案山子の村・前編
「これ、着ていこうかな……」
日曜日の朝、私はベッドの上に広げたスカートを眺めながら、しばらく迷っていた。
前の週に買ったばかりの、くすんだカーキ色のアウトドアスカートだった。見た目は普通のロングスカートに近いけれど、生地は軽くてよく伸びるし、左右には大きなポケットも付いている。
店で手に取ったとき、店員さんから「街歩きにも軽いハイキングにも使えますよ」と勧められた。ちょうど秋物が並び始めたころで、試着室へ持っていこうか迷っていると、
『それ、今季の新作なんですよ。出たばかりで、うちにも入ってきたばかりなんです』
とも言われた。
そう言われると余計によく見えてしまうのだから、我ながら単純だと思う。実際に試着してみると思っていたより可愛かったし、普段着にも使えそうだったので、少し迷った末にそのまま買ってしまった。
今日歩くのは本格的な山道ではないし、下に黒いレギンスを合わせれば動きにくくもなさそうだった。それでも、いつものパンツの方が楽かなと一度は思ったのだけれど、せっかく買ったばかりの服をそのままクローゼットへ戻すのも少し惜しい。
誰かに見せる予定があるわけではないし、現地で知り合いに会うことなんてまずない。それでも、新しい服を着て出かける日は、それだけで少し嬉しかった。
28歳にもなって、一人で田舎を歩くだけの日に鏡の前で何度も服を合わせているのもどうなんだろう、とは思う。でも、そういう小さなことで休日の気分が変わるのなら、それくらいはいい気がした。
「うん。今日はこれでいいかな」
薄いアイボリーの長袖に、朝夕が冷えたときのために紺色の軽いパーカーを合わせた。肩より少し下まである髪を後ろで一つにまとめ、鏡の前で横を向いてみると、いつもの休日より少しだけちゃんと出かける人に見えた。
平日は、市内の外れにある住宅設備の会社で事務をしている。
人間関係に困っているわけでも、仕事が嫌いなわけでもないけれど、社員数が少ないぶん年齢の近い人もあまりおらず、朝出社して伝票やメールを確認し、電話を取って資料を作っているうちに夕方になるような、良くも悪くも代わり映えのしない毎日だった。
だから休日くらいは少し違う景色が見たくなって、ローカル線で降りたことのない駅まで行き、そこから路線バスへ乗って、知らない町を歩くことがある。
観光案内に大きく載っている場所を目指すというより、昔は何かのお店だったらしい古い建物や、住宅地の奥に残っている小さな神社、川沿いを歩いているうちに偶然見つける古い橋なんかを見る方が好きだった。
鏡の横に置いていたスマホが震えたので画面を見ると、友人の沙耶からだった。
《奈緒、今日またどっか行くの?》
昨日、散策コースのことを少し話したのを思い出しながら、
《うん。前に言ってたところ》
と返すと、すぐに既読がついた。
《また一人?》
《また一人》
《ほんと好きだね》
《好きなんだから仕方ないでしょ》
笑っているスタンプが返ってきたので、私も適当なものを一つ返した。
沙耶とは学生のころからの付き合いで、私がこういう出かけ方をすることもよく知っている。何度か一緒に歩いたこともあるけれど、私が古い建物を見つけるたびに立ち止まったり、予定になかった横道を覗きたがったりするので、「奈緒と散歩すると全然進まない」と笑われてからは、一人で行くことの方が多くなった。
《写真送ってね》
《いいのあったら送る》
そう返してからスマホを新しいスカートのポケットへ入れてみると、思っていた以上に深くて使いやすかった。
「やっぱり買って正解だったかも」
まだ家から一歩も出ていないのに少し嬉しくなりながら、水とモバイルバッテリー、折り畳み傘、それから途中で食べるパンを小さなリュックへ入れた。
*
その日は9月の終わりで、朝からよく晴れていた。
自宅の最寄り駅から普通列車に50分ほど乗り、小さな駅で降りる。そこから地域バスへ乗り換えて、さらに20分ほど山側へ入ったところに、今回歩いてみたかった散策コースがあった。
自治体の観光ページに小さく紹介されている程度の場所で、二つの集落のあいだを古い道や田園地帯を通って歩く、全長6キロほどのコースだった。
「普段履きの運動靴でも歩けます」と書かれていたので、本格的な登山というより、私がいつもしている町歩きの延長に近い。
駅前で地域バスの時刻表を確認すると、休日は思っていた以上に本数が少なく、帰りは17時過ぎに駅へ向かう便が最後だった。
「これは撮っとこ」
私は時刻表をスマホで撮影した。地方を歩いていると電車よりバスの方が困ることが多く、一本逃したら30分待ちという話では済まないので、帰りの便だけは先に分かるようにしておくのがいつもの癖だった。
バスに20分ほど揺られて山間の小さな停留所で降りると、そこで外へ出たのは私一人だった。運転手さんに軽く頭を下げて道路へ立つと、バスはすぐに扉を閉め、緩い坂を上って見えなくなった。
道路の向こうには田んぼが広がっていて、すでに稲刈りを終えた場所もあれば、まだ黄金色の稲が残っている場所もあり、風が吹くたびに穂先がゆっくり揺れていた。空気も少し乾いていて、歩くにはちょうどよかった。
何歩か歩いてからスカートの裾を軽く整えてみると、思っていたより脚にまとわりつかず、ポケットへ入れたスマホも歩く邪魔にはならなかった。
「これ、結構いいかも」
一人暮らしが長くなったせいなのか、私は一人でいるときによく独り言を言うようになった。
きれいな景色を見れば「いいな」と言うし、思っていたより坂が急なら「これは聞いてない」と口にする。思ったことを気兼ねなく口できることも、一人で散策することが好きな理由の一つなのかも知れない。
散策コースの入口はすぐに見つかった。
集落を抜けた先に簡単な案内板が立ち、そこから農道を通って林の縁へ入っていく。
観光地の遊歩道ほどきれいに整備されてはいなかったけれど、ところどころに方向を示す小さな標識があり、普通に歩いていれば迷うような道ではなかった。
私は道端の無人販売所に並んだ小ぶりのナスを眺めたり、民家の庭で色づき始めた柿を写真に撮ったりしながら、のんびり歩いた。
途中、田んぼの向こうまでよく見渡せる場所があったので、沙耶へ写真を一枚送った。
《今のところ、すごく平和》
しばらくして、
《散歩なんだから普通そうでしょ》
と返ってきて、私は一人で笑った。
昼を少し過ぎたころには道沿いの小さな休憩所でパンを食べ、歩いているうちに緩んできた髪を結び直した。それから帰りのバスの時刻も一度確認し、まだかなり余裕があるのを見て、また歩き始めた。
急いで回る場所でもないので、気になるものがあれば足を止め、何もなければそのまま進む。普段は同じ机に座って一日を過ごしている私には、そうやって自分の好きなところで立ち止まれる時間がちょうどよかった。
午後2時半を少し回ったころ、林沿いの道が緩やかに左へ曲がる場所で、右側へ分かれている細い道を見つけた。
散策コースを示す標識は左を指しているけれど、右側にもちゃんと道らしいものが続いている。
「あれ、こっち何だろう」
立ち止まってスマホの地図を開いてみたが、その方向には山林が表示されているだけで、道を示す線はなかった。
それでも目の前にある道は獣道と呼ぶようなものではなく、軽トラック一台くらいなら通れそうな幅があり、ところどころには古い舗装も残っていた。草も道の中央まで伸びておらず、何年も誰も通っていない場所には見えない。
田舎を歩いていると、地図に載っていない農道や作業道を見かけることは珍しくない。以前にも似たような道の先に畑や民家があったので、このときも特別なものだとは思わなかった。
柵もなければ立入禁止の表示もなく、時計を確認してもまだ15時にはなっていなかったので、私は少し迷った末に「15分くらいならいいかな」と呟いた。
何もなければそのまま戻ればいい、その程度の気持ちで右側の道へ入り、山の斜面に沿って緩やかに下っていった。
左右には杉や雑木が続いていたけれど、深い山へ入っている感じはなく、午後の日差しも木々の間から道路へ落ちていた。道幅もすぐには狭くならず、人も車も絶対に通らない場所という感じではない。
10分ほど歩いたころには、さすがに少し長く来すぎた気がしてきて、「これで何もなかったら戻ろう」と考え始めていた。ちょうどそのころ、前方の木々の間が少しずつ明るくなり、さらに進んだところで急に視界が開けたので、私は思わず足を止めた。
「わあ……」
山に囲まれた小さな盆地のような場所に、集落があった。
田んぼと畑の間を細い道路が通り、その両側には木造の家が並んでいる。古い家ばかりではなく、外壁を張り替えたような比較的新しい住宅も混じり、水路には澄んだ水が流れていた。
「こんなところあったんだ」
思っていた以上にきれいな場所だったので、そのときの私は本当に嬉しかった。
地図に載っていなかったことよりも、知らない道の先で思いがけず集落を見つけたことの方が面白くて、今日ここまで来てよかったと思ったくらいだった。
廃村には見えなかった。
家の屋根が崩れているわけでも、庭が荒れ放題になっているわけでもなく、畑には野菜が残り、水路には今も水が流れている。
入口近くの田んぼには昔ながらの案山子が三体立っていて、一体は麦わら帽子を被り、もう一体には色の褪せた白いシャツが着せられていた。木や竹を組んだ素朴なもので、家にあった古着をそのまま使ったような姿が、周囲の田んぼによく馴染んでいる。
「ちゃんとした案山子、久しぶりに見たかも」
私は田んぼ越しに写真を一枚撮ったが、このときは不気味だなんて少しも思っていなかった。
*
集落へ入ると、山から流れてきているらしい水路の脇には古い石垣が残り、家々の庭には柿や梅の木が植えられていた。農作業小屋には錆びた道具が掛かり、玄関の上に文字の消えかけた看板が残っている家もある。
こういうところを見つけると、一つ先には何があるのだろうと気になってしまう。
最初は15分だけのつもりだったのに、少し先に小さな橋が見えればそこまで行き、その向こうに古い家があればまた立ち止まるということを繰り返しているうちに、私は思っていた以上に集落の奥まで入っていた。
そのころになって少し気になり始めたのは、ここへ来てからまだ一人も住人を見ていないことだった。
最初のうちは、たまたま皆家の中にいるのだろうと思っていたけれど、休日の午後なのに畑にも庭にも人影がなく、車が通ることもなかった。家の中からテレビや話し声が聞こえてくるわけでもなく、犬を飼っていそうな家が何軒かあるのに、鳴き声さえ聞こえない。
「みんな出かけてるのかな……」
口にしてみても、このくらいの集落の人たちが揃って留守にしているというのは、少し考えにくかった。
ただ、場所そのものが死んでいるような感じはしなかった。
水路では絶えず水が流れ、風が吹くと稲が擦れ合い、草むらからは虫の声が聞こえている。山の方では鳥も鳴いていて、自然の音だけを聞けば、ごく普通の秋の午後だったからこそ、その中から人間の生活音だけが抜け落ちていることが少しずつ気になってきた。
そんなことを考えながら歩いていると、右側の畑に二体の案山子が立っているのが目に入り、一体には赤い布が首元へ巻かれ、その少し先の家庭菜園にも別の案山子があった。
そのあたりまでは何もおかしくなかったのだけれど、次の家では畑から離れた砂利の庭の真ん中に、男物の作業着を着せた案山子が立っていた。
「そこだと鳥、あんまり来なくない?」
家の人の遊び心なのだと思えば、そのくらいならまだ面白く見えたので、私は少し笑った。
けれど、その次の家では、縁側に人が座っていた……と思い、私は反射的に軽く会釈しながら、
「あ、こんにちは……」
と声を掛けかけた。
近づくにつれて、それが灰色のシャツを着せられた案山子だと分かった。脚に見立てた二本の棒を庭側へ投げ出し、白っぽい帽子を深く被せられ、片方の腕は柱へ預けるように置かれている。
「もう……びっくりした」
誰も見ていないのに少し恥ずかしくなり、私は髪を耳のあたりへ直すような仕草をしてから、道路側から写真を撮った。
スマホの画面で見ると、誰かが冗談半分に置いた飾りのようにも見える。
それでも実際にその場へ立っていると、人のいない家の縁側で誰かが一人、黙って道を眺めているようで、あまり長く見ていたいものではなかった。
その先へ進むと、案山子の置かれている場所はさらに妙になり、ある家の玄関前には大人ほどの大きさのものと、それより少し小さなものが二体並んでいた。
少し離れた道端では別の二体が互いに向き合うように置かれていて、遠目には本当に住人同士が立ち話をしているように見える。
最初は案山子が多い村なのだと思っていたけれど、しばらく歩いているうちに、気になるのは数ではなく置かれている場所なのだと分かってきた。
田んぼや畑なら鳥除けとして理解できるし、家庭菜園に立っていても不思議ではないのに、縁側へ座らせたり、玄関前へ大小二体を並べたり、道端で向かい合わせたりする理由はない。
しかも、ここへ来てから私は一人の人間にも会っていない。
人がいなくなった場所に案山子が置かれているというより、人がいるはずの場所に、その代わりのように案山子がいるのではないか。そう考えてしまった途端、それまでただの古着と木の棒だったものが、少し違うものに見えてきた。
「……これ、ちょっと嫌かも」
無意識にリュックの肩紐を握りながら周囲を見回すと、思っていた以上にたくさんの案山子が視界へ入った。
畑の中から山側を向いているものもあれば、家の方へ身体を向けているものもあり、道端で向かい合っている二体のように、互いを相手にしているような置き方のものもある。
それぞれ別の方向を向き、立ち方や座り方まで違っているせいで、鳥除けが無造作に置かれているというより、村のあちこちで別々のことをしている人たちの姿に近く見えた。
――この人(案山子)たちは、ずっと前からここで普通に暮らしている。
そんな考えがふっと浮かんでしまい、自分で考えたことなのに急に落ち着かなくなった。
集落の少し奥には、古いバスの待合所らしい小さな屋根があった。色の抜けた看板にはほとんど文字が残っておらず、中には木製のベンチが置かれている。そのベンチにも古びたシャツを着た案山子が一体座っていたので、私は少し迷ってから写真に残した。
このころには、きれいな景色を記念に撮っているというより、帰ってから自分が見たものを確認したいという気持ちの方が強くなっていた。
撮影画面に表示された時刻を見ると15時50分を過ぎていて、私は思わず「え、そんなにいた?」と声を出した。
最初に脇道へ入った時間を思い返すと、集落を見つけてから、もう少し先まで、あの家まで、と歩いているうちに、思っていた以上に時間が経っていたらしい。
最終バスは17時過ぎで、ここから例の分かれ道まで戻り、さらに散策コースを歩いて停留所へ向かわなければならない。間に合わない時間ではなかったけれど、もう奥まで見に行く余裕はなかった。
本当なら、この先がどうなっているのか少し気になっていたし、誰か住人に会えれば村の名前も聞いてみたかった。それでも、そのために最終バスを逃すほどのことではない。
「はい、今日はここまで」
自分に言い聞かせるようにそう言って、私は来た道へ引き返した。
ちょうどそのころ、太陽が西側の山へ近づき始めていた…。




