閉まっている書店【不動産屋視点】
その元書店の鍵を渡されたのは、午後3時を少し回ったころだったと思う。
俺は市内の不動産会社で働いていて、その日も朝から、管理している物件を見に行ったり、客を案内したりしていた。午後にも部屋の案内と退去の立ち会いが残っていたから、上司が俺の机に鍵とクリアファイルを置いた時点で、正直、また仕事が増えたなと思った。
「これ、今日見てきてくれる?」
渡された資料には、以前は個人経営の書店だったことと、もう3年以上空いたままになっていること、それから最近になって管理がうちの会社へ回ってきたことが書かれている。
「今日ですか」
「明日の朝までに一回まとめたいんだって。中の状態と残置物を見て、写真撮ってきて」
「このあと案内と立ち会いありますけど」
「終わってからでいいよ」
終わってからなら普通に夜になるんだけど、とは思ったが、そこで何か言ったところで上司が代わりに行くわけでもないので、結局「分かりました」と答えて鍵を鞄に入れた。
そこからも案の定、予定通りには進まず、部屋の案内が長引き、退去の立ち会いでは返却されるはずの鍵が1本足りなかったり、引っ越し業者が遅れたりとトラブルも続き、元書店へ着いたのは午後9時を少し回った時間だった頃に……
「意外と場所いいな」
車を降りて、最初にそう思った。
古い店舗ばかりが並んでいる場所ではなく、住宅や新しめのアパートも混じっている。
少し離れた飲食店にはまだ明かりがついていて、駅からもそれほど遠くない。この場所で3年以上決まっていないというのは、少し不思議だった。
建物自体は古かったが、正面には大きなシャッターが下り、その上には色の抜けた書店の看板がまだ残っている。俺は建物の脇へ回り、管理用の出入口から中へ入った。
照明は使えなかったので、持ってきた作業灯を点ける。
「うわ……」
思っていたより物が残っている。
本棚のような大きな什器はほとんど撤去されていたものの、潰れかけた段ボールや棚板、古い販促物、書店名の入った紙袋などが店内のあちこちに残されている。床の隅には雑誌も何冊か落ちていて、きれいに片付けて退去したようには見えない。
「これじゃ、そのまま貸せないな」
3年以上空いている理由も、少し分かった気がした。
スマホを出して、入口周辺から順番に写真を撮っていった。壁や床の傷み、残されている段ボールや備品を確認し、箱も中身が見えるものだけ軽く覗いて、あとで何が残されていたか説明できる程度に記録しておく。
奥を確認しているころには、だんだん身体がだるくなってきた。朝からほとんど休まず動いていたので、単純に疲れているだけだと思った。
「あー、めんどくせ」
ここ最近はずっとこんな調子で、予定外の仕事を回されることも多く、さすがに疲れは溜まっているのかも知れない。
ただ何度か転職して、今の会社に入ったのは28のときであり、もう30も近いし、また一から仕事を探すことを考えると、多少きつくても簡単には辞められない。
「さっさと終わらせて、もう帰ろう。明日なんか言われても、もう知らんわ」
愚痴を漏らしながら一通り確認を終え、最後に正面側を何枚か撮ったら帰ろうとスマホを構え時……
シャッターが突然鳴った。
ドン、ドン、ドン。
かなり大きな音だった。一瞬、外で何かがぶつかったのかと思ったが、少し間を置いて、今度はさらに強く叩かれいる。
ドン、ドン、ドン、ドン。
正面はシャッターで完全に塞がれているので、こちらから外を見ることはできない。向こうに何人いるのかも、どんな人間なのかも分からないまま、そのシャッター越しに若い男らしい声がした。
「……開けろ……!」
かなり息を切らしているらしく、声が掠れていた。
俺はシャッターへ近づかず、その場から返した。
「なんですか」
「開けろよ……早く……!」
「ここ、もう書店じゃないですよ」
「いいから開けろ!」
またシャッターが大きく鳴る。
閉店して3年以上経っている書店に、夜の9時を過ぎてから知らない男が来て、いきなり「開けろ」と言いながらシャッターを叩いている…気味が悪い。
「無理です…やめてください…」
「開けろって!」
男はそのあとも何か喋っており、シャッター越しなので全部は聞き取れなかったが、しばらくして、「……後ろから……首のあたり……」という声が聞こえた。
「なんですか」
答えはなく、そのまま何か長く続いたあと、「……膝ついたら……そのまま……」「……力、抜けるまで……」と聞こえてきた。
「……なに言ってるんですか」
自分でも、さっきより声が小さくなっていたと思う。
男は構わずシャッターを激しく叩き、「開けろ、早く開けろよ」とさらに声を荒らした。
俺が反射的に一歩下がると、その向こうではまだ何か喋っていて、今度は「……倒れたら……顔、下にして……」と聞こえた。
「やめてください……」
全部を聞き取ったわけではない。それでも、人を押さえつけるような話をしていることだけは分かった。
しかも、その男が今、シャッター1枚を挟んだ向こうで中へ入れろと叫んでいる。
「開けろよおおっ!」
「無理です……」
大きな音がして、金属板が揺れた。
叫ぶ合間にも男は喋り続けていて、ときどき声が遠くなり、また近づいてくる。その中から「……声、出なくなったら……」という言葉が聞こえ、少しして「……もう動かないから……」と続いた。
「なんなんですか、本当に……」
最初は酔っ払いか、何かで興奮している人間なのかと思っていたが、ここまで聞くと、ただ騒いでいるだけの男とは思えなかった。
またシャッターが鳴り、「開けろ!」と叫ばれたので、俺も思わず「やめてくださいって!」と声を荒らげた。
その直後だった。
「やめろって言ってるだろ!」
男が突然、ものすごい声で怒鳴った。
俺はそこで黙った。
さっきまで俺に向かって叫んでいた声とは、少し向きが違ったような気がした。誰に言ったのかと思ったが、外の様子は見えない。
数秒ほど何も聞こえなくなり、このままいなくなってくれればと思ったものの、すぐにシャッターがまた激しく鳴った。
「開けろよおおっ!」
もう怒鳴っているというより、ほとんど絶叫に近い声が聞こえてくる…。
何度も叩かれ、金属板全体が細かく震え、それでも開けるつもりはなかったし、むしろ、さっきより絶対に開けたくなくなっていた。
ところが、そのあと音が変わった。
シャッターを叩く音ではなく、下の方で金属を引っかくような音がした。ガッ、ガッ、と何度か続いたので、「なにしてるんですか」と声をかけたが、返事は返ってこない。
また音がして、次の瞬間、シャッターの下端がわずかに浮いいるのが見えた。
「え……」
できた隙間に、外から数本の指がかかった。
「ちょっと、やめてください!」
今度は本気で声が出た。
下まできちんと閉まっていた古びた大きなシャッターは、外から指をかけただけで簡単に持ち上がるとは思えなかったが、それでも男は無理やり引き上げようとしているらしく、金属板が激しく揺れ、わずかな隙間が少しずつ広がっていった。
「やめろって!」
止めなければと思ったが、近づけばシャッターのすぐ向こうにいる男とまともに向き合うことになる。そのことに気づいて足が止まった。
最初はほとんど動いていなかった。
それなのに、途中から急に上がり方が変わった。
ガラガラガラッ、と大きな音を立てて、シャッターが一気に上がり始めた。
「……なんで」
男は途中で手を離さず、そのまま両腕を伸ばしてシャッターを押し上げていく。やがてシャッターは上まで収まり、閉ざされていた店の正面が完全に開いた。
そこに立っていたのは、俺より少し若そうな男だった。
上下とも作業服を着ていて、服にはところどころ汚れがついている。息はひどく乱れ、目も真っ赤に充血していた。目元にはうっすら涙が滲んでいたが、泣いているというより、ひどく興奮しているように見えた。
ところが、シャッターが完全に開いたのを見ると、その顔がふっと歪んだ。
「あ……はは……」
笑った。
「はは……開いた……」
俺は何も言えなかった。
男は店の中へ入ってくることはなく、シャッターのすぐ外に立ったまま、荒い息を整えるように少し俯いた。
「ちょっと……」
俺が後ろへ下がると、男はゆっくり顔を上げた。
「開けてくれたね……」
俺は開けていない。
男は目を赤く充血させたまま、口元だけを妙に歪ませて、じっと俺を見ている。
俺はその顔から目を離すことも、そこから動くこともできなかった。




