閉まっている書店【通行人視点】
その男を最初に見たのは、仕事を終えて家まで歩いて帰る途中のことだった。
俺は内装工事の仕事をしていて、その日も市内の店舗改修に入っており、作業が終わったのは午後8時を少し過ぎたころ……現場から家までは歩いて帰れるくらいの距離だったため、着替えるのも面倒だったので、そのまま作業服で帰ることにした。
いつもなら大きな道路を通って帰るのだが、その日は急いでもいなかったので、普段とは違う方へ入った。
古い商店と住宅、それに新しいアパートが混じっている通りで、閉まっている店も多かったが、少し先にはまだ明かりのついた飲食店も見えている。
仕事が終わった解放感もあって、最初は閉まった店の看板なんかを眺めながら、のんびり歩いていたと思う。
その道の少し先に、男が立っていた。
年齢はよく分からない。
俺よりは上に見えたし、灰色っぽい上着を着ていたことは覚えているが、最初はそれくらいしか気にしていなかった。
ただ、道の端に立ったまま何か喋っている。電話をしているようには見えず、周りに話し相手らしい人もいない。
『人って、最後の方でもけっこう普通のこと考えるらしいよ』
近くを通ったとき、そんな言葉が聞こえた。
酔っ払いか何かだと思って、そのまま通り過ぎる。
男は俺に声をかけてくるわけでもなく、後ろからまだ同じ調子で喋り続けていた。
『明日の朝、何時に起きるとか。冷蔵庫に何が残ってるとか。もうそんなこと考えても仕方ないのに、そういうのは最後まで頭に残るんだって』
何の話だろうとは思ったが、そのときは振り返らなかった。
それから少し歩いて、次の角を曲がる。
十数メートルほど先の道路脇に、さっきの男が立っていた。思わず足が止まる。
あの男の横を通り過ぎてから、俺は一度も立ち止まっていない。追い越された覚えもないのに、男は俺より先にそこへ来て、こちらを見ていた。
『倒れるときって、痛いところより、どうでもいいところの方が気になることもあるんだって』
意味が分からない。
俺は来た道を少し戻り、別の道へ入った。
偶然だと思いたかったが、さっきまで後ろにいた人間が先に立っていることがどうしても気味悪く、歩く速度も自然と速くなっていく。
細い住宅街を抜けて、少し広い道路へ出ようとしたところで、また男を見つける。
今度は道路の向こう側にいた。
『後ろから首のあたりを押さえられると、最初は何が起きたか分からないんだって』
背中がぞっとして、俺はそのまま道を変えた。
そこからは、どこをどう通ったのか、途中からかなり曖昧になっている。
あの男から離れようとして道を変えるのに、次の角を曲がった先や、渡ろうとした道路の向こうに、また同じ男がいる。
走って追い越してくるところを見たことはないし、後ろから足音が近づいてきた覚えもない。
それなのに、進もうとした先にはいつもあの男がいた。
何度目かにその姿を見つけたところで、とうとう歩いてはいられなくなる。大きな道路へ出れば人もいると思い、俺はそちらへ向かって走った。
ところが、その先にも男が立っている。
「なんなんだよ……!」
自分でも驚くくらい声が大きくなった。
「なんで、ずっといるんだよ!」
男は答えない。
俺の方を見たまま、また何事もなかったように話し始める。
『膝をついたら、そのままにしておくんだって。無理に起こさなくていいらしいよ』
「……なんなんだよ」
叫んでも、男の表情は変わらない。
『最初はまだ身体に力が入ってるけど、しばらくすると抜けてくるから。そこまで待ってればいいんだって』
「何の話をしてんだよ……!」
俺は手前の道へ逃げ込んだ。
そこからは、もう家へ帰る道を選んでいたわけではない。男が見えたら反対へ曲がり、声が近くなれば別の道へ入り、とにかくそいつから離れることだけを考えて走る。
それでも離れられなかった。
少し走ってから振り返ると、さっきまで誰もいなかった場所に男が立っている。前へ向き直ったとき、次に進もうとしていた道の先に姿が見えることもあった。
「なんで、ずっといるんだよ……」
返事はない。
どうやって移動しているのか分からないまま走り続けているうちに、足はかなり重くなってきた。
息も苦しくなってくるが、立ち止まったら何をされるのか分からず、走るのをやめられない。
また、後ろから声が聞こえた。
今度はかなり近い。
「やめろ……!」
振り返る余裕もなく、そのまま角を曲がる。
どこを走っているのかも、もう考えていなかった。
男の姿が見えれば別の方へ逃げ、声がすればそこから離れる。それを繰り返しているうちに、気づけば古い商店が並ぶ通りを走っている。
閉まった店の前をいくつも通り過ぎたところで、少し先に大きなシャッターが見えた。
その下から、細く明かりが漏れている。
もう無我夢中だった。
俺はそのシャッターの前まで走り寄り、両手で思いきり叩く。
ドン、ドン、ドン。
「……開けろ……!」
息が上がっていて、声が掠れていた。
すぐには返事がない。
後ろから、またあの男の声が聞こえてくる。
「開けろよ……早く……!」
今度はさっきより強くシャッターを叩いた。
「何ですか」
ようやく中から男の声がする。
人がいる。
それだけで少し息が戻った。
「ここ、もう書店じゃないですよ」
「いいから開けろ!」
「無理です…やめてください…」
中から返ってきた声には、はっきり怯えた感じが混じっている。
「開けろって!」
俺はもう一度シャッターを叩いた。
すぐ後ろでは、あの男が相変わらず俺を見ながら、淡々と喋り続けている。
『後ろから首のあたりを押さえるとね、膝から落ちる人が多いんだって』
「やめろ……! 後ろから首のあたりって、何の話だよ……」
そう怒鳴り返してから、またシャッターを叩く。
『膝ついたら、そのままでいいんだよ。起こさなくていいから。力が抜けるまで』
「意味わかんねえよ……膝ついたらそのまま? 力が抜けるまで? 何を話してんだよ!」
中から何か言われたが、ほとんど頭には入ってこない。
俺は後ろの男に怒鳴りながら、またシャッターを叩いた。中にいる人からすれば、俺が一人でそんなことを口走っているように聞こえていたのかもしれないが、そのときは説明している余裕なんてなかった。
「開けろよおおっ!」
後ろではまだ声が続いている。
『倒れたら、顔は下に向けておいた方がいいんだって。その方が静かだから』
「倒れたら顔を下にしたら……? 静か? だから何なんだよ……何がいいんだよ……!」
「……やめてください……」
中の男の声がさらに小さくなっていく。
それでも俺はシャッターを叩くのをやめられない。すぐ後ろではあの男が俺を見ながら喋り続け、中にいる人には開けてもらえない。
逃げる場所がなくなったような気がしてきた。
『声が出てるうちは、まだ身体に力が残ってるんだって』
「声が出なくなったらどうなるんだよ……」
『そうしたら、もう動かないから』
「もう動かないからって……嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
頭がおかしくなりそうになる。
中からも、また何か言われた。
「何なんですか、本当に……」
俺は構わずシャッターを叩く。
「開けろ!」
「やめてくださいって!」
その声を聞いた直後、すぐ後ろからまた男の声がした。
「やめろって言ってるだろ!」
とうとう我慢できず、俺はそいつに向かって怒鳴る。
こっちはずっと逃げているのに、そいつは走りもしないで何度も俺の前に現れる。それなのに、どうでもいい世間話でもするような口調で、こんな話を延々と続けている。
男は怒鳴られても何も答えない。
もうそいつの顔を見るのも嫌になり、俺はシャッターへ向き直った。
「開けろよおおっ!」
返事を待つ余裕もなく、シャッターの下へ指をかける。
最初はほとんど指が入らなかった。爪を擦りながら無理やり隙間を作り、両手を差し込んで持ち上げると、シャッターが少しだけ動く。
そこから急に重くなった。
腰を落として力を入れても、なかなか上がらない。腕が震え始めても手を離さず、少しずつ押し上げていく。
後ろからは、まだ男の声が聞こえている。
両腕にありったけの力を込めた。すると、さっきまであれほど重かったシャッターが、途中から突然ふっと軽くなる。
「……え」
誰かが反対側から一緒に持ち上げてくれたような感覚だった。
手を止めず、そのまま押し上げていく。
ガラガラガラッ、と大きな音を立てながらシャッターは一気に上がり、俺は最後まで両腕を伸ばして、完全に上まで持ち上げた。
閉ざされていた店の中が見える。
作業灯の近くには、俺より少し年上に見える男が立っていた。何が起きたのか分からないような顔で、こっちを見ている。
ようやく人のいるところまで来られたと思った瞬間、それまで張りつめていたものが一気に緩んでいく。
腕も脚もまだ震えていたし、目の奥も熱かったのに、もう逃げなくていいかもしれないと思うと、なぜか口元が緩んだ。
「あ……はは……」
自分でも変な声だと思う。
「はは……開いた……」
俺は店の中には入らず、シャッターのすぐ外に立ったまま、乱れた息を整えようとする。
中にいた男が少し後ろへ下がった。
たぶん、そのときの俺はかなりおかしな顔をしていたと思う。
ずっと怖くて仕方がなかったのに、助かったと思った瞬間、うまく表情を戻せなくなっている。
途中からシャッターが急に軽くなったことを思い出して、俺は目の前の男を見る。
「開けてくれたね……」
中から手伝ってくれたのだと思っていたが、男は何も答えない。
ただ、なぜか俺の方を見ながら、ひどく怯えた顔で震えていた。




