由は冷蔵庫から水を取り、一緒にレジへ置く。
「この辺、熊多いんですね」
真由が店番の男性へ言った。
60代くらいに見える男は、バーコードを読み取ろうとしていた手を止めた。
「熊に遭遇したの?」
「はい」
「どこらへんで?」
真由が分岐の場所を説明すると、男は途中から確認するように何度か頷いた。
「あっち入ったのか」
「道を間違えたみたいです」
「どこまで行った?」
「熊のぬいぐるみが吊ってあるところより、少し先まで」
男は二人の顔を見比べた。
「何回見た?」
「2回です」
沙紀が答えると、男はそのまま続けた。
「2回とも、熊に見えた?」
沙紀は一瞬戸惑ったものの、すぐに頷いた。
「……はい。たぶん熊でした」
「ああ。熊に見えてるなら、大丈夫だ」
男の言葉を聞いて、
「え?」
と沙紀と真由の声が重なった。
二人が顔を見合わせて、真由が聞き返しかけたところで、店の外からバスのブレーキ音が聞こえた。
「バス逃したら帰れなくなっちゃう、真由はやく行くよ」
沙紀はそう言い、男の顔をもう一度だけ見てから、水を持って店を出た。
帰りのバスでは、しばらく二人とも山の話をしなかった。
道路沿いに民家や店が増え、山がかなり遠くなってから、沙紀がようやく口を開いた。
「最初に見たやつ、真由が先に熊って言ったよね」
「そうだった?」
「うん」
沙紀は少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
「あれ、何だったんだろうね」
「もうその話やめよ」
真由の声がそれまでより強く、沙紀は少し驚いて彼女を見た。それでも理由までは聞かず、「うん」とだけ答えた。
*
あの日以来、真由は山で見たものについて誰にも話さなかった。
沙紀とは何度か会ったものの、あの日の話題が出そうになれば適当に流し、スマートフォンに残っている写真も見返さないまま、数ヶ月ほどすぎた。
12月下旬、真由の住む地域では雪が降り積もり始めた。
ある日の夕方、仕事を終えて車で帰宅していると、前夜からの雪が道路脇の空き地や畑を覆い、低い斜面から木々の根元まで白くなっている。
除雪された車道だけが黒く延び、その両側には、薄暗くなり始めた時間でも分かるほど雪が白く残っていた。
自宅まで10分ほどの交差点で赤信号につかまり、真由は車を止めた。
何気なく左を見ると……
黒いアレがいた。
真由の手がハンドルの上で止まる。
頭の中に、売店の男の声が戻ってくる。
《熊に見えてるなら、大丈夫だ》
真由には、あの時……2回目に見た時には、もう熊には見えていなかった。
そして、あの日以来、黒いアレは色んな場所で見えるようになった。
ただ、何か動いたように見えた時は、目に入った黒いものを二度見せず、その形や、どこまで続いているのかを考えないようにしてきた。
しかし……今は、雪に覆われた空き地の中に黒いアレがいる。周囲が白いせいで、目を逸らしても、その輪郭だけが視界の端にはっきり残ってしまう。
今も、地面すれすれまで身体を伏せ、黒く濡れた着物のようなものを何枚も重ねた姿が見える。
布はところどころ擦り切れて長く垂れ、その下に何が入っているのかは分からない。前の方が木々の陰へ入っても、後ろでは何枚もの黒い裾が、まだ雪の上を引きずられている。
見たくないのに、はっきり見えてしまう……
真由は信号が青へ変わった瞬間、アクセルを踏んだ。
車が交差点を抜け、空き地が後方へ流れていき、そこで初めて息を吐いた。
しかし、雪はこれから何か月も残り、秋までは景色の中に紛れていた黒いものが、この先は嫌でもはっきりと目に入ってしまう。
「熊じゃないものに見えてしまったら、どうなるのよ……」
あの時、詳しく聞いておけばよかった。
沙紀が「熊に見えた」ってすぐに言ったから、聞きそびれてしまった。
沙紀が勝手に話を進めるから……
沙紀のせいだ。
そもそも最初からあんな道へ入らなければよかったのに、沙紀が「長い」とか言うから……
アレをアレとして見てしまった。
全部、沙紀が悪い。
沙紀のせいだ。
なんで私だけなの。
許せない……。
そうだ、沙紀にも一緒に見てもらえばいいんだ。
元々は沙紀のせいなんだし、アレも沙紀に見られたがってる。
どうせ、もうダメなんだから。
一緒の方がいいよね。
私は家に着いてすぐに沙紀に連絡した。
《沙紀、今から家に遊びにいくね》
着替えを済ませ、黒のロングコートを羽織り、急いで沙紀の家へ向かった。
アレが近くにいることを確認しながら。




