案山子の村・中編
来た道を戻り始めると、集落はすでに山の影に入り始めていた。空にはまだ十分な明るさが残っているのに、家の屋根や水路からは日差しが消え、来たときよりも景色の色が冷たく見えた。
私は先ほどの縁側の家まで戻り、何となくそちらへ目を向け、そのまま通り過ぎるつもりだったのに、見た瞬間に何かが違うことに気づき、足を止めた。
縁側に、案山子がいなかった。
私は先ほどの縁側の家まで戻り、何となくそちらへ目を向け、そのまま通り過ぎるつもりだったのに、見た瞬間に何かが違うことに気づき、足を止めた。
縁側に、案山子がいなかった。
庭の植木も、縁側の柱も、屋根の形も覚えている。さっき私はこの家で人と間違えて声まで掛けかけているので、別の家だったとは考えにくかった。
「誰か、片づけたのかな……」
そう口にしてみたものの、村へ入ってから私は一人の住人とも会っていない。
私はスマホを取り出し、少し前に撮った写真まで戻った。
画面には今見ているのと同じ家が写り、その縁側には灰色のシャツを着た案山子が確かに座っている。柱の位置も庭木も同じなので、家を間違えたわけではなかった。
もう一度顔を上げても、現実の縁側には何もなかった。
それだけ確認してスマホをポケットへ戻し、少し速足になって家の前を離れると、しばらく進んだ道路脇に、白っぽい帽子を被り灰色のシャツを着た案山子が立っていた。
縁側に座っていたものによく似ていたが、写真と見比べてまで確かめたいとは思わなかった。
同じような古着を使った案山子が他にもあるのかもしれないし、怖くなったせいで似て見えているだけかもしれないと思い、そのまま先へ進んだ。
けれど、玄関前に大小二体の案山子が並んでいた家まで戻ると、大きな方はまだ玄関脇にいるのに、小さい方だけがいなくなっていた。少し先の草地には同じくらいの背丈の案山子が一体立っていて、最初は家の方を向いていたはずの身体が、今は私の帰る道の方へ向けられている。
誰かが案山子を移動させているのなら、その誰かは私が村を歩いているあいだ、ずっと近くにいたことになるし、反対に誰も動かしていないのだとしたら、それ以上は考えたくなかった。
「帰ろう。ほんとに帰ろ」
誰かと話しているつもりで口に出すと、少しだけ落ち着いた。
集落の大半はすでに山陰へ入り、空の明るさに比べると道路や家々はずいぶん暗く感じられた。
日差しがなくなったことで庭や畑に立つ案山子の輪郭もぼやけ、少し離れているだけで人間なのか案山子なのか見分けにくくなっている。
なるべく周囲を気にしないように歩いたものの、一度おかしいと思い始めると、来るときには庭の奥にいたような一体が道の近くへ出ている気もするし、田んぼに立っていたものが畦へ寄っているようにも見えてしまう。
全部の位置を覚えているわけではないので、本当に動いたのか、怖くなった私がそう感じているだけなのかは分からず、もう一つずつ確かめようという気持ちもなかった。
やがて集落から林へ戻る道が見えてきて、そこまで行けば少しは安心できると思ったのに、入口の近くまで来たところで、私はまた足を止めることになった。
来たときには田んぼの中に数体いた程度だった案山子が、今は村から外へ続く道の両側へ、十体ほど集まっていた。
横を向いたものもいれば、背中をこちらへ見せているものもあり、頭を少し垂らしたものや、片方の腕だけ低くなっているものも混じっていた。向いている方向も姿勢もばらばらなのに、道の左右へ集まっているというだけで、村を出ていく誰かを見送るために住人たちが家から出てきたように見えた。
――見送り。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、道の両側に立っているものが、さっきまでよりずっと人の集まりに近く感じられた。
目の前にいるのは木と竹に古着を着せただけの案山子だと分かっている。それでも、人が誰かを送り出すときの距離や立ち方に妙によく似ていて、別の出口を探すために村の奥へ戻る方がずっと嫌だった。
最終バスの時間も近づいている。
ここを抜ければ、あとは来た道を戻るだけだったので、私は一度息を整え、道路の中央を歩き始めた。
何体かの横を通り過ぎたところで、道の右側に立っている一体の服装が目に入った。
紺色の薄い上着の下にアイボリーの服、その下にはくすんだカーキ色のロングスカートがあり、横には大きな四角いポケットが付いていた。
朝、鏡の前で何度も見たばかりの形で、脇から斜めに入った縫い目の位置まで同じだった。
同じスカートだった。
しかも、紺色の上着とアイボリーの服まで朝の私とよく似ているのに、どれも長く雨ざらしになっていたように泥で汚れ、色褪せていた。
そこで、店で買ったときに聞いた言葉が頭へ戻ってきた。
『それ、今季の新作なんですよ。出たばかりで、うちにも入ってきたばかりなんです』
私が買ったのは、つい先週だった。同じものを誰かが持っていることはあっても、目の前のこれは、どう見ても出たばかりの服には見えなかった。
「……何、それ」
自分とほとんど同じ服装をした人の形が道の脇に立っているのだと意識してしまうと、その一体だけが急に他の案山子より人間に近く見えた。
それでも林へ戻るにはその前を通るしかなかったので、私は道路の中央から離れないように歩いた。
近くまで来れば、古い服の首元から藁がはみ出し、木の棒で作られた肩も不自然に角張っていて、作りそのものは他の案山子と変わらないのに、自分が朝選んだ服を着せられていると思うだけで、まともに顔のあたりを見ることができなかった。
私はその横を通り過ぎて林へ入り、集落が木々の向こうへ隠れてからは、転ばない程度に歩調を上げてそのまま来た道を戻った。
帰りは緩やかな上りになっていたので途中から息が切れたけれど、足を止めることなく進み、10分ほどしてようやく見覚えのある散策コースへ戻った。
方向を示す小さな標識も、沢沿いの舗装路も、来たときと同じようにそこにあり、その少し先からは中年の夫婦らしい二人がこちらへ歩いてきた。
「こんにちは」
女性の方が普通に笑って声を掛けてくれたので、私も「こんにちは」と返した。
たったそれだけのやり取りなのに、人の声を聞いた瞬間、胸の奥にずっと入っていた力が少し抜けた。
そこからは寄り道をせず、まっすぐ停留所へ向かい、到着したときには最終バスが来るまで10分も残っていなかった。
「危なかった……」
ベンチへ座り、緩んでいた髪を結び直しながら息を整えた。
ふと自分のスカートへ目を落とすと、朝履いてきたものは当然まだ新しく、裾に薄く土埃が付いている程度だった。さっき見たものと同じ形だったことを思い出しそうになり、私は膝の上へリュックを置いて、スカートから目を逸らした。
しばらくすると、道路の向こうから小さなバスがカーブを曲がってきた。
「ああ、よかった……」
今度は心から声が出た。
車内には高齢の女性が二人と、買い物袋を持った男性が一人いて、私は後ろの席へ座った。
バスが走り出すと、窓の外には田んぼや民家が次々と現れた。庭先で洗濯物を取り込んでいる人もいれば、畑の脇で軽トラックから荷物を降ろしている人もいる。
私は後ろの席から、そんな普通の夕方の景色を眺めながら、駅へ着くまでほとんど動かなかった。
*
家に着いたころには、午後8時を少し過ぎていた。
駅からの帰り道でコンビニに寄り、夕飯と温かい飲み物を買ってきたけれど、部屋へ戻ってもしばらく食べる気にはなれなかった。玄関で靴を脱ぎ、リュックを床へ下ろしたところで何となく自分の格好へ目が向き、紺色のパーカーとアイボリーの長袖、その下にあるカーキ色のスカートまで見たところで、村の出口に立っていた案山子の姿がそのまま頭へ戻ってきた。
「……着替えよ」
寝室へ入ってスカートを脱ぎ、いつもなら新しく買った服はハンガーへ掛けるのに、その日はパーカーと長袖も一緒に畳んで、クローゼットの奥へ押し込んだ。
シャワーを浴びて髪を乾かし、部屋着に替えてから夕飯を半分ほど食べると、ようやく少し落ち着いてきたので、私はベッドの上でスマホを開いた。
その日に撮った写真を最初から見ていくと、駅前の時刻表や田んぼ、道沿いの柿、散策コースから見えた山までは、いつもの休日に撮るものと何も変わらなかった。その先には、田んぼに立つ三体の案山子や水路、誰も歩いていない家並みが続き、やがて灰色のシャツを着た案山子が縁側へ座っている写真が出てきた。
「……ちゃんと写ってる」
画面を拡大すれば、白っぽい帽子も、庭木も、縁側の柱も、その前に投げ出された二本の棒もはっきり残っている。
帰りに同じ家の前を通ったとき、そこにはもう何もいなかった。
怖くなった私が別の家を見ていた可能性も考えたけれど、写真に写っている庭木や柱の位置まで覚えている以上、それは少し考えにくかった。少なくとも、あの場所に村があり、私がそこで案山子を見たところまでは、自分の記憶だけの話ではなかった。
地図アプリも開いてみた。
散策コースは表示されているし、右側の道へ入ったあたりもおおよその位置は特定できたけれど、そこから山側へ続くはずの道路は表示されていない。航空写真へ切り替えても山林が広がっているだけで、私が歩いた家並みも田んぼも、それだけの集落が収まるような開けた場所さえ見当たらなかった。
自治体の観光ページに載っている周辺図にも、それらしい集落名はない。
「何だったんだろ……」
昔の地図まで探そうとは思わなかったし、「地図にない村」や「案山子」なんて言葉で検索して、似たような怖い話を夜中に集める気にもなれなかった。
私はスマホを伏せて、その日は早めにベッドへ入った。
*
翌日は普通に会社へ行った。
朝から伝票を確認して、メールを返し、電話を取り、営業の人から頼まれた資料を直しているうちに昼になった。同僚と休憩室でお弁当を食べながら、近くのスーパーの惣菜売り場が広くなったという話を聞いていると、昨日の村だけが自分の生活から切り離された、妙に遠い場所の出来事だったように思えてくる。
夕方まで何事もなく働き、スーパーで買い物をして帰った。
最初に気になったのは、その夜だった。
夕飯を食べながら動画を見ていたのだけれど、途中から内容がほとんど頭へ入らなくなり、閉めたカーテンの向こうに誰かがいるような感じばかりが気になった。
私の部屋は2階にあるので、窓のすぐ外へ人が立つことはできない。それでも、薄い布一枚を挟んだ向こう側に人の形だけが残っているような感じがして、我慢できずに立ち上がった。
「もう……やだな」
一気にカーテンを開けると、窓の外にはいつもの駐車場があり、何台かの車が停まっていた。その向こうのアパートにも灯りがついていて、道路ではときどき車が通っているだけで、誰かがこちらを見上げているようなこともなかったので、疲れているせいだと思うことにして、その日は早めに寝た。
翌日の夜には、気配ではなく実際に人のようなものを見た。
カーテンを閉めようとして窓の外へ目を向けたとき、駐車場の奥、街灯の明かりが届くぎりぎりの場所に、大人くらいの背丈をしたものが立っていた。頭のあたりだけが白っぽく、服の色までは暗くて分からなかったけれど、近所の人ならそのうち歩き出すだろうと思って見ていても、しばらく同じ場所から動かなかった。
スマホを取ろうとベッドの方へ戻り、もう一度窓際へ来たときには、そこに人影らしいものは見当たらなかった。
自分が目を離したあいだに歩いていったのかもしれないし、最初から車の陰や標識を人間だと思い込んでいただけなのかもしれない。そのときはまだ、そういう説明を自分に繰り返すことができた。
けれど、その次の夜には自転車置き場の脇にいた。
屋根の下に並んだ自転車の少し外側へ、人ひとりくらいの高さをした細長いものが立っていて、前の日よりも明らかに建物へ近く、下半分には長いスカートのような形まで見えていた。
私は窓際で動けなくなった。
そこに人間がいたとして不自然ではない場所へ、人間ではないかもしれないものが立っている。
縁側や玄関前、道端に案山子が置かれていた、あの村と同じだった。
――近くなっている。
その考えが浮かんだ途端、背中が冷たくなった。
私はカーテンを閉め、その夜はもう窓を見なかった。
それでも、見なければ済むというものでもなかった。
次の日、仕事から戻ってアパートの入口へ入ろうとしたとき、建物の脇に誰か立っているような気がして振り返った。そこには誰もいなかったけれど、階段を上がっているあいだも下の踊り場から見られているような感覚が消えず、部屋へ入って鍵を掛けてからもしばらく玄関を離れられなかった。
夜になると、今度は廊下側の曇りガラスの向こうに人が立っているように見える瞬間があった。
はっきりした輪郭を確かめられたわけではない。
ただ、最初は駐車場の奥だったものが自転車置き場へ近づき、その翌日には建物の入口や廊下まで意識するようになっていることが、何より嫌だった。
自分が怖がっているせいなのかもしれない。
それでも、このまま一人で何日も確かめ続ける気にはなれなかった。
*
金曜日の夜、沙耶からメッセージが来た。
《今週もどっか行くの?》
普段なら、そろそろ次に歩いてみたい場所を調べているころだった。
《たぶん行かない》
送ると、すぐに、
《珍しい》
と返ってきた。
私はしばらく画面を見てから、
《起きてる?》
《電話していい?》
と続けて送った。
すぐに着信が来た。
「もしもし。どうしたの?」
「……この前行ったところの話、していい? ちょっと長くなるんだけど」
「いいよ。何かあった?」
私はベッドへ座り、日曜日にあったことを最初から話した。
散策コースの途中で地図にない道を見つけ、その先に誰もいない村があったこと。人がいるはずの縁側や玄関前、道端へ案山子が置かれていて、帰ろうとしたころから、それまでいた場所とは違うところで同じような案山子を見るようになったこと。そして村の出口には、自分とほとんど同じ服を着た一体まで立っていたこと。
沙耶は途中で何度か聞き返したものの、私が冗談を言っているとは思わなかったらしく、最後まで黙って聞いてくれた。
「それで、帰ってきてからも変なんだよね。外に誰かいるような感じがして、何回か本当にそれっぽいものも見た」
「人じゃないの?」
「そう思いたいんだけど……昨日見たのは、長いスカートみたいなの履いてた」
口にすると、自分でもひどくおかしな話をしていると思った。
それでも沙耶は笑わず、少し間を置いてから、
「奈緒、ちゃんと寝てる?」
と聞いた。
「一応。でも、寝つき悪い日は増えた」
「全然大丈夫じゃないじゃん」
「だから電話してる」
「それはそうか」
少しだけ笑えた。
そんな普通の返事をされただけで、ここ数日ずっと張っていた気持ちが少し緩んだ。
しばらく話したあと、沙耶は「今日そっちへ行こうか、それとも奈緒が来る?」と言った。
「もう11時近いよ」
「明日休みじゃん。それに奈緒、今一人でカーテン開けられる?」
答えられなかった。
「でしょ。来なよ。駅から歩かないでタクシー使って」
「……分かった」
着替えと最低限のものだけバッグへ入れ、私はタクシーを呼んだ。
*
沙耶の部屋へ着いたのは、日付が変わる少し前だった。
「ほんとに来た」
「来いって言ったのそっちでしょ」
「まあそうだけど。何か温かいの淹れるよ」
沙耶がキッチンへ向かうのを見ながら靴を脱ぐと、それだけで少し安心した。
彼女の部屋へ来るのは初めてではなく、学生のころから何度も泊まっている。
テレビの横に置かれた小さな観葉植物も、冷蔵庫の脇に買い物袋を溜める癖も知っていて、自分の生活とは別の、よく知っている日常の中へ入ったことが嬉しかった。
温かい飲み物を飲みながら、スマホに残っている写真も見せた。
沙耶は最初の田んぼから順番に見ていき、灰色のシャツを着た案山子が縁側へ座っている写真で指を止めた。
「これが、帰りにいなくなってたやつ?」
「そう。最初、人だと思って声掛けそうになった」
「これは間違えるかもね」
例のスカートについても話すと、沙耶は最初、同じものを買った人がいただけではないかと言った。
私もそれだけならそう思ったはずだった。けれど、買ったのはほんの一週間前で、しかも店員さんから今季出たばかりの新作だと聞いていたこと、その案山子が着ていたものだけは何か月も雨ざらしになっていたように汚れ、色褪せていたことまで説明すると、沙耶は画面を見たまま黙った。
「その服、まだ持ってるの?」
「クローゼットに押し込んでる」
「……なんか、気味が悪いね」
そのあと二人で布団へ入った。
沙耶が隣にいると、久しぶりにちゃんと眠れそうな気がした。
ここは私のアパートから車で20分以上離れている。もし、ここ数日見ていたものが自宅の周辺だけにあるのなら、少なくとも今夜は何も起きないはずだった。
夜中に一度目を覚ましたとき、時計は午前2時を少し過ぎていた。
水を飲んで布団へ戻ろうとしたところで、カーテンの隙間から街灯の明かりが見え、その向こうにあるものへ目が止まった。
道路を挟んだ向かい側の歩道、街路樹のすぐ横に、誰かが立っている。
街灯の黄色い光の中で、紺色に見える上着の下には白っぽい服があり、脚のあたりには長いスカートが垂れていた。さらに、頭の横からは黒いものが肩より下まで伸びていて、私は無意識に自分の髪へ触れた。
村の出口で見た案山子には、あんなものはなかった。
「沙耶」
声を掛けると、布団の中で彼女が動いた。
「どうしたの?」
「外。向かいの木の横」
沙耶が起き上がり、私の隣から窓の外を見た。
最初は何を見ればいいのか分からない様子だったけれど、しばらくすると顔から眠気が消えた。
「……あれ、人?」
「分かんない。でも、私が見てたの、たぶんあれ」
それは歩道に立ったまま、こちらを向いているようにも、街路樹の方を向いているようにも見えた。
沙耶が「もう閉めよう」と言ったので、私たちはカーテンを閉じた。
布団へ戻っても、もちろんすぐには眠れなかった。
どちらからともなく会話が途切れ、しばらく静かなままでいたけれど、時間が経つほど、あれがまだ同じ場所にいるのか、それとももういなくなったのかということばかりが気になってきた。
「……一回だけ見る?」
沙耶が小さく言った。
「一緒に」
二人で窓際へ行き、カーテンを少しだけ開けた。
街路樹の横には、もう何もいなかった。
一瞬だけ胸の奥が緩んだものの、沙耶がそのまま視線を下へ動かし、カーテンを持っていた手を止めた。
「奈緒。下」
道路の向こうではなく、こちら側の建物へ入る小さな入口の脇に、細長い人型が立っていた。
さっきよりずっと近かった。




