閉まっている書店【大学生視点】
向かいにある古い書店は、俺がこの部屋へ越してきてから一度も開いたことがない。
大学に入った年から住んでいるので、もう1年半くらいになる。
正面にはいつも大きなシャッターが下りていて、色の抜けた看板だけが昔のまま残っている。
いつ閉店したのかも、誰が持っている建物なのかも知らない。自分の部屋の窓から見えるというだけで、普段は特に気にするような場所でもなかった。
ただ、一度だけ変なものを見たことがある。
夜にカーテンを閉めようとして向かいを見たとき、書店の2階にある小さな窓のところに、白いものが見えた。
最初はカーテンか何かだと思ったが、目を凝らしているうちに、人の手のようにも見えてきた。
窓の内側に白い手だけが浮いているようで、その奥に顔や身体らしいものは見えない。
気味が悪くなり、その日はすぐにカーテンを閉めた。
翌日の昼には何も見えなかったので、見間違いだったことにして、それからは夜になるとあの窓をなるべく見ないようにしていた。
*
その日の夜、書店の方から大きな音が聞こえてきた。
最初は道路で何かを落としたのかと思ったが、少し間を置いて、また同じ音がする。
ドン、ドン、ドン。
気になって窓際まで行き、カーテンの隙間から外を見ると、書店のシャッターの前に作業服を着た若い男がいた。
何度もシャッターを叩き、ときどき道路側を振り返りながら何か叫んでいる。
最初は喧嘩かと思ったものの、男が振り返る先には相手らしい人間が見当たらない。
少し迷ってから窓を開けると、それまでガラス越しだった声が急にはっきりした。
「開けろよおおっ!」
作業服の男は、ほとんど叫ぶようにシャッターを叩いている。中からも誰かが返事をしているようだったが、こちらの声は小さく、全部までは聞き取れなかった。
しばらく見ていると、作業服の男がまた道路側を向く。
「やめろ……! 後ろから首のあたりって、なんの話だよ……」
俺も同じ方向へ目を向けたが、そこには誰もいない。
それでも男は、見えない誰かの言葉に返しているようだった。「膝ついたら」とか「力が抜けるまで」とか、聞いているだけで嫌な感じのする言葉が、ときどき叫び声の中に混ざってくる。
独り言には見えなかった。
何かを聞かされ、それに怯えながら言い返しているようにしか思えない。
「やめろって言ってるだろ!」
さらに大きくなった声には、怒りよりも追い詰められた感じがあった。
もう一度そちらを確かめても、街灯に照らされた道路と閉まった店があるだけで、人影らしいものはどこにも見えない。
やがて作業服の男はシャッターの下へ両手を差し込み、腰を落として持ち上げようとし始めた。
最初はほとんど動かなかったが、何度か力を入れるうちにようやく隙間ができ、そこから少しずつ上がっていく。それでも2階から見て分かるほど腕が震えていて、かなり重そうだった。
ところが、ある高さを越えたあたりから、シャッターの動きが急に変わる。
さっきまで少しずつしか上がらなかったものが、急に滑らかになったので、中にいる人が手伝い始めたのだと思った。
上がっていくシャッターの下から、店内の様子が少しずつ見えてくる。
作業灯のそばには男が一人いるものの、シャッターからは離れていて、手をかけている様子もない。
それなのに、内側からシャッターを支えている手があった。
白い両手だった。
外の作業服の男が押し上げる動きに合わせて、内側の両手も同じ速度でゆっくり上へ移っていく。
その手を見ているうちに、前に一度だけ見たものを思い出した。
あの手だった。
書店の2階にある小さな窓。
その内側に、手だけが浮いているように見えた、あの白い手。
シャッターがさらに上がるにつれ、白い手首の先から細い腕が現れ、その奥には長い髪が垂れている。肩から身体まで見えるようになったところで、それが人の形をしていることがはっきりした。
女だった。
長い髪の女がシャッターのすぐ内側に立ち、外の作業服の男と一緒に両腕を上げている。
髪に隠れて、顔のほとんどは見えない。
作業服の男との距離はほとんどなかった。
開いたシャッターを挟んですぐ目の前にいるのに、男は一度も女へ視線を向けず、まるでそこには誰もいないように店内の男ばかりを見ている。
中にいる男も同じで、自分のすぐ近くに女がいることなど気づいていないようだった。
やがてシャッターが上まで収まると、作業服の男が腕を下ろすのに合わせるように、女もゆっくり両手を離した。
「あ……はは……」
外から笑い声が聞こえる。
「はは……開いた……」
少し前まであれほど怯えていた作業服の男が、今度は笑っている。
店内の男は少し後ろへ下がったものの、作業服の男は中へ入らず、開いたシャッターのすぐ外で向き合ったままだった。
「開けてくれたね……」
中の男から返事はない。
その間に女はシャッターから数歩下がり、そのまま店内の男へ近づいていく。作業服の男とは開いた入口を挟んですぐ近くにいるのに、その視線は女を素通りして、正面にいる男だけへ向いていた。
女は店内の男の背後へ回り込み、すぐ後ろまで近づいても、男が振り返る様子はない。
やがて身体をぴったりと背中へ重ね、両腕を肩の上から前へ回していく。
その格好は後ろから抱きついているというより、男におぶさっているように見えた。
肩口には女の顔があり、長い髪が首や胸元へ垂れている。それでも男は目の前の作業服の男を見たままで、作業服の男にも女は見えていないらしい。
二人とも、すぐそこにいる女だけが存在していないように見えた。
俺は窓から離れたかったが、ここまで見てしまうと、逆に目を逸らすのが怖くなっていた。
作業服の男が、また道路側へ顔を向ける。
さっきから何度も見ていたのと同じ方向だった。
俺もつられて、もう一度そこを見る。
今度は、人がいる。
作業服の男のすぐ背後、道路側に、灰色っぽい上着を着た男が立っていた。
さっきまで同じ場所を何度見ても誰もいなかったはずなのに、今は作業服の男の背後にぴったり近い位置で立っている。
いつからそこにいたのかは分からない。もしかしたら、さっきからずっとそこにいたのかもしれないと思うと、窓を開けたまま見ていたことが急に怖くなった。
書店の中には一人の男がいて、その背中には長い髪の女がしがみついている。開いたシャッターの外には作業服の男、そのすぐ後ろには灰色の男。
『俺だけが、全部を見ている……?』
そう思った瞬間、店内の男がふいに顔を上げ、その視線がまっすぐ2階の俺の部屋へ向いた。
ほとんど同時に、シャッターの外にいる作業服の男もこちらを見る。
背後に立つ灰色の男も同じ方向へ顔を向け、最後に、店内の男へしがみついている女まで肩口からゆっくり顔を上げた。
長い髪の隙間から覗く顔も、まっすぐこちらを向いている。
4人とも、黙ったまま俺を見ていた。
その姿勢のまま、4人がほとんど同時に片手を上げた。
店内の男も、作業服の男も、灰色の男も。
男の背中にしがみついた女も、片腕をその肩から離している。
4つの手が同じようにこちらへ向き、指先が一斉にゆっくり曲がった。
そして伸びる。
また、一斉に曲がる。
おいで、おいで…とするように…
4人とも、こっちをみながら同じ動きをしていた。




