川から流れてきたもの
「夏休み入ったら、どっか行かない?」
前期最後のゼミが終わり、和樹が机の上のノートを鞄へしまっていると、隣にいた慎吾が声をかけてきた。
「どっかって?」
「去年、先輩に連れてってもらった河原があるんだよ。バーベキューできるし、大学からそんな遠くない」
「いつ?」
「来週の水曜とか。暇じゃない?」
和樹はスマホで予定を確かめた。夏休みに入って最初の週なら、まだアルバイトの予定もそれほど入れていない。
「水曜なら空いてる。真帆たちも誘う?」
「そのつもり。里奈と圭も」
「じゃあ結局いつもの5人じゃん」
「5人くらいがちょうどいいだろ」
和樹たちが通うのは地方都市の外れにある、学年が同じなら学科が違っていても顔くらいは見たことがある規模の大学だった。
慎吾とは1年の共通科目で席が近かったことから話すようになり、同じころに真帆、里奈、圭とも仲良くなった。2年になってからは5人とも同じ少人数のゼミを取っていることもあり、講義のあとに飯へ行ったり、休みの日に誰かの車で出かけたりするのも珍しくなかった。
その日のうちにグループへ予定を送ると、全員から水曜なら大丈夫だと返事が来た。
*
夏休みに入って最初の水曜日、5人は午前中に大学近くのスーパーへ集まり、肉や野菜、飲み物などを買って慎吾の車で河原へ向かった。
大学からは1時間もかからなかった。着いたころには家族連れが何組かいて、少し離れたところでは釣りをしている人もいた。
5人は川から少し離れた場所へ荷物を広げ、炭を起こし、火が安定したところで肉を焼き始めた。
「それ違うって」
慎吾が生肉をつまんでいたトングで焼けた肉を取ろうとすると、圭が横から止める。
「何が」
「それ、生肉触ったやつ。こっち使えよ」
「もう肉焼けてんじゃん」
「焼けた肉にまたそれ使ったら、分けた意味ないだろ」
「圭って、こういうところ細かいよね」
真帆が笑うと、圭はもう一本のトングを慎吾へ押しつけながら、「慎吾が適当すぎるんだよ」と返した。
圭には普段から少しそういうところがあり、河原へ着いてすぐ、慎吾が落ちていた空き缶を靴で蹴っただけでも嫌そうな顔をしていた。食べ終わって慎吾と和樹が川へ入ったときにも誘われたが、自分まで靴を脱ごうとはしなかった。
慎吾が苔のついた石で足を滑らせ、膝まで水に浸かる。真帆は助けるより先に岸からスマホを向け、里奈も声を上げて笑った。
「写真撮る前に助けろよ」
「普通に立ててるじゃん」
「友達が転んだんだけど」
「転んだだけでしょ」
里奈もそのあと浅瀬まで入ってきたものの、水が冷たいと言ってすぐ岸へ戻った。圭だけは最後まで靴を脱がず、濡れた慎吾が近づけば、少し嫌そうに距離を取っている。
そんなふうに、5人は午後までだらだらと過ごした。
午後4時を回るころには、周囲にいた家族連れや釣り人の姿もいつの間にかなくなっていた。5人も残っていたものを食べきり、炭へ水をかけながら、少しずつ片付けに取りかかる。
和樹と慎吾が網を洗い、圭がゴミをまとめていると、真帆が川の方へ顔を向けた。
「あれ、何だろ」
上流から、小さな黒っぽいものが水面を回りながら流れてきている。
やがて岸寄りへ流されたそれが少し下の石へ引っ掛かると、真帆はすぐにサンダルのまま浅瀬へ入り、拾い上げて戻ってきた。
「見て。鳥みたい」
手のひらほどの小さな木細工だった。丸い胴体に小さな頭と嘴があり、全体に黒ずんではいるものの、背中には青や緑の色がわずかに残っている。
「汚くない?」
里奈が覗き込むと、真帆は笑いながら川の水で泥を落とした。
「でも、かわいくない?」
「それ持って帰るの?」
「ちょっと欲しいかも」
真帆はもともと、古道具屋や雑貨店で少し変わった置物や小物を見つけると気に入ることがあった。以前も何に使うのか分からない古い木彫りを買っていたので、和樹もそのときは、また真帆らしいものを拾ったくらいにしか思わなかった。
真帆は鳥をタオルの上へ置いて片付けへ戻ったが、作業の合間には何度もそこへ手を伸ばす。まだ残っている泥を爪で落としたり、丸い頭を指先で撫でたりと、気になるらしい。
「そんな気に入ったの?」
里奈に聞かれ、真帆は鳥を持ち上げて眺めた。
「なんか、さっきよりかわいく見えてきた」
「ほんとに気に入ったんだ」
里奈が笑うと、真帆も笑い返す。
そのまま慎吾が折り畳み椅子を重ね、和樹が空になった紙皿を集めていると、川際へ寄った里奈が何かに気づいて足を止めた。
「これ、櫛じゃない?」
草の根元に引っ掛かっていたのは、黒に近い赤茶色をした古い櫛だった。歯が何本か欠け、表面には小さな花のような模様が彫られている。
「え、それすごいいいじゃん」
真帆がすぐに寄ってきた。さっき拾った鳥を片手に持ったまま、里奈の手元を覗き込む。
「そう?」
「いいよ、それ。かわいい」
里奈は櫛を裏返して眺め、川の水で泥を落とすと、歯の間に残った砂を指先で払った。そのまま手に持ち、何事もなかったように片付けへ戻っていく。
「帰りコンビニ寄らない?」
鳥についた水気をタオルで拭きながら、真帆が言った。
「何買うの?」
「アイス。もう暑い」
「さっきまで川の近くいたじゃん」
「もう暑いんだって」
「慎吾が奢ってくれるならいいよ」
「なんで俺なんだよ」
慎吾が振り返り、里奈も笑う。
「じゃあ和樹」
「もっと嫌だよ」
和樹が紙皿をゴミ袋へ入れている横で、里奈は会話に混じりながら、櫛の歯に残った砂を指で取り除いていた。
「何味にする?」
「まだアイスの話してんの?」
「里奈は?」
真帆に聞かれた里奈は「チョコかな」と答えながら、肩へかかった髪を片手で後ろへよける。
そのまま、手にしていた櫛を髪へ通した。
和樹は思わず顔を上げる。
「え、それ使うの?」
里奈がこちらを見る。
「ん?」
「それ。今、川から拾ったやつだろ」
里奈は手の中の櫛へ一度だけ目を落とした。
「そうだけど」
それ以上、何が問題なのか分からないような返事だった。
和樹が何か言おうとしている間に、真帆が「チョコなら私もそれにしようかな」と話を戻す。里奈も普通に返事をしながら、もう一度同じ髪へ櫛を通した。
いつもの里奈と話し方も表情も変わらない。
だからこそ、和樹にはその手元だけが妙に見えた。
*
クーラーボックスへ残った飲み物を入れながら、和樹は何となく川上へ目を向けた。
「これ、どこから流れてきてんだろうな」
慎吾も一度そちらを見る。
「この先ほとんど山だろ。人住んでるなんて聞いたことないけど」
「だよな」
鳥だけならまだしも、そのあとに櫛まで続いたことが、和樹には少し気味悪く感じられた。
そのとき、慎吾が川の方を見た。
「またなんか来た」
今度は少し大きかった。
慎吾が浅瀬へ入り、拾い上げたのは、手のひらより一回りほど大きな木彫りだった。
人が座り、腹の前で両手を合わせているような形で、仏像に見えなくもない。ただ、顔の右半分は削り取られたように大きく窪み、肩から胸にかけては黒褐色の染みがこびりついている。
慎吾が水で流して親指で擦っても、その染みだけは木の中へ染み込んでいるように残った。
「それ、戻しとけよ」
和樹が言った。
慎吾は聞かず、濡れた木彫りを両手の中で何度かひっくり返している。
「これ、かっこいいな」
和樹には、どこを見ればそう思えるのか分からなかった。顔は半分潰れ、何のものとも分からない染みまでついている。普段の慎吾なら、自分から気持ち悪がって川へ戻しそうな見た目だった。
「俺、これにしようかな」
慎吾はそう言って、木彫りを落とさないように持ち直した。
真帆も鳥を手にしたまま近づいてくる。
「いいじゃん」
ごく普通の口調だった。
「よくそんなの触れるな」
圭は少し離れたところから、嫌そうな顔で慎吾の手元を見ていた。
里奈もそちらへ顔を向けているが、その手ではまた櫛が髪の間を動いている。
和樹はそれ以上、慎吾を止めなかった。
けれど、もう最初に鳥を見たときのようには笑えなかった。
*
片付けを続けていても、和樹は慎吾の拾った木彫りが気になっていた。
紙皿や飲み物を車へ運んで戻ると、慎吾は少し離れた平たい石の前にしゃがんでいた。
拾った木彫りを石の上へ置き、両手を合わせている。
「慎吾」
呼ぶと、何事もなかったように顔を上げた。
「何してんの?」
「別に」
それだけ答えて立ち上がり、また荷物の方へ戻ってきた。
和樹もゴミ袋の口を縛り、圭へ渡した。
真帆は鳥をタオルで包んで胸元へ寄せ、里奈は慎吾と夏休み中のバイトの話をしながら、相変わらず櫛を使っている。
やがて慎吾がまた荷物のそばからいなくなった。
今度は、さっきと同じ石の前で深く頭を下げていた。
冗談でやっている様子はなかった。
里奈の櫛には、いつの間にか髪が数本絡んでいた。歯が引っ掛かるたびに指で外しているのに、それでも使うのをやめない。
真帆も鳥をバッグへしまおうとはせず、タオルごと大切そうに両手で持っている。
さっきまで5人で進めていた片付けを、気づけば和樹と圭の二人だけが続けていた。
「……あいつら、ちょっと変じゃない?」
圭が声を落として言った。
「俺もそう思ってた」
和樹はすぐに答えた。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
少なくとも圭には同じように見えている。
そのことに、和樹は少しだけ安心した。
二人で残っていたクーラーボックスと網を持ち、車へ運んだ。
河原へ戻る途中、圭が急に足を止めた。
和樹もその視線を追った。
浅瀬の石の間に、黒く細長いものが引っ掛かっていた。
また何か流れてきたのか。
鳥や櫛、慎吾の木彫りと続いたあとだけに、和樹はすぐにはそれへ近づく気になれなかった。
ところが圭は、ためらう様子もなく川へ向かって歩き始めた。
「圭?」
返事はなかった。
圭は靴も脱がなかった。
昼間、慎吾の濡れたズボンが触れそうになっただけでも避け、川へ誘われても一度も入ろうとしなかった男が、そのまま靴を水へ沈めていった。
すぐにズボンの裾まで濡れた。
それでも圭は一度も足元を見ない。
「おい。圭、待てって」
和樹はさっきより強く呼んだ。
それでも圭は浅瀬に引っ掛かったものだけを見ながら進み、腰を屈めて、泥と水にまみれた黒い板へ素手を伸ばした。
和樹はその姿を見て、ぞっとした。
ほんの少し前まで、真帆たち3人を見て「変じゃないか」と言っていたのは圭だった。
その圭が今は、靴の中まで水に浸かりながら、川底の泥へ手を入れている。
拾い上げたものは30センチほどの黒い板だった。上部は丸く、下には台座がついている。
圭が袖で表面の泥を拭うと、黒い地の下から金色の文字が少しずつ現れた。
位牌だった。
「圭。それ置けよ」
圭は聞かなかった。
「さっき慎吾のだって、触りたくなさそうにしてただろ」
返事はない。
袖が濡れることにも構わず表面を拭き、文字の溝へ残った泥を爪で丁寧に掻き出している。
汚れを取るたびに角度を変え、顔の近くまで持ち上げて確かめるように眺めた。
「これ、いいな」
圭が小さく言った。
「何がいいんだよ」
答えはなかった。
圭は位牌を胸元へ寄せ、その黒い表面を親指でゆっくり撫でた。
「俺、これでいいわ」
慎吾が木彫りを拾ったときと似た言い方だった。
和樹は気味が悪くなり、
「ちょっと見せて」
と手を伸ばした。
その瞬間、圭は位牌を胸へ引き寄せ、両腕で覆うように抱え込んだ。
「触んな」
和樹は手を止めた。
圭は目を大きく開き、奥歯を噛みしめながら和樹を睨んでいた。目の前の人間が、本当に位牌を奪おうとしていると信じているような顔だった。
「取らねえよ」
「絶対渡さねえからな」
普段の圭からは想像できないほど強い声だった。
和樹が手を引いて一歩離れても、圭はしばらく睨んでいた。
ところが、もう近づいてこないと分かると、その表情はすぐに緩んだ。
今度は大切なものの傷でも確かめるように、位牌の表面を親指で何度も撫で始めた。
「取ろうとするなよ」
慎吾の声がした。
顔の半分が削れた木彫りを持ち、いつの間にか近くまで来ている。
「圭のだろ」
真帆も鳥を抱えたまま言った。
里奈まで、髪の絡んだ櫛を手にしたまま和樹を見ている。
「帰ろう」
和樹は残っていた荷物へ手を伸ばした。
「暗くなるし、もういいだろ」
誰も動かなかった。
4人とも、拾ったものを手にしたまま川上を見ている。
「何待ってんの?」
和樹が聞くと、真帆が顔を向けた。
「和樹のがまだだから」
「俺の?」
「うん」
「何が」
真帆はすぐには答えなかった。
答えられないことを不思議にも思っていないように、鳥を持ち直して、また川上を見る。
「まだ来てないじゃん」
里奈も小さく頷いた。
誰も、一人一つ何かを拾おうなどと言った覚えはない。
それなのに4人は、次に和樹のものが来ることだけは当然のように知っているらしかった。
「俺はいらないよ。もう帰るぞ」
「待てって」
慎吾が川を見たまま答えた。
「もう来るから」
どうして分かるのかと聞く気にはならなかった。
4人の視線の先へ、和樹も目を向けた。
川の曲がり角から、黒いものが流れてきている。
最初に見えたのは、水面から出たり沈んだりする濡れた毛だった。大きな動物の死骸でも流されたのだろうと和樹は思った。山の中なら、そういうこともあるのかもしれない。
流れに押されて身体が横を向くと、黒い毛の間から、白く膨れた腕のようなものが現れた。
その先に並んでいるものは蹄にも肉球にも見えず、人の指に近い。反対側にも脚らしいものがあるが、胴へついている位置がおかしく、折れ曲がった身体のどこまでが胴で、どこからが手足なのかうまく分からない。
それは流れの中で沈んでは浮かびながら、少しずつこちらへ近づいてくる。
もう一度身体が回り、今度は顔らしい部分が水面へ出た。
白くふやけた皮膚に目のような窪みが二つあり、その下には、口なのか傷なのか分からない黒い裂け目が横へ伸びている。
すぐにまた水へ沈み、黒い毛だけが水面に残った。
和樹は目を逸らしたかったが、4人は一言も話さず、それが近づいてくるのを見ている。
やがて河原の近くまで流れてきたそれは、浅瀬から突き出した大きな石へ、腕のような部分を引っ掛けて止まった。
「あ、来た」
真帆の声は明るい。
「和樹のだ」
里奈が笑った。
慎吾も木彫りを抱いたまま川を見ている。圭は位牌を胸へ寄せ、今度は和樹の方へ顔を向けた。
「いらない」
そう言うと、真帆が少し首を傾げる。
「持って帰りなよ」
「無理だって。俺は帰る」
和樹は荷物を持って車へ向かおうとしたが、真帆が近づいて腕を取った。
「ほら、行こう」
「行かないって」
腕を引くと、慎吾も反対側へ回って肩へ手を置く。
「みんな持って帰るんだから」
里奈もすぐそばまで来ていた。圭まで位牌を胸に抱えたまま近づき、4人は拾ったものを手放さないまま、和樹を川の方へ連れていこうとする。
「やめろって」
踏ん張ろうとしても、足元は大小の石で安定しない。真帆の手を振りほどこうとしながら後ろへ下がったところで、踵の下の石が滑り、片足が浅瀬へ入った。
冷たい水が靴の中へ一気に入り、和樹は反射的に足を引こうとする。
そのとき、すぐ近くまで流れてきていたものが、もう一度目に入った。
――でも、あれ持って帰るの、悪くないな。
和樹は自分の腕を掴んでいた真帆の手を振りほどいた。
そのまま、自分から浅瀬の奥へ歩いていった。




