頼まれごと
夏休みに入って数日が過ぎたころ、涼介は母から菓子折りを1つ預かった。
「これ、坂の上の佐々木さんに持っていって。青い屋根の家、分かるでしょう」
昼食の支度をしながら言われ、涼介は冷蔵庫から麦茶を出しつつ、適当に返事をする。
実家があるのは、市街地の外れにある小さな住宅地だった。
昭和の終わりごろから少しずつ宅地が増えた一帯で、新しい住宅の間に昔からの大きな家や畑が残り、近年は高齢者だけになった家や空き家も目立つようになっている。
高校までここで暮らしていた涼介でも、どの家に誰が住んでいるのかまで全てを把握しているわけではなく、大学へ進学して実家を離れてからは、近所を歩くこと自体が少なくなっていた。
それでも、佐々木という名字には聞き覚えがある。
菓子折りを持って坂を上がっていくと、道路から少し奥まったところに古い家があった。
石造りの門柱の向こうに庭があり、枝を広げた庭木に隠れて屋根はほとんど見えない。
門柱の脇には古い表札が残っており、《佐々木》と読めた。
玄関の引き戸も開いている。
中から何人もの話し声が聞こえ、上がり框には革靴やパンプス、年寄りが履くような軽い靴まで、かなりの数が並んでいた。
「すみません」
玄関から声をかけると、ほどなくして50代くらいの女性が出てきた。黒いワンピースに薄手のカーディガンを羽織っており、涼介の顔を見るなり嬉しそうに目を細める。
「あら、涼介君」
いきなり名前を呼ばれ、涼介の方が戸惑った。
「はい」
「まあ、大きくなったねえ」
その言い方には、本当に何年かぶりに会った相手を懐かしむような響きがある。
こういうことは地元にいると時々あった。
こちらは覚えていなくても、親の知り合いや近所の年配者が幼いころの自分を知っていることは珍しくない。
「大学、休みなの?」
「はい。今ちょっと帰ってきてて」
「そう。お母さんも元気?」
「元気です。あ、これ、母から」
預かっていた菓子折りを差し出すと、女性は「あら、わざわざ」と受け取った。
家の中には線香の匂いが残っている。
「今日、法事ですか?」
「文雄さんの13回忌。今、お寺から戻ってきたところなの」
「あ、そうなんですか」
そんな日に来てしまったのなら、長居をしない方がいい。
「じゃあ、俺はこれで」
「何言ってるの。せっかく来たんだから、少し上がっていきなさいよ。これからみんなで食べるところだから」
「いや、俺は届けに来ただけなんで」
「お昼まだでしょう?」
断ろうとしているうちに、座敷の方からも声が飛んできた。
「あれ、涼介じゃないか」
「こっち来なよ」
「久しぶりだなあ」
誰なのか分からない。それでも自分の名前を知っている人ばかりなので、帰るに帰れなくなり、涼介は靴を脱いだ。
廊下へ上がると線香の残り香が少し濃くなり、開け放された襖の向こうでは10人余りの男女が2つの座卓を囲んでいる。
年配者が多いものの、40代ほどの男女や、涼介とそれほど年齢の変わらなそうな者も混じっていた。
皆、黒や紺、灰色を基調にした落ち着いた服装で、それぞれの前には仕出しの膳が用意されている。
「ああ、本当に涼介だ」
「大きくなったなあ」
「大学生なんでしょう?」
顔を見回しても、知っている人は1人もいない。
それなのに、向こうは誰1人として涼介を知らない様子を見せなかった。
「そこ空いてるから」
白髪の男性が指したところに座布団が1枚あり、その前にも他の人たちと同じ膳が置かれ、箸も湯呑みも揃っている。
少し引っかかったものの、急に来られなくなった人の分かもしれないし、法事なら料理を余分に用意することもあるのだろう。そう考えて座ると、すぐに周囲から声がかかった。
「大学はもう2年?」
「はい」
「早いもんだねえ」
「お兄さんはまだ仙台にいるの?」
「いますよ」
大学のことも、兄のことも合っている。
実家を出た時期まで知っている者がいたが、その程度なら母や近所の人から聞いた話として説明できなくもない。
何より、皆の接し方があまりにも自然だった。
知らない若者の身元を確かめようとしているのではなく、昔から知っている子供が久しぶりに帰ってきたので、その後の暮らしを聞いている。そんな親しさがある。
「食べなさいよ。せっかくあるんだから」
隣の女性から膳を勧められた。
「いや、いいですよ」
「何を遠慮してるの」
「若いんだから食べられるでしょう」
別の人まで加わって笑うので、結局、涼介も箸を取ることになった。
刺身や煮物、焼き魚、天ぷらなどが少量ずつ入った、ごく普通の仕出し料理である。味にも特に変わったところはない。
座敷の奥には仏壇があり、供花の間に香炉や菓子、果物などが供えられている。
その中に並ぶ黒い位牌の脇へ、色の違うものが何本も置かれているのが目に入った。
白っぽい木を細長く削った札のようなもので、どれにも墨で文字が書かれている。
あれも位牌なのだろうか、と少し気にはなったが、13回忌で何をするのかもあまり知らずにいたので、そういうものなのだろうと流した。
仏壇の近くには、今日が佐々木文雄という人の13回忌だと分かるものも置かれている。
涼介には聞き覚えのない名前だった。
法要はすでに寺で終わっているらしく、座敷では普通の世間話が続いている。ただ、しばらくいるうちに、話題が妙に自分へ戻ってくることが気になり始めた。
大学はどうなのか、地元へ戻るつもりはあるのか、夏休みはいつまでなのか。誰かが別の話を始めても、そのうちまた別の誰かが涼介へ話しかけてくる。
皆が、自分のことを知りたがっているようだった。
「もう食べないの?」
向かいの老婆に言われ、涼介は自分の膳を見る。
「結構食べたんで」
「それだけ?」
「昼からそんなに入らないですよ」
「もっと食べると思ったのに」
老婆は本当に残念そうな顔をしている。
そのとき、周囲の膳がほとんど減っていないことに気づいた。
箸を手にしている者はいるし、湯呑みに触れる者もいる。それでも刺身や煮物はきれいな形を保ったままで、天ぷらにもほとんど手がついていない。
自分が来る前に食べ終えていたのなら分かるが、その割には料理が残りすぎている。
「これも食べる?」
隣の女性が、自分の膳を少し涼介の方へ寄せてきた。
「いや、もう大丈夫です」
「そう?」
女性はすぐに引っ込め、また穏やかに笑う。
それまで普通に座っていたはずなのに、一度気になると、周囲の様子が少しずつ居心地の悪いものに変わっていった。
そんな中で、隣の女性が何気なく言う。
「大学は、もう辞めようとは思ってないの?」
涼介は女性を見た。
「え?」
「せっかく2年まで行ったんだから、もう少し続ければいいじゃない」
2か月ほど前、一度だけ大学を辞めようと思ったことがある。
夜中に退学届を印刷し、自分の名前まで書いたものの、翌朝には気が変わって細かく破いて捨てた。そのことは、母にも兄にも、大学の友人にも話していない。
「……何で知ってるんですか」
女性は、問い返されたことの方を不思議に思っているようだった。
「名前まで書いたけど、捨てたんでしょう?」
それまでと同じ声である。
「だったら、もう少し続けてみたらいいよ。まだ2年なんだし」
向かいの男性も穏やかに頷く。
「嫌になったら、そのときまた考えればいいさ」
誰もこちらを睨んでいるわけではないし、笑顔が消えたわけでもない。それでも、もう「自分が忘れている近所の人たち」では説明できなかった。
涼介は箸を置いた。
「すみません。そろそろ帰ります」
「あら、もう?」
「母も待ってるんで」
「そうね。じゃあ、これ持っていって」
最初の女性から紙袋を渡された。
「いや、いいですよ」
「せっかく来てくれたんだから。お母さんと食べて」
これ以上ここにいる方が嫌だったので、そのまま受け取る。
玄関で靴を履いていると、何人かが座敷から見送りに出てきた。
「じゃあ、あとは頼むな」
白髪の男性が言う。
「何をですか?」
「次のとき」
男性はそれ以上説明せず、穏やかに笑っている。
「私のもお願いね」
隣の女性も続けた。
「俺のも頼むよ」
さらに奥から、
「みんなの分もあるからね」
という声が聞こえる。
涼介には何のことか分からなかったが、彼らは冗談を言っているようにも見えない。
「じゃあ、お母さんにもよろしく」
「気をつけて帰ってね」
最後まで、誰もが親しげだった。
涼介は頭を下げて外へ出た。
道路から振り返ると、玄関先にはまだ何人かが残っている。最初の女性が小さく手を振り、その周りの人たちも笑っていた。
*
「佐々木さん、いた?」
家へ戻ると、母は居間で洗濯物を畳んでいた。
「いたけど、法事だったよ。13回忌」
「法事?」
「うん。お寺から戻ってきたところだったみたい」
母の手が止まる。
「どこの家に行ったの?」
「坂の途中。石の門がある、でかい家」
「そこじゃないよ」
「え?」
「佐々木さんはもっと上。青い屋根の家って言ったでしょう」
そこで涼介は、出かける前に言われたことを思い出した。
「でも、あそこも佐々木って表札だったよ」
「ああ、あの古い家?」
「たぶん」
「そこ、ずっと空き家だよ」
涼介は母を見る。
「いや、人いたよ。10人以上。俺、中で飯まで食ったんだけど」
「そんなわけないでしょう」
「本当だって。文雄さんって人の13回忌だって言ってた」
「文雄さん?」
「佐々木文雄。知らない?」
「知らないよ、そんな人」
母の顔にも、少しずつ戸惑いが出てくる。
「仏壇もあったよ。黒い位牌と、白い木のやつが何本も並んでた」
「白い木?」
「細長くて、字が書いてあるやつ」
「それ、白木位牌じゃない?」
「何それ」
「亡くなってすぐの人に使う位牌だよ。普通は四十九日までとか。13回忌で何本も並べるものじゃないと思うけど」
涼介は、あの家を出るときに渡された紙袋を開けた。
中には菓子と茶、白いタオル、それに白い封筒が1つ入っている。封筒から出てきたのは、同じ様式で作られた12枚の紙だった。
それぞれ違う姓名が記され、その下には少し大きな文字で、
《三回忌法要》
とある。
法要の日付は12枚とも同じで、2年後の夏。
さらに死亡年月日を見ると、12人全員が3週間ほど前の同じ日に亡くなったことになっている。
涼介の手が止まった。
紙の下部には《施主》という欄がある。
そこに書かれていたのは、
《藤田涼介》
自分の名前だった。
残りの紙を確かめても、施主の欄だけは1枚も変わらない。
「……なんで俺の名前が書かれてるんだよ」
自分も知らない、母も知らない人たち。
誰も住んでいないはずの家で行われていた法事。
涼介は、昼間の玄関先に並んでいた人たちの顔を思い出した。
あのときは、ただ親しげに笑っているだけだと思っていた。
けれど今思い返すと、どの顔もどこかほっとしていたように見える。ようやく誰かに任せられた、とでもいうように。
その笑顔が、妙に気味悪く思えた。
俺は、あの人たちから一体何を任されたんだろう……。
お読みいただきありがとうございます。
気づけばもう8月も終わり、9月になりますね。
8月は自分なりに「できるだけ毎日投稿してみよう」と挑戦していました。
ランキング入りや、Xなどでご感想をいただけた嬉しさに小躍りしつつ、構成や表現に頭を抱えつつ……18話まで続けることができました(お恥ずかしいクオリティかもしれませんが……)。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
9月以降は少し投稿ペースが落ちるかもしれませんが、まだ書いてみたい話はたくさんあるので、これからも続けていきたいと思っています。
もし楽しんでいただけましたら、評価やブックマーク、感想などいただけるととても嬉しいです。
これからも、どうぞよろしくお願いします。




