まじ卍
その集落へ寄ったことに、特別な理由はなかった。
35歳になる独身の佐伯豊は休みを使っては、よく一人で旅行しており、その日は山間にある温泉宿へ向かっていた。予定より早く近くまで来てしまったため、宿へ入るまでの時間を潰そうと、県道から適当な脇道へ入っただけだった。
道はしばらく杉林の間を走っていたが、やがて視界が開け、田畑の中に十数軒ほどの家が集まった小さな集落へ出た。
観光地らしいものは何もなく、道路脇には軽トラックが停まり、畑では何人かが作業をしている。
佐伯は集会所らしい建物の脇へ車を停め、少し歩いてみることにした。
「兄ちゃん、旅行か?」
車から離れて間もなく、畑の脇にいた男から声をかけられた。六十代くらいで、日に焼けた顔に帽子をかぶり、手には軍手を持っている。
「はい。ちょっとこの辺まで来たんで」
「どっから?」
「東京です」
「東京から来たのか、まじまんじ」
最後の一言だけ、うまく聞き取れなかった。
「今日はこの辺に泊まるのか?」
「もう少し先の温泉です。まだ時間があったんで、適当に走ってたらここに来ちゃって」
「一人で来たのか、まじまんじ」
「はい。一人です」
「そうかあ、まじまんじ」
同じ音を三度聞いたところで、佐伯はようやく思い当たった。
――ああ、「まじ卍」か。
一時期、若い人たちが使っていた言葉だったはずだ。何にでも使えるような言葉で、佐伯自身、正確な意味はよく分かっていない。
それにしても、目の前の男はどう見ても六十代だった。
まだ使っている人がいるんだな、と少し可笑しくなる。
「この辺って、何か見るところあります?」
「見るところ? 何にもねえぞ」
男が笑ったところへ、後ろから白い軽トラックが近づいてきた。運転していたのは同じくらいの年齢の男性で、二人の横まで来ると窓を開ける。
「誰だ?」
「旅行だってよ。東京から一人で来たんだと」
「東京から一人旅か。まじ卍」
佐伯は思わず笑った。
この人も言うのか。
「この辺、何かあるかって聞かれてよ……なんもねえべな、まじ卍」
「何もねえ。あるのは山くれえだ。まじ卍」
二人は顔を見合わせてからこちらを笑い、最後に軽トラックの男が「歩くなら車に気ぃつけろよ、まじ卍」と言った。
どうやら最初の男だけの口癖ではないらしい。
佐伯はなんだか可笑しくなってきた。こんな山あいの小さな集落で、六十代くらいの男たちが揃って「まじ卍」を使っている。
何年前の流行語だよ、と心の中で笑いながら、ひょっとするとこの辺りでは今でも普通に使われているのかもしれないと思った。
佐伯はそんなことを考えながら二人と別れ、集落の奥へ歩いていった。
*
田畑の間を抜ける道は静かで、時折、山の方から鳥の声が聞こえてくる。何軒かの家の前を通ったところで、今度は小柄な老婦人から声をかけられた。
「あんた、さっき佐藤さんと話してた人だべ? ……」
最後の方はうまく聞き取れなかったが、おそらく、さっき話していた二人のどちらかが佐藤さんなのだろう。小さな集落だけに、見慣れない人間が歩いているのが珍しくて、老婆も声をかけてきたらしい。
「あ、はい。さっきお二人と話してまして……旅行で来たんです」
「そうかそうか。東京から……まじ……」
「はい、東京です」
また最後の方は曖昧だった。ただ、今度は「まじ」という音だけが妙に耳に残った。
七十代後半くらいだろうか。
片手に小さな籠を抱えていて、佐伯がこの辺りに何か見るものはないか尋ねると、少し考えてから山の方を指した。
「川ならあるよ。あっちずっと行くと、水きれいだから。まじまんじ」
今度ははっきり聞こえた。
まじまんじ。
佐伯は老婆の顔を見た。
――このおばあさんも「まじ卍」って言ってるのか。
考えてみれば、最初に声をかけられたときも、その次も、聞き取れなかった語尾には同じような音が混じっていた気がする。
「歩いて行けます?」
「行けるよ。途中で道分かれるけど、下の方へ行けば川だから。まじ卍」
「じゃあ、ちょっと見てきます」
「暗くなる前には戻ってきなよ。まじ卍」
老婦人と別れてから、佐伯は一人で少し笑った。
おじさん二人なら、仲間内の冗談か何かだと思えた。しかし、あの年齢の人まで当たり前のように使っている。
もしかすると、この集落では本当に「まじ卍」が定着しているのかもしれない。
『何年前の流行語だよ』
そんなことを考えながら、教えられた道を山の方へ進んだ。
*
民家が途切れると、道の片側は杉林になり、反対側の斜面の下から水の流れる音が聞こえ始めた。
しばらく歩くと道が二手に分かれ、片方は水音のする方へ下り、もう片方は杉林の中へ細く上っている。
川へ行くなら下だろう。
ただ、上へ続く道にも人が通った跡があり、時間にもまだ余裕があったため、佐伯は少しだけ見て戻るつもりで、山側へ入った。
数分も歩かないうちに杉林が切れ、小さく開けた場所へ出ると……
そこには墓石が数基並んでいた。
集落の墓地だろう。勝手に入るのも悪いと思い、引き返そうとしたところで、一番手前にある墓石の文字が目に入った。
【真地萬治之墓】
佐伯は何となく読み、それからもう一度、文字を目で追った。
「……まじ、まんじ?」
さっきまで何度も聞いていた音と同じだった。
妙な偶然だと思いながら隣の墓へ目を向けると、そちらにも同じ名前が刻まれていた。
さらにその隣にある古い墓にも、風化した文字の中に《真地萬治》の四文字が残っている。
佐伯の口元から笑いが消えた。
墓地の奥には、細い木札がいくつも地面へ刺されていた。杉の根元や斜面の端、笹の間にも同じような札があり、そのどれにも同じ四文字が書かれている。
【真地萬治】
佐伯は顔を上げ、墓地の向こうに続く山の斜面へ目をやった。
木々の間に、細長いものがいくつも見える。
初めは折れた枝か、立ち枯れた細い木だと思ったが、目を凝らしているうちに、それらがどれも地面からまっすぐに立っていることに気づく。
木札だった。
墓地の中にあるものと同じ札が、斜面一帯に、びっしりと並んでいた。
佐伯はその場に立ったまま、さっきまでの会話を思い出した。
《東京から来たのか、真地萬治》
さっきまで「まじ卍」としか聞こえていなかった声が、不意にそう聞こえた。
続いて、老婆の声まで蘇る。
《暗くなる前には戻ってきなよ、真地萬治》
背中のあたりが、じわりと冷えていく。
あの時は、妙なところで古い流行語を使う人たちだと思っていたし、それを少し面白がってさえいた。
けれど、目の前には《真地萬治》と刻まれた墓がいくつもあり、その名を書いた札が墓地の外にまで続いている。
さっきまで気さくで親切だと思っていた村人たちの笑顔まで、気味が悪く感じてきた。
東京から来たこと、一人で来たこと、どこに泊まるのかは聞かれたが、そういえば、名前だけは誰にも聞かれていない。
当たり前のことかもしれない……普通の会話なら。しかし、真地萬治の文字を見てからは、違う理由を探してしまう。
真地萬治とは誰なのか。
なぜ同じ名前の墓がいくつもあり、墓でもない木札にまで同じ名が書かれているのか。
何より、どうして初めて会った自分に向かって、村人たちはあの音を繰り返していたのか。
考えても、何一つ分からない。
佐伯はもう一度、最初に見つけた墓石を見た。
しばらく黙って見つめたあと、佐伯は堪えきれなくなったように呟いた。
「意味わかんねえよ……真地萬治……」




