パーキングエリアの止まらない蛇口
俺は、高速道路の施設清掃を請け負っている会社で働いている。
担当しているのは県境に近い山間部の小さなパーキングエリアで、売店と自動販売機、それにトイレがあるくらいの場所だ。昼間でもそれほど混雑するところではなく、夜になると利用者はさらに減って、日付が変わるころには大型トラックが何台か駐車場に停まっているだけということも珍しくない。
俺はそこで夜間の清掃をしていて、ゴミ箱を回収したり、休憩スペースを拭いたり、トイレを順番に見て回ったりしている。設備に異常があれば、その場で分かる範囲を確認してから担当へ連絡するのも仕事のうちだった。
働き始めて4年ほどになるが、その夜までは、妙なものを見たことなど一度もなかった。
*
その日は平日で、いつも以上に利用者が少なかった。午前1時半を過ぎるころには人の出入りもほとんどなくなり、男子トイレにも、ときどきトラックの運転手らしい人が入ってくる程度だった。
午前2時を少し回ったところで、俺は男子トイレの清掃を始めた。個室を確認して小便器の前を拭き、最後に洗面台を掃除してから、自分も真ん中の洗面台で手を洗った。
洗面台は3つ並んでいて、そのうち入口から一番遠いものだけ、少し古い型の蛇口が残っている。手を拭いて清掃用具を片づけようとしたとき、その一番端の洗面台から水の流れる音が聞こえた。
さっきまで出ていなかったはずなので、誰か入ってきたのかと思って振り向いたが、トイレの中には俺しかいなかった。見ると、蛇口から細い水が途切れずに流れている。
「閉め忘れたかな」
自分でそう言いながら蛇口を締めると、水は普通に止まった。
蛇口の締まりが悪くなっているなら、朝になったら報告すればいい。そのときはその程度に考えて、俺は清掃用具を持ってトイレを出た。
それから、5分も経っていなかったと思う。
外のゴミ袋を交換して男子トイレの前まで戻ってくると、中からまた水の音が聞こえてきた。
少し嫌な感じはしたが、水が出っぱなしなら放っておくわけにもいかない。中へ入って確認すると、さっきと同じ一番端の蛇口から、同じくらいの勢いで細く水が流れていた。
俺は蛇口を何度か開け閉めしてから、今度は少し強めに締めた。水が止まったことを確かめ、そのまま洗面台の下まで覗いてみたものの、床は乾いていて、配管から漏れている様子もない。
やはり蛇口の方だろうと思いながら身体を起こしたとき、正面の鏡に何かが映った。
一番奥の個室の前に、小さな人が立っている。
最初は子どもかと思った。背丈は小学生くらいしかないのに、顔だけは明らかに老人で、白っぽい皮膚には深い皺が刻まれ、濡れた髪が額や頬へ張りついている。着ている服も肩から裾まで水を吸ったように重く垂れ、その足元には身体から落ちたような水滴が見えた。
老婆がいた。
俺は反射的に振り返ったが、一番奥の個室は開いたままで、その前にも中にも誰もいなかった。何が起きたのか分からないまま恐る恐る鏡へ顔を戻すと、そこにももう老婆の姿はなかった。
しばらくその場から動けなかったものの、夜勤をしていれば午前2時ごろは一番眠気が来る時間でもある。鏡に清掃用具か何かが映り、人の姿に見えただけなのだろうと考えることにして、俺はトイレを出た。
*
そのあとは、わざと男子トイレから離れて作業をした。休憩スペースのテーブルを拭き直し、外のゴミ箱ももう一度確認してから戻ったのだが、入口へ近づいたところで、また同じ水音が聞こえてきた。
今度はさすがに、すぐ中へ入る気にはなれなかった。
さっき鏡に映った老婆を思い出しながら入口の前でしばらく立っていたが、それでも結局は仕事だから確認するしかない。意を決して中へ入ると、一番端の蛇口からまた細い水が流れていた。
俺はなるべく鏡を見ないようにしながら蛇口を締め、水が止まったのを確認してから、そのまま離れようとした。
けれど、結局見てしまった。
鏡の中に、また老婆が立っていた。
今度は一番奥の個室の前ではなく、個室の列から少し出たところにいる。さっきより明らかに近くなっているのを見た瞬間、背中が強張り、俺はまた振り返った。
やはり誰もいない。
鏡へ戻したときには、老婆も消えていた。
二度続けば、見間違いだけでは片づけにくい。スマートフォンで時刻を確認すると午前2時20分を過ぎていたが、寝不足というわけでもなく、酒を飲んでいるはずもない。同じ老婆を二度も、同じ場所で見間違えるものだろうかと思った。
そして、もう一つ気になることがあった。
どちらも、水を止めたあとだった。
しばらくは男子トイレへ戻らず、入口の外から何度か中の様子を窺っていた。
誰かが出入りすることもなく、水の音も聞こえないままだったので、このまま朝まで何もなければそれでいいと思い始めたころ、静かな施設の奥から再び水音が響いてきた。
放っておけばいいという考えも浮かんだが、設備の異常を知りながら水を流しっぱなしにしておくわけにもいかない。
もし本当に蛇口が壊れているのなら、それはそれで処置しなければならなかった。
嫌々ながら中へ入り、また同じ蛇口を締める。
顔を上げると、鏡の中の老婆は洗面台の列の端まで来ていた。数メートルしか離れておらず、濡れた髪の先から水滴が落ちているのまで分かる距離だった。
俺はすぐに振り返ることもできず、鏡の中の老婆を見続けていた。
そのとき、初めて妙なことに気づいた。
老婆はこちらを見ていなかった。
顔を少し横へ向け、俺とは別の場所をじっと見ている。その視線を追っていくと、一番奥の個室へ行き着いた。
直後、そのあたりから、
「ごぽ……」
と低い音がした。
便器か排水管の中で空気が動いたような音だったので、俺もそちらへ顔を向けたが、開いた個室の中には何も見えなかった。
もう一度鏡を見ると老婆はいなくなっていて、しばらくすると、止めたばかりの蛇口からまた水が流れ始めた。
すると、それきり奥の個室から音はしなくなった。
ここまで来ると、さすがに普通の故障だと考えるのは難しかった。
それでも誰かを呼んで、「鏡に老婆が映るんです」などと説明するわけにもいかない。
少なくとも蛇口の異常だけは設備不良として処理しようと思い、普通に締めても勝手に水が出るのなら、洗面台の下にある止水栓を閉めてしまえばいいと考えた。
俺は端の洗面台の前へしゃがみ込み、下の扉を開けた。配管の奥にある止水栓を確認して手を伸ばしかけたところで、不意に誰かから見られているような感覚が背中を這い上がってきた。
嫌な予感がしたまま、ゆっくり顔を上げる。
鏡の中では、老婆がすぐ後ろまで来ていた。
これまでとは比べものにならないほど近く、濡れた顔の皺も、細い首も、水を吸って肩へ張りついた服もはっきり見える。
しかも今度は、老婆もこちらを見ていた。
目が合った。
何かされると思って身体が固まったが、老婆は襲いかかってくることも、笑うこともなかった。ただ俺と目を合わせたまま、ゆっくり首を横に振った。
その仕草は、これ以上やるなと言っているようにしか見えなかった。
怖いという気持ちはあったが、それまで何度も現れている得体の知れないものの言うことを聞く方が危ないのではないか、という考えもあった。少なくとも、そのときの俺には老婆が何をしたいのか分からなかった。
俺はそのまま止水栓を閉めた。
蛇口から流れていた水は徐々に細くなり、やがて完全に止まった。恐る恐る鏡を見ると、さっきまであれほど近くにいた老婆も消えていた。
*
静かだった。
それまで何度も耳にしていた水音がなくなったせいか、夜中のトイレが急に広くなったように感じられた。
俺はしばらく鏡を見ながら待っていたが、老婆は戻ってこず、それ以外の異変も起こらなかった。
結局、設備の不具合と疲れによる見間違いが重なっただけだったのかもしれないと思い始めた、そのときだった。
奥の個室から、
「ずる……」
と音がした。
俺はその場から動かず、鏡越しに一番奥の個室を見た。扉は先ほどと同じように半分開いているが、中は暗く、便器そのものまではよく見えない。
少し待っても次の音がしなかったので、聞き間違いだったのかと思いかけたころ、
「ずる……」
もう一度、同じ音がした。
今度はさっきよりはっきり聞こえた。
配管の中で水が動いている音ではなく、何か濡れた重いものを、狭いところからゆっくり引きずり上げているような音だった。
「ずる……ずる……」
続けて聞こえた音は、明らかに一番奥の個室からしていた。
俺はそこへ近づくこともできず、さっきまで起きていたことを頭の中でもう一度たどった。
蛇口から水が出るたびに俺が止め、そのたび老婆は洗面台へ近づいてきた。水が止まったあとには奥で音がして、蛇口から再び水が流れ始めると、その音は消えていた。
そして最後に、老婆は俺を見ながら首を横に振った。
そこでようやく、それまで考えていたこととは別の可能性が浮かんだ。
あの老婆は、俺の方へ来ていたんじゃないのかもしれない。
俺は恐る恐る鏡を見た。
老婆はまた、俺のすぐ後ろにいた。
今度も振り返れば身体が触れそうな距離だったが、老婆はこちらを見ていなかった。俺の肩越しに、一番奥の個室だけをじっと見ている。
その顔を見た瞬間、何となく分かった。
老婆は怒っていなかった…
笑ってもいなかった…
怯えているようだった。
俺は反射的にしゃがみ込み、閉めたばかりの止水栓へ手を伸ばした。
指が震えてなかなか回らないあいだにも、背後では「ずる……」という音が続いており、最初より少しずつ大きくなっているように聞こえた。
力を入れて止水栓を開け直すと、蛇口から細い水が流れ始め、すぐに勢いを増して洗面台へ落ちた。
水音がトイレ中へ広がるのと同時に、奥の個室から聞こえていた音が止まった。
完全に。
鏡を確認すると、老婆の姿も消えていた。
何が起きているのかを確かめようという気にはならなかった。
俺は清掃用具をその場へ残したまま男子トイレを出ると、休憩スペースを抜け、そのまま自動ドアから外へ出た。
駐車場には大型トラックが何台か停まっていて、その向こうを高速道路の車が一定の間隔で走り抜けている。
夜の冷たい空気も、遠くを通る車の音も、いつもと何も変わらなかった。
いつもの夜だった。
それなのに、背後にある男子トイレだけが、もう同じ場所には思えなかった。
外まで出ても、水の流れる音はかすかに聞こえていた。普段なら水を出したままにしておくなど仕事としてありえないし、気づけば必ず戻って止める。
それでも、その夜だけは戻らなかった。
背中の向こうで、水はずっと流れていた。
俺はもう、止めなかった。




